世界樹とサル
Rootport
一、運命の夜
盗み聞きするつもりはなかった。
「もう殺すしかないんじゃないかい」
ぎくりとして、わたしは足を止めた。
草履の下で、床板がギュッと鳴る。
吊るされた
縄ばしごで結ばれた、木と紙で作られた家。それが箱家だ。
ひときわ古びた一棟がこの村の社殿だった。
「あたしらは充分に手を尽くしたさ。でも、もうダメさね」
声は社殿から聞こえてくる。皮肉っぽい女の声。
「みんな、あの男の思う通りになってしまった。あたしだって、こんなことは言いたくない。でも、他に方法はないよ。あの男を殺すしかなかろう」
社殿は村の中心だ。
いや、中心だったと言うほうがいいだろう。
あの
かつて、社殿は祭事を取りしきり、村人たちの信心を受け止めていた。
今でも心の平穏が欲しいとき、村人は社殿を訪れる。
「殺す」なんて物騒な言葉が似合う場所ではない。
「私たちの全員のためさ。可哀そうだが、彼には死んでもらうしかあるまい」
間違いない、アメノ様の声だ。
村に、祭りの時期を知らせる人。死後の魂と対話できる唯一の人物。それが「
──でも、どうして?
たしかにアメノ様は、語り女としては俗っぽいと言うか、信心の浅そうな雰囲気があった。
気に入った若い衆を社殿に連れ込んでいる……なんてウワサもある。
それでも、誰かを殺めるような人ではない。少なくとも、わたしはそう信じていた。
そっと社殿に近づき、格子戸の隙間から中を見る。
アメノ様を囲んで数人の大人が集まっていた。
お母さんの姿がないことに、わたしはホッと胸をなで下ろす。
「いいかい、あんたたち」
アメノ様は声を低くする。
「村の連中は日ごとにあの男に魅入られている。私の話に耳を貸さなくなっている。じきに私たち全員が生きていかれなくなるよ。私たちはあの男に殺されるのさ」
集まった男女が、ごくりとつばを飲む。
「だから、そうなる前に手を下さにゃならん。今ならまだ間に合う。あの男が死んだら村の連中は落胆するだろうね。でも、それも初めのうちだけさ。時が経てばきっと分かってくれる。必要な死だったのだと。彼は生きていてはいけない人間だったのだと」
大人たちは「そうだ、そうだ」と口々に言った。
「語り女の役割は人を生かすこと。その語り女の私が殺生の算段をたてるなんてね。皮肉なものさ」
アメノ様はニタァと笑った。
わたしは格子戸から離れた。
知らせなくちゃ、と思った。
足音を立てずに社殿から立ち去ろうとして、呼び止められた。
「カガミちゃん?」
ふり返ると、ウヅメがわたしを見ていた。
「カガミちゃん、こんなところで何をしているの?」
「ううん、なんでもないよ、ウヅメ。液かすを捨てた帰り道に、通りがかっただけで……」
「そっかあ」とウヅメはつぶやく。
まんまるの瞳と、おでこで切りそろえた前髪。
わたしと同い年のはずなのに、ウヅメはずっと幼く見える。
語り女の見習いとして修行をしているせいだろうか?
前に会ったときよりも肌はますます白く、くちびるは狂おしいほどに紅かった。
「ねえ、ウヅメ。あなたは……」
言いかけて、わたしは口ごもる。
──あなたはアメノ様の計略を知っているの?
そんなこと訊けるわけがない。
語り女として跡を継ぐために、ウヅメは四六時中、アメノ様のそばにいる。
アメノ様の恐ろしい考えも、きっと聞かされているだろう。
「あ、あのさ……わたしがここにいたことは、秘密にしてね」
「……いいけど、どうして?」
「どうしても」
するとウヅメは、くすぐったいように笑った。
「へんなカガミちゃん」
彼女にあわせて、わたしも笑ってみせる。
ウヅメの屈託ない顔を見ていると、もしかしたら……という考えが頭をよぎった。
アメノ様は教え子に何も伝えていないのではないか。
ウヅメは師範の計略を知らないのではないか。
そんな、まさかね。
「カガミちゃん、今度また遊びに行ってもいい?」
「え? ……あ、ああ、うん。もちろん」
「村のお祭りの準備が始まったら、そんな時間はなくなっちゃうと思うの。だから、その前に。カガミちゃんのお家に遊びに行くね。お母さまにも久しぶりにご挨拶したいな」
「わかった。お母さんに伝えておくよ」
「ありがとう、カガミちゃん。あと、それから……」
社殿の中で、人の動く気配があった。
「ごめん、ウヅメ。わたしはもう行かなくちゃ」
ウヅメは泣き出しそうな顔をする。
社殿の中では集まった大人たちが解散しようとしている。
みしみしと床板のたわむ音。
「だけどカガミちゃん、聞いてほしいことが……」
「こんど会ったときに聞くよ。それじゃ」
大人たちが建物から出てくる。
その直前に、わたしは社殿から離れることができた。
縄ばしごでつながれた箱家が夜風に揺られている。
蜘蛛の巣のように張り巡らされた吊り橋をわたしは一目散に走った。
──知らせなくちゃ、あの
彼の美しい金髪と、宝玉のような濃緑の瞳を思い浮かべた。
彼を殺すなんて、そんなの絶対に許さない。
サルは、わたしが守るんだ。
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