1-01『魔女と白雪』

「なぁ......何時いつになったら着くんだ?」

 白雪が山を覆い、ただの山が雪山に変わる時期。

 ぽつぽつと足跡を残しながら、木々の間をゆったりと縫うように歩く二人組が居た。

「もう少しだよ、えっと......」

「リリィだ。ったく、良い加減名前くらい覚えてくれよ」

 リリィと呼ばれた──否、名乗った方が、もう片方の顔を見上げる。背丈はリリィの二倍程はあろうか、背には布に包まれた棒のようなものを背負っている。結構な大柄......という訳ではない。単にリリィの身長が、人間の基準で言えばかなり小さいというだけの話だ。

「ごめんね......俺、名前覚えるのって結構苦手でさ......」

 シャクシャクと音を立てる雪の道を、狭い歩幅で歩くリリィを横目に、その少年は申し訳なさそうに肩を落とした。

「そ、その顔やめろよ、怒るに怒れないだろ......もういいから、さっさと顔上げて──」

「──あ、着いたよ」

 山の天気ばりの気変わりに戸惑うリリィを置き去りにしたまま、少年は前方に向けて指を差す。その先には、屋根に丸々と雪を被った古屋がぽつりと一件。

「あれが──『魔女』の家だ」


 少年がノックすると、ガチャガチャと何やら物の擦れる音がして、それから三秒数えるか否かの間に扉は開いた。

「あ〜はい、ようこそいらっしゃいましてぇ......って、あれ? エーリク、今日は何だか可愛いのを連れてるね?」

 語尾に大きな欠伸を欠いた魔女は、陰影のつかない漆黒の長髪に、ぴょんぴょん跳ねる寝癖を付けたまま現れた。所々に折り目の着いた紫色のローブに、目の下に出来た深い隈は、如何にも不健康、不摂生を思わせた。

「よーこそ、魔女の家へ。私はシエラ、魔女兼お医者さんやってるよ〜、よろしくね〜」

「リリィだ、アンタは名前、覚えてくれよな」

 魔女は返事代わりにまた欠伸をすると、二人を中に入るよう促した。

 魔女の家は、存外に広々としていた。不気味な色の薬品が入った瓶がある訳でも、生き物の死骸が吊るされている訳でもない、薄暗くもない。それは、リリィの記憶にある魔女の家のイメージとは掛け離れた風景だった。

「今日はいつも通り『陣』の交換......と、ちょっとこの子を診て欲しくて」

 言いながら少年──エーリクは、被っていたフードをまばらに付いた雪と一緒に後ろに落とした。

 きめ細かい銀の髪に、色付いたガラス玉のような青い瞳。リリィが出会ってから初めて声を聞くまでは、エーリクの事は少女だと勘違いしていた程だった。

「エーリクが人助け、か。へぇ〜、やっぱ長生きはしてみるもんだねぇ」

「まぁ、だけどね」

「半分?」

 エーリクはリリィをちらと見る。リリィは合図を受け取ったとばかりに、両腕をいっぱいに使ってフードを外す。

「......成程ね、半分って、そういう意味か」

 シエラはぐっと伸びをしてから、膝を折り、リリィを興味深そうにまじまじと見つめる。

「なっ、何だよ......?」

 リリィはぎょっとして、ちょこちょことエーリクの脚に隠れた。

 頭全体に生えた、綿のような体毛。フードに隠れていた獣耳はぴんと立ち、グレーの瞳孔は縦の方向に割れている。

「......流石に、シエラもこんな状態を診るのは初めてかな」

自体初めてだよ。本当に貴重な症例だね、まさか──」



 ラッキーバットアンハッピーセットって奴だよ、なんて訳の分からない事を言って、シエラは大きく欠伸をした。


   ・


 物心ついた時から、少女の身体には孤独と霜焼けが纏わりついていた。

 両親の顔は知らなかった。ただ年中雪が降るこの森に住んでいたある男が、少女が『半獣人』と呼ばれる種族である事を教えてくれた。

 男は、腰の曲がった老人だった。老人は少女を見ても特に怖がるそぶりを見せず、それどころか飯を与え、暖かな寝床を提供した。

 少女は老人を気に入り、彼の家に住み始めた。少女はそこで暮らす中で、言葉や字、また人間の習慣などを覚え、その知識で老人の生活を助けた。老人もまた、少女に『リリィ』という名を与え、自分の娘のように可愛がった。

 知らない事が減っていく筈が、むしろ増えていく。まどろっこしくて、果てが無く、しかしだからこそ、いつまで経っても飽きが来ない。

 リリィにとって、知る事は楽しい事だった。


 ある夜。リリィは森の奥深く、いつも足を踏み入れない場所に、ふと興味を持った。

 あの先には、何があるのだろう? 老人の持っていた本では、森には美しい女神が居ると書かれていた。リリィは狩りが得意では無かったが、女神が居るなら、一度会って話でもしたいと思っていた。

 そうしてリリィは森の奥に進み、そして──逃げ帰った。

 森の奥に、女神の姿は無かった。代わりに、そこには獣が居た。

 獣は、それまでリリィが見たどんな生き物よりもずっと恐ろしく、そして不条理であった。

 顔に張り付いた無数の眼球、幾つか宙にぶら下がって機能していない脚、背中まで避けた牙......どれも生きる為にはあまりに過不足で、歪であった。

 獣は不器用に脚を使いながら、何かを喰らっていた。リリィはそれを見る為に身体を乗り出し、次の瞬間には小さく悲鳴を上げていた。

 それは、リリィに言葉を教えたあの老人だった。老人は腹から赤紫の臓物をずるずると引き出される度、呼応するようにビクビクと跳ねていた。しかしリリィの目にも、彼が既に事切れている事は明白だった。

 ──怖い。

 リリィは全力で駆け出した。駆けながら、あの光景が頭の中で何度も繰り返し再生されていた。

 ──怖い。

 雪を染める血の赤と、老人の死骸、そして、あの不気味な獣の姿。

 ──怖い。

 見たくなかった。あんなもの、知りたくなかった。

 必死に逃げた先、もう住む者の居なくなった家の中でも、リリィはまたあの光景を思い返した。そうしていつの間にか、リリィはある妄想に囚われる事となる。

 あの獣の瞳の一つは、あの時もしかすると、自分の事を見ていたのではないか.....?

 その日から、リリィは何処に居ても視線に怯えるようになった。

 何処からかは分からない、しかし確実に居る。ぴったりと一定の距離を保ったまま、獣が見ている気がするのだ。きっと、自分が弱って、動けなくなる所を狙っているのだろう。リリィは気が付いた──自分は、獲物なのだと。

 日を重ねていくうちに、段々と、リリィは自分の身体が重くなっていく事に気付いた。脚には力が入らず、視界は二重に重なって見える。

 そして、あの獣の視線に至っては、段々とこちらに近付いているような気さえした。

 ──怖い、怖い、怖い、怖い。

 リリィはいつの間にか、未知を恐れるようになっていた。

 そうしてリリィが獲物を獲る体力すら無くし、家の中で凍え死ぬ寸前という時、その少年は現れた。

 木漏れ日を反射する銀の髪に、宝石のような青い瞳、雪のように白い肌......あぁ、なんて綺麗で、暖かいのだろうか。少年の姿を見たリリィは、いつか本で読んだ、あの女神のことを思い起こしていた。

 リリィを助けた少年は、自身を“エーリク”と名乗った。エーリクは各地の森を転々としながら暮らしているらしく、それはリリィが老人の話で聞いた事のある旅人というものにそっくりであった。

 それから数日が経ったが、リリィの体調は、エーリクに与えられた食事を摂っても良くはならなかった。相変わらずリリィを睨め付ける視線は変わらぬままで、それに加えて、リリィは時より悪夢を見るようにもなっていた。

 深い森の奥で、ぴったりとリリィの背に付き纏う何者かに追いかけ回される夢。

 逃げても、逃げても、それは一定の距離を保ちながら、リリィの背を追い続ける。いっそ追いつかれて喰らわれた方が楽だとさえ思ったが、リリィの足がどれだけ遅くなろうと、それが直ぐに追いつく事は無かった。

 どれだけ速く走っても逃れられず、しかし、段々と距離を縮めて来るのだ。

 あと少しで、自分の番なのだろう。自分も、あの老人のようになるのだろう。

 いや、もしかしたら、もう直ぐそこにそれは居るのかもしれない。

 そう、例えば、この身体から伸びる影の中に──。


   ・


「ふぎゃぁぁぁぁぁぁぁっっ!!!!」

 けたたましい絶叫と共に、リリィは飛び起きた。

 幸い、そこに獣は居なかった。代わりに、目の前には消えかかった焚き火と──

「はぁ......はぁっ......エ、エーリク」

「......リリィ、起こして」

 リリィに尻を向けたまま仰向けにひっくり返った、何とも情け無い少年の姿があった。


 話は数刻前に遡る。

「私に治療? 無理無理、絶〜っ対、無理」

 シエラは椅子にもたれながら、手をヒラヒラと振り翳した。

「なっ......何で!?」

 シエラは、リリィに垂らすように人差し指を向ける。

「リリィちゃんが森で出会った化け物っていうのは、こっちじゃ『魔獣』って呼ばれてる存在なの」

 魔獣──それは、この世界の異物。

 自然とは植物が、獣が、水が土が風が、森や川、海といった領域の中を巡りながら生きている。

 人の世は人が人の糧となるものを、外部の領域から取り入れて生きている。

 二つの領域は時に争い、互いに利用し合いながら、大抵は均衡を保ったまま生きている。

 しかし、それらは違う。どちらの領域も、際限なく、尚且つ理不尽に侵食し続ける。だから人の世からも、また森からも恐れられ、遠ざけられる。

「殆どの人間は、理解出来ないモノは怖がるからねぇ、皆そういうものを──『魔物』って呼ぶんだ」

「魔物......」

「そ、それで、魔物には幾つかの種類と、そう呼ばれる理由となった恐怖の根源があってね。魔獣、つまりが人々に齎す恐怖は、人には超えられず、また防ぐ事も、理解する事さえも叶わない『権能』の力──リリィちゃんを苦しめているのもそれだね」

「待てよ。それなら、アンタも魔女じゃないか!同じ魔物なんだろ、何とかならないのか......!?」

「あはは、一緒にしないでよ〜、ショックだなぁ。そもそも魔女ってのは、血液にたまたま魔力が流れた状態で産まれたってだけの人間だしね。魔女以外には扱えない技術が恐れられてるだけで、流石に権能をどうこうする力は無いよ」

「じゃあ......何だよ」

 リリィの両手に、力が籠る。耳がピンと上を向いて、毛が逆立つのを感じる。

「私は......親しかった人間一人の仇も取れないまま、大人しく魔獣の獲物として死ぬしかないって言いたいのか!?」

「──んや? 別に打つ手が無いとは言ってないじゃん」

 シエラは、いつの間にか壁に背を付けて居眠りをしていた、銀髪の少年に目線を送る。

「今言った通り、君の治療は私には出来ない。だけど原因療法って意味なら、私よりず〜っと適任が居るじゃん?」

「......それは、エーリクが魔獣の権能を消せるって事か?」

「ありゃ、知らなかったんだ? まぁ正確には、エーリクが消すのは権能じゃなくて......」

 魔獣なんだけどね──そう言って、シエラはリリィを指していた指をゆっくりとエーリクに向ける。

「彼の名前はエーリク・ソルヴルンド。かつてこの地に千年の雪を降らせた『白銀の大魔女』の孫弟子にして──その名を授かりし『』さ」

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獣と白銀 ナナカマド @kamado7

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