長い夜の終わり
「……ねえ、本当に大丈夫?」
そんな事を聞いてしまうくらい、耳元近くで聞こえるミヤビの息遣いは本当に苦しそうな感じだった。
ミヤビは呼吸がし辛いって感じで、ゆっくり細く息を吐いてて、あたしからしても結構体調が悪そうに思える。
実際は。
「あんま……大丈夫じゃねえかも」
本人がそう言うくらい、相当に体調が悪いらしい。
「いつから体調悪いの?」
「体調が悪いんじゃねえ。気分が
「体調が悪いのと気分が悪いのって違いある?」
「全然
「気分が悪いってどんな感じに?」
「知らねえよ」
「は?」
ミヤビは自分の体調についてすら考えるって事をしないらしい。
こうなるともう頭が悪いとしか言いようがない。
まあ、あたしの首筋を噛み千切りたいって言う奴は、体調どころか頭も相当に悪いって分かってたけど。
「ねえ、ミヤビ。倒れるにしても前に倒れないでよ? 支えられる気しないし」
「この体勢で後ろに倒れる訳ねえだろ」
「膝から崩れ落ちればいいじゃん」
「お前やっぱすげえな」
「何が」
「助ける気が全くねえのを隠さねえとこがだよ」
「助けないとは言ってないでしょ。膝から崩れ落ちてくれたら救急車くらいは呼ぶし。来るかどうかは分からないけど」
「来るかどうか分かんねえもんを呼ぶのは助けるとは言わねえんだよ。――てか、それよりお前に聞きてえ事あんだけど」
「何?」
「お前、あんま服持ってねえの?」
「は? 急に何」
「会った時、大体お前制服じゃね? 私服一回くらいしか見た事ねえぞ。今も制服だし」
「今日は着替える暇がなかっただけだし、今までは学校帰りに会う事が多かったから……」
「その制服見たら条件反射でお前思い出しそう」
「あんたの行動範囲じゃ見ないでしょ、この制服」
「まあ、見ねえな」
ミヤビのその言葉に、あたしとあんたじゃ生きてる世界が違いすぎてるからね——と、言おうと思ったけどやめた。
他愛もない会話の中ですら、分かりきってる事をわざわざ口にするのが虚しくなってしまった。
そもそも特殊すぎるこの地域は、他と比べる価値さえない気がする。
そんな場所に死ぬまで縛られるあたしも、
でもそうやって考えると、今こうしてミヤビといる事を不思議に思った。
しかも抱き合ってるとか凄く不思議。
あの時、兄貴に言われてホテルに行く事がなかったら、ミヤビと会う事なんて一生なかったんだって考えると、今こうしてここにいる事が夢か幻なんじゃないかとすら思う。
例えば、兄貴が頼まれた女子高校生を見つけられてたら、あたしを騙して行かせるなんてなかったし。
例えば、あたしが兄貴に頼まれた事を断ってたら、あんなハイエンドなホテルに行く事なかったし。
例えば、ホテルの部屋からミヤビが出てきてすぐにあたしが「部屋を間違えた」って言ってたら、そのあとに起こった色々はなかった訳だし。
そうやって考えると、物凄い確率の「偶然」を引いたような気がする。
それがいい事なのか悪い事なのかは、判然としないけど。
「お前」
言葉を吐いたミヤビの呼吸は、いつの間にか普通になってた。
「これからの事で俺と約束しろ」
続けられた声は、少し低くて真剣だった。
「約束?」
「情報を集めろとは言ったが、危ねえ事はすんじゃねえぞ」
「危ない事って何」
「相手に近付きすぎんなって言ってんだよ。名前か所在が分かればいい。そしたらあとは俺らでどうにかする」
「分かった」
「それと」
「何」
「無闇矢鱈と人に喧嘩売るんじゃねえぞ」
それまでとは打って変わった、笑ってるような声が耳を掠めて、直後にミヤビの体が離れていった。
完全にあたしから離れたミヤビは、ダッフルコートのポケットに両手を突っ込むと真っ直ぐにあたしを見つめた。
そして。
「やっぱお前にはでけえな」
何故か少し楽しげに言葉を吐いた。
それが、あたしが着てるミヤビのボアジャケットの事についてだという事は、ミヤビの視線で分かった。
何が楽しいのかは全然分からないけど、ミヤビは口許の笑みを消さない。
「さっき会った時は着てなかったから気に入らねえのかと思ってたけど、そうでもねえみてえだな」
最後まで楽しげに笑ってるミヤビは、「よし、解散」と言って追い払うような仕草で手を振った。
唐突に思える解散宣言に拍子抜けしたけど、体調が悪いって言ってたから当然のような気もする。
ただミヤビは自分からは立ち去ろうとはしないで、「行け」とボロいマンションを指差したから、あたしは言われるままにミヤビに背を向けて、ボロいマンションに向かって歩き始めた。
そんなあたしに。
「またな」
ミヤビの笑ってるような声でその言葉を口にした。
状況的に当たり前な事だけど、別れ際に初めて次があるって感じの事をミヤビが言ったから、また不思議な気持ちになった。
だからだと思う。
「ねえ」
振り返って、少し離れたミヤビに声をかけたのは。
それ以外に理由なんてあるはずない。
「今、何時か分かる?」
聞くとミヤビは「あん?」と言って、自分の腕時計に目を向けた。
「十二時半」
教えてくれたミヤビは、「予定でもあんのかよ?」と訝しげな声を出した。
「予定はないけど」
「なら、何で時間が気になんだよ」
「気になる訳でもないんだけど」
「はあ? お前また訳の分かんねえ事を——」
「昨日、あたしの誕生日だった」
「――ああ!?」
「バイバイ。ミヤビ」
おいちょっと待て——とミヤビが喚き始めたから、また面倒臭い事を言われる前に帰ろうと踵を返してボロいマンションに向かって走り出したあたしは、誕生日の終わりをミヤビの腕の中で迎えてた事を、少しだけ特別なもののように感じてた。
誕生日を祝いたいって気持ちにまではならないけど、物凄い確率で引き寄せた「偶然」の相手と過ごしたっていうほんの少しの特別な感じを、嫌だとは思わなかった。
ただまあ、そんな特別な感じは、家に帰ってすぐに目の当たりにした
家に帰ると、バカな兄貴は同じ場所に同じ格好のままでいた。
全然動かないからまさか死んだんじゃないだろうかと思ったら、ただ眠ってるだけだった。
いつ眠ったのか分からないけど、起こしたら面倒な事になりそうだからそのまま床に転がしておいた。
お風呂に入って布団の中に入った時には、疲れきってて半分寝てる状態だった。
スマホに、ミヤビからのメッセージが届いてたけど、見る気力もないほどに疲れてた。
長い夜だったと思う。
状況が二転三転して目まぐるしかった。
教えるつもりなかった過去の事や家族の事までミヤビに言う羽目にもなったし、どういう訳だかミヤビと抱き合う羽目にもなったし。
「ああ、そうだ——」
目が覚めたら兄貴に色々問い詰めないと——と、独り言の途中で、あたしは深い眠りに落ちた。
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