約束


 家に帰ってから、どれくらい時間が経ってたのか分からない。



 少なくとも一時間以上は経ってたと思う。



 それでも。



「はっ!?」


 玄関のドアが開いたと思った直後に物凄い音がして、驚きから変な声が出た時は、まだあたしの誕生日だった。



 何事かと音がした玄関まで走っていくと、玄関ドアから入ってすぐの所にうつ伏せで兄貴が倒れてた。



 だから慌てて兄貴に駆け寄ろうとした矢先、兄貴が顔だけを上げたから、その所為で目にしたものに驚いて動けなくなった。



 兄貴の顔面は、見るも無残なって言葉が似合うほどにボコボコになってた。



 頬骨辺りは腫れ上がってるし、鼻血は出てるし、顎の辺りが変色してる。



 何度も殴られたのは一目瞭然。



 それがミヤビの仕業だと分かったから——。



「違う、ぞ……」


 どうして無傷で返してくれなかったんだと思ったあたしに向かって、兄貴が苦しそうな声を出した。



「違うって何よ」


 ようやく体が動き出して、兄貴の目の前まで行ってしゃがみ込んでそう聞くと、顔を上げてる事が辛いのか、兄貴はまた床に顔を突っ伏した。



 その時どうやら床で顔をぶつけたらしい。



 兄貴が「ぐあっ」と小さく唸った。



「お前が、思ってるのと、違う……」


「その顔、ミヤビにやられたんじゃないって事?」


「いや、やったのは、そいつ……ピンク色……」


「だったら——」


「俺が、頼んだ……」


「は?」


「しょうが、ねえだろ。捕まってんの、地元の奴らに、見られてた可能性、あんだから。無傷で、帰る訳に、いかねえ……だろ」


「だからってやりすぎじゃ——」


「いや、かなり、手加減、された」


「どこが!?」


「顔面の、骨、どこも、折れて、ねえし」


「そういう問題!?」


「けど」


「けど、何!?」


「――いや。それは、あとで、いい。だから、お前、行ってこい」


「どこに!?」


「下で、ピンク色が、お前、待ってる」


「――え?」


「団地の、裏手。行ってこい」


「で、でも兄貴の怪我――」


「俺はいい、から。今は、動きたくねえし。ここに、いる。濡らしたタオル、持ってきてくれ」


「……分かった」


「おい」


「うん?」


「早く、しろよ」


 分かったと言いながらちっとも動かないあたしに兄貴はそう言って黙り込んだ。



 もしや死んだんじゃないかと思ったけど、微かな肩の動きを見る限り、呼吸はしてるらしい。



「ねえ」


「……何だよ?」


「あたしがいない間に死んだりしないでよ?」


「これくらいで、人が、死ぬかよ。縁起でもねえ事、言うな」


 いっぱいいっぱいって感じの声を出すあたり、兄貴はもう喋りたくはないようだった。



 だから立ち上がって、洗面所に向かった。



 タオルを濡らしたあと、自分の部屋に行って、ボアジャケットを羽織ってから玄関に戻ると、兄貴はさっきと同じ格好のまま全く動いてなかった。



「タオル、ここに置いとく」


 そう言って、兄貴の顔の近くにタオルを置いたけど返事はなかった。



「すぐ戻る」


 玄関のドアを開けながらそう言ったけど、それにも返事はなかった。



 ただ微かに、指を動かしたのが見えた。



 早く行けって感じに動かされた指は、すぐに力なく床の上に置かれて、動かなくなった。



 だから兄貴が心配だったけど、ミヤビの所に行かない訳にもいかなかった。



 兄貴を返してくれたって事は、あたしが出した条件を呑んでくれるって事になる。



 ミヤビは多分その話をあたしとしようと思ってる。



—―嗚呼、また。



 いつもとは違う、「獣神」のミヤビと会うと思うと気が重い。



 そうは思っていても避けられる事じゃないからミヤビの所に向かった。



 薄暗い共有廊下を歩いて、薄暗い階段を下りて、ボロいマンションから外に出ると、夜空に大きな月が出ていて外の方が明るかった。



 団地の裏手に回ると、ボロいマンションから少し離れた所にある、植栽された樹木に、ひと目を避けるようにミヤビがいた。



 ダッフルコートのポケットに両手を突っ込んでるミヤビは、ゆっくりと近付くあたしをジッと見てる。



 そして。



「言っとくが俺はブチギレてんぞ!? 分かってんだろうなあ!? ああん!?」


 目の前まで行って足を止めたあたしに、ミヤビが喚き散らかした。



 ミヤビがいつものミヤビである事が嬉しかった。



 妙な安心感すら覚えてしまった。



 その所為で、それまでの緊張が緩んでしまったらしい。



「てめえ、何笑ってやがる!」


 表情筋まで緩んでしまったのを、瞬時に見咎められた。



「……別に笑ってない」


「笑ってただろうが!」


「笑ってない。緩んだ」


「ああ!?」


「緩んだだけ」


「お前はまた訳の分かんねえ事を——」


「ミヤビ」


「ああ!?」


「ミヤビ」


「何だよ!」


「ありがとう」


 あたしがお礼を言うとは思わなかったのか、ミヤビはまるで異星人でも見たかのような表情でポカンと口を開けたまま固まった。



 そうして数秒固まったのち、ゆっくりと表情を戻していったミヤビは、そのまま真顔になった。



「お前の兄貴を連れて行かなかったのは、お前が情報を集めるって条件の上でだ」


「うん」


「出来るんだな?」


「うん」


「出来なかったらその時は——」


「分かってる」


「あんまり時間はやれねえぞ」


「分かった」


「あと、お前に言っとく事がある」


「何?」


「お前の兄貴を連れて行かねえようにするには、上の人間に話を通す必要があった」


「うん」


「だから、お前から聞いた話をした」


「うん」


「お前の——過去にあった話も」


「うん。別に——」


「でもひとりだけだ」


「――ひとり?」


「『獣神』の一番上の人間にだけ話した。その人から他の奴に話が漏れる事はねえ。だから話した事は勘弁しろ」


「話した事は別にいいんだけど……一番上の人って、『獣神』を仕切ってる人?」


「ああ。知ってるか?」


「噂は聞いた事ある。けど、顔とかは知らない」


「どうせロクでもねえ噂だろ」


「まあ——そうかな」


「噂は信じんな。いい人だ」


「……へえ」


「今回の事もあの人が許可したから、お前の兄貴が無事に戻ったんだ」


「無事……ではないけど」


「おい、言っとくが、ボコったのはお前の兄貴に頼まれて——」


「知ってる。聞いた」


「朝になったら病院連れてってやれ」


「病院?」


「肋骨一本折っといた」


「は?」


「あいつの肋骨、折れてんぞ」


「はあ?」


「骨くらい折っとかねえと怪しまれんだろうが。鼻の骨折らなかっただけ有り難いと思え」


「はああ?」


「治療費もあいつに渡してある」


 ミヤビの話を聞きながら、だから兄貴は喋るのもあんなに辛そうだったのかと納得出来た。



 骨まで折られたくせに、手加減されたなんて、兄貴もよく言えたもんだと思った。



 けど、「不思議の国」に連れて行かれてたら、あの程度じゃ済まなかったのは確かだし、それを思えばミヤビは本当に手加減してくれてたんだろう。



 骨、折ったけど。



「……じゃあ、情報集めて何か分かったら連絡する」


「直接言いに来い」


「直接? 電話じゃダメなの?」


「ダメだ」


「何でよ。面倒くさ——」


「意味はねえ」


「――は?」


「意味はねえけど、直接言いに来い」


 分かったな——と念を押されて、面倒臭いから分かりたくないと思った。



 けど、文句を言える立場じゃないから従うしかない。



 この件に関してだけは、ミヤビの言う通りにするしかない。



 仮令それが「意味はない」っていう、理不尽に思える意味不明な指示だったとしても。



「……じゃあ、あたしもう行くね」


 これ以上面倒臭い約束事を取り付けられたくないから、さっさと家に戻ろうと思った。



 なのに。



「まだ話は終わってねえ」


 家に戻る事を阻止された。



 その上。



「ブチギレてるっつっただろうが」


 嫌な予感しかしない事を言ってきたからげんなりした。



 まさかあたしの肋骨まで折るつもりなんじゃないだろうかと、悪い想像しか出来なかった。



 だけど予想に反して、ミヤビは少し俯いて黙り込んだ。



 話が終わってないって言ったのに、話し始める素振りも、況してや殴る素振りも見せない。



 ただ眉根を寄せて自分の足許を見てるだけだから、何がしたいのか分からなかった。



「……ねえ。話があるんじゃないの?」


「黙れ」


「何もないなら帰りたいんだけど」


「黙れ」


「一体どうし——」


「おい」


「何」


「――逃げんじゃねえぞ」


 顔を俯かせたまま視線だけを上げて低い声を出したミヤビの、その言葉の意味が今回の件からって事だと思ったけど、すぐに違うと分かった。



 不意に手を伸ばしてきたミヤビに腕を掴まれて、直後に強く引っ張られた。



—―は?



 そう思った時には、既にミヤビの腕の中。



 何が何だか分からないけど。



「……何してんの?」


「黙れ」


 あたしはミヤビに抱き締められてた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る