解決の方法


 内臓が、重力に引っ張られるまま体から飛び出して全部床に落ちてしまったんじゃないかと思うくらい、全身から血の気が下に向かって引いた。



 現状がめちゃくちゃヤバいと分かってるのに、あたしの頭は「ヤバい」って思うだけで、何も考えてくれない。



—―落ち着け。



 考える事を放棄したんじゃないかと思える脳に向かって、膝の上で重ねて握ってる自分の両手を見つめながら、呪文のように心の中で呟いてた。



—―落ち着け。



 とにかく現状を把握して整理しなきゃ。



—―ミヤビは何て言った?



 兄貴ハクトを探してるって言った。



 住んでる地域場所が違っても、悪名だろうが何だろうがそれなりに名前が売れてる人間の事は、お互いの地域に知れ渡ってる。



 現に、勢力だの権力だのってものに全く興味も関係もないあたしですら、ミヤビって名前は知らないまでも、「獣神」にいる「騎士の軍団」って危ないヤバい奴らの中に、ピンク髪の男がいるってのは知ってたくらいだから。



 名高い人間は否が応でも名前は知れる。



 ミヤビが兄貴の事を知らないのは、兄貴が取るに足らない末端の人間だからだ。



 ミヤビは兄貴の名前しか分からないと言った。



 どういう奴なのか分からないと言った。



 つまり。



—―まだ兄貴を逃がせる可能性はある。



 どこかに隠せば。



 せめてほとぼりが冷めるまで、「獣神」から兄貴を隠し通せれば。



 そのうち兄貴よりも立場が上の奴が捕まって、兄貴は逃げおおせるかもしれない。



 問題は、あの時のあたしの行動に対してのミヤビからの質問にどう答えるか。



 でもそれは考えるまでもない。



 やれる事はひとつしかない。



 あたしは——。



「――知らない」


 これを最後に、もう何も喋らない。



 言葉を発しながら、自分の両手に向けてた目をミヤビに向けた。



 目が合ったミヤビは、一瞬目を開いて、直後にその目を細めた。



「そりゃ何に対しての返答だ?」


 さっきよりも低い声を出したミヤビが、あたしの考えを見透かそうとするかのように真っ直ぐに見つめてくる。



 その目の鋭さが表すのは「強者」側の威圧感。



 絶対に目を逸らしちゃいけない。



「ハクトって男を知らねえって意味か?」


—―誰が喋るか。



「それとも、自分が誰に指示されたのか分からねえって意味か?」


—―誰が喋るか。



「あの日あの場所に来た理由が自分でも分からねえって意味か?」


—―誰が喋るか。



「何に対して知らねえって言ってやがる」


—―誰が喋るか。



「答えろ、アリス」


—―バカが。



 何を思ってあたしが答えると思ってんだ。



 あの時言わなかった事をどうして今ならと喋ると思ってんだ。



 ミヤビお前は一体何を根拠に——。



「苦労して詰めた距離、見事に元に戻しやがったな。流石だよ、お前」


—―嗚呼、そういう事か。



 感心してるような口振りで、なのに冷めた笑いを口許に浮かべるミヤビを見て、全て理解出来た。



 ホテル街から連れ去ったのも、あたしにアウター貸したのも、バグった距離感で接してきたのも、電話も、メッセージも、何もかも全部、この時の為。



 二度目に会ったあの日から、ミヤビのあたしに対する言動は全てが計算づくで、どうにかあたしを懐柔させて、きたるべき時に情報を引き出そうと企んでたんだ。



 もしかしたら最初からそのつもりだったのかもしれない。



 初めて会った日、それっぽい理由を付けてあたしを逃がしたあの時から、全てが始まってたのかもしれない。



 今日はたまたま「不思議の国」に来てたあたしを、カナタが見かけたから電話をかけてきたけど、それがなくても近いうちに、あたしを呼び出すつもりだったんだろう。



 だとしたら、今日まであの件に触れてこなかったのもわざと。



 そうやってあたしを油断させてたって事。



 まんまとしてやられた。



 油断させられてた。



 目の前にいるこいつは。



「この件について頑なに口を開かねえ理由は何だ」


 女誑しじゃなく人誑しだ。



「脅されてんのか?」


—―黙れ。



「弱味でも握られてんのか?」


—―黙れ。



「地元の人間に対しての忠誠心って訳じゃねえだろ?」


—―黙れ。



「お前に何があんのか知らねえが、まとめて俺がどうにかしてやる。助けてやるからお前が知ってる事全部話せ」


—―マジ黙れ。



 お前が偉そうにのたまうな。



 お前なんかが助けるなんて口にするな。



 お前みたいな人間に理解出来わかる話なんかひとつもない。

 


 ムカつく。



 ムカつく。



 ムカつく。



 ムカつく。



 誰より何より自分にムカつく。



 懐柔まではされてなくても、ミヤビが距離を詰めてくる事を僅かでも許してた自分の事がムカついて仕方ない。



 でもいくらムカついてたとしても。



—―今はこんな場所にいる場合じゃない。



 いつの間にか力いっぱい握り締めてた拳を、ゆっくりと解いた。



 その両手の掌を上にして、テーブルの端を掴んだ。



 向かい側に座ってるミヤビを根限り睨み付け。



—―ナメんな。



 勢いよく立ち上がるのと同時に、力いっぱいテーブルを持ち上げた。



「お前――」


 コンマ数秒で事態に気付いたミヤビが、自分に向かって持ち上げられたテーブルを押さえるように手を伸ばした。



 だけどミヤビが押さえる事が出来たのは自分に向かって倒れてくるテーブルだけ。



 一旦大きく斜めになったテーブルから、食べ物や飲み物が入った食器が、音を立ててミヤビの方に向かって雪崩れていく。



 雪崩れた食器が床に落ちる。


 

 床に落ちた食器が騒音を立てる。



 鞄を掴んだあたしは、その騒音に背を向けて、個室のドアへと一直線に走り出してた。



「――アリス!」


 ひと際大きなミヤビの声を振り払うかのように個室から飛び出し、その勢いのまま店の廊下を駆け抜けて、出入り口から外へと飛び出した。



 そこから無我夢中で走った。



 とにかく「不思議の国」から抜け出したい一心で、方向なんて関係なく走り続けた。


 

 周りの景色が繁華街からビル街に変わった頃、走る足を緩めて後ろに振り返った。



 追い駆けてくる人影はなかった。



 それでもミヤビがあたしを捕まえようとして探してる可能性があるから、走って乱れた呼吸が整うのを待つ事なく、フラフラしながらも足早に歩き続けた。



 鞄からスマホを取り出して、使い慣れてない地図アプリを開いて、「不思議の国」以外の近くの駅に向かった。



 逃げ切る事が出来たとようやく安心出来たのは、電車に乗った時。



 でも安心出来たのは逃げ切れた事にだけで、あたしにとっては一番の問題が残ってる。



 地元の駅に着いてすぐ、目的の場所に向かった。



 あたしが住んでるボロいマンションが建ち並ぶ団地じゃなく、一軒家が建ち並ぶ住宅街に足を踏み入れた。



 その住宅街の一番端。



 元は誰が住んでたのか分からないその家の、腰丈ほどの門扉の門柱にあるインターホンを押して、今の住人が出てくるのを待った。



 間もなく玄関ドアが開いた。



 気怠そうに玄関口からこっちに歩いてくる人影の口許には、小さな赤い火種が見える。



 「何の用だ、アリス」


 目の前まで来て、門扉を挟んだ向かい側に立ったその人は、咥え煙草でそう聞いた。



 近くの外灯に照らされて、夜の闇に浮かぶようにその姿を見せるその人の、あたしを見る目は寒気がするくらいの狂気を孕んでる。



「リオンさんにお願いがあって来ました」


 その言葉を皮切りに、これまでに起こった「獣神」やミヤビとの出来事と、これから何をしてどうするつもりなのか簡潔に説明するあたしの話を、リオンさんはただ黙って聞いていた。



 そして。



「だから兄貴を探してくれませんか」


 あたしのそのお願いに、夜空を見上げるように暫く目線を向けたあと。



「自分の家に帰って待ってろ」


 目線をあたしに戻してきたリオンさんは、それだけ言って家の中へと戻っていった。

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