距離感
身の危険度合いを天秤にかけて、スマホだけでもミヤビに返しに行くのがいいって結論を最終的に出せたのは、
自分で納得出来る結論を出したっていうよりも諦めきれたのはって感じだから、その考えに行き着くまでに時間がかかったのは仕方ない。
ミヤビに渡された名刺には、その店のオープン時間も書いてあった。
二十時オープンらしいその店に、二十一時くらいに着ければいいかと思ってた。
なのに、どうしてもバイトについて来て欲しいってルナに懇願されてついて行った所為で、予定が狂った。
兄貴にミヤビのスマホまで盗まれたら洒落にならないと思って、学校にミヤビのスマホを持って行ってたから良かったけど、結局ルナのバイトが終わったのが遅かったから、家に帰って着替える時間がなくて制服のまま電車で「不思議の国」に向かった。
ミヤビにコートを返さないのに自分はしっかりアウターを着てるってのもどうかと思ったから、それまで着てたモッズコートは地元の駅のコインロッカーにぶっ込んでくる羽目になった。
インナーは着てるけど寒かった。
一体何の罰ゲームなんだと思わずにはいられなかった。
電車を降りた時には二十二時近くだった。
名刺に書かれてる地図を見る限り「Black List」は、駅から随分と離れてた。
前回来た時は走り抜けただけの「不思議の国」の華やかなメイン通りを歩きながら、まるで異国に来たような気持ちになったのは、やっぱりこの街の雰囲気が地元とはまるで違うからだと思う。
酷く場違いな気分になった。
あのハイエンドなホテルに行った時のようだった。
あたしみたいな人間が来ていい場所じゃないと、街自体に言われてるような気持ちになった。
だから早くスマホを返して帰りたかった。
本当は途中で引き返したいくらいだった。
名刺に描かれてる地図を見てても二度も迷ったその店の前に着いた時、正直驚いた。
地元にはクラブがなくてクラブってのがどういう感じか全く知らないから、もしかしたらこれが普通なのかもしれないけど、平日なのにも拘わらず、店の前には
路地の突き当りにある建物の、蛍光色のネオンライトの看板に「B.L」と書かれた店の入り口には、受付係って言うのか用心棒って言うのか分からないけど、愛想のない大柄の男がふたり立っていた。
男ふたりは列の最前列にいる女に何かを言っていた。
どこのクラブもそうなのか、ここだけがそうなのか知らないけど、雰囲気からして、誰でも入れる訳じゃなさそうだった。
最前列でどんな会話がされてるのかは聞こえないけど、男のひとりが手に持ってる紙を確認してながら女と喋ってる感じからして、招待制だか予約制だかのようだった。
どうしたらいいのか分からなかったけど、一応列の最後尾に並んでみた。
店に入れなかった場合、どうやってスマホを返せばいいんだろうと考えてた。
この店の名刺を渡してきたくらいだから、ミヤビはこの店に何らかの関わりがあるんだろうけど、それがどんな関わりなのか分からないから色々悩んだ。
受付係だか用心棒だかに、ミヤビがいるか聞いてもいいのかとか、聞いたところで教えてもらえるんだろうかとか、いっそこいつらにスマホを預けて帰りたいとか。
寒さに首を竦めて足許を見ながらそんな事を考えてた時。
「おい、姉ちゃん」
もう絶対的に穏やかではない男の声と、それと同時に横から腕を掴まれて引っ張られた。
結構な力で引っ張られたから列から横に飛び出した。
引っ張られた腕が痛かったから、ムカついた。
だから反射的に、相手を見るよりも先に腕を掴んできた手を思いっきり振り払った。
振り払ったのは反射的にだったけど、思いっきりになったのはムカつきによる意図的なものだった。
そのあとすぐに目を向けると、店の入り口にいた受付係だか用心棒だかの男のひとりがいた。
男は分かりやすくキレてる表情をしてた。
そして自分じゃ見れないけど、多分あたしもそういう表情してる。
腕を引っ張ったこいつが悪い。
「お前、頭悪いのか」
男は分かりやすく高圧的な声と態度で、唾でも吐き捨てるような感じであたしに向かって言葉を吐く。
睨み付けてくるその目には、人に対しての尊重なんてものは全くない。
「そんな格好で
—―黙れ。
「お前みたいなクソガキが来ていい場所じゃねえんだよ」
—―黙れ。
「何だ、その目は? 俺に喧嘩売ってんのか」
—―黙れ。
店側の人間のくせに思いっきり見くだした態度を取ってくるからマジムカついた。
普通の態度で言ってきてたら、ミヤビの事を聞くかスマホを預けるかしてたのに、そんな気更々なくなった。
何であたしはいつだって、こうして他人からバカにされたり見くだされたりするんだろう。
何でこういう奴らはいつも、
お前どんだけ自分が偉いと思ってんだ。
あたしを何だと思ってそんな態度取ってんだ。
お前の中であたしって存在は——。
そこで思考を遮断させられた。
それは視界を遮断された所為。
また目の前が真っ暗になった。
でも今回はその理由が分かった。
目許に感じる、手の感触。
誰かの右手で目許を覆われて——。
「おい」
直後に背後から聞こえてきた声で、その「誰か」がミヤビだと分かった。
分かったけど、意味が分からなかった。
「これは俺のだ。何してやがる」
低い声でそんな言葉を吐いたミヤビの左腕が、あたしのお腹辺りに回されてる意味が。
しかもそうなってる所為で、あたしの背中がミヤビの体に当たってて、後ろから抱き締められてる感が否めない意味が。
—―ち、かい。
突然詰められた有り得ない距離の近さに困惑するあたしをよそに、さっきまで威勢がよかった男の声が聞こえてきた。
明らかに焦ってる感丸出しの声で、「すみません。知らなかったんです」と謝ってる。
その感じからしてこの男よりもミヤビの方が立場が上だってのは分かるけど、謝罪はあたしに向かってのものじゃない。
「こいつに何もしてねえだろうな」
「してません。もちろん。誓って」
尚も低い声を出すミヤビに、男は平気で嘘を吐く。
そうやって人によって態度を変えて、自分のした事に責任を持たない奴に、見くだされてた事がムカつく。
この世に無数にある言葉の中から自分が選んで発した言葉に、責任も取れないような奴にバカにされてた事がムカつく。
マジでムカつく。
けど。
今はそれ以上の問題があたしの中で勃発してる。
「本当だろうな?」
――近い。
「はい。誓って。何も」
――近い。
「あとからこいつに聞いて何かしてやがったらただじゃおかねえぞ」
――近い。
「あ、あのそれは――」
――近い!
「ミヤビ」
焦る男の言葉を遮って、思わず名前を呼んでしまったのは、お腹の辺りに回されてるミヤビの左腕の力が徐々に強くなってきたから。
その所為で、引き寄せる力が強くなって、今じゃもうぴったりとあたしの背中がミヤビの体にくっ付いてる。
距離感がバグりすぎてて意味が分からない。
これがミヤビの女に対する距離感だとしても、あたしには近すぎて無理。
「やっぱ何かされたのか」
ミヤビの声の聞こえる感じからして、それがあたしに向かって言ったものだとは分かってた。
だけど今のあたしはそんな話をしてる場合じゃない。
だから。
「腕、離して」
出来れば視界を遮ってる右手もどうにかして欲しかったけど、何よりあたしを引き寄せてるその左腕を早く退けて欲しいから、そう言った。
なのに。
「無理」
この距離感以上に意味の分からない事を言われた。
――は?
当然そう思った。
でもそう思ったのは、ほんの数秒だった。
「お願いしますミヤビ様って言ったら離してやる」
あたしの耳元でそう囁いたミヤビの、声が完全に笑ってたから、あたしをからかってるんだとすぐに気が付いた。
「おら、早く言え」
頭の芯に響くような低音で。
「離して欲しいんだろ?」
耳に微かに息を吹きかけるように囁いてくる。
「言えよ」
言葉を発するたびにミヤビが左腕に力を入れてくるのは絶対わざとだ。
こいつの距離感マジおかしい。
物理的な距離感もそうだけど、心理的な距離感もバグってる。
まだ三回会っただけの間柄なのに。
しかも出会いは最悪で、二回目に会った時だってまともな会話もしてないのに。
こんな馴れ合いだかじゃれ合いみたいな感じで、からかってくるとかバグでしかない。
ミヤビのスマホに電話かけまくってきてた女たちにとっては、この距離感は嬉しいものなのかもしれないけど、あたしにとってこの距離感はムカつきしか感じない。
からかってくるこの感じも、バカにされてるとしか思えない。
ムカつく。
ムカつく。
ムカつく。
「言え、アリス」
――誰が言うか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。