何の罠
別に、歩き出した方向が合ってるとは端から思ってなかった。
とりあえずミヤビから離れて、適当にどっかの角で曲がって、お互いの姿が見えなくなってから、スマホの地図アプリで帰り道を確認しようと思ってた。
だけどミヤビがわざわざ方向が違うって言ってきたから、足を止めるしかなかった。
振り返ると、さっきよりも十数歩分の距離が出来たミヤビは、さっきと同じ場所に立ったまま。
両手をデニムのパンツのポケットに突っ込んで、あたしに被せてたコートを右腕に掛けて、ジッとこっちを見てる。
でも見てるだけ。
あたしとしては、足を止めて振り返ったら、帰る方向を言うか指差すかすると思ったのに、ミヤビは何も言わないし動こうともしない。
その所為で、訪れたのは沈黙。
しかもあたしも動くに動けなくなったから、あたしとミヤビがいる空間だけまるで時間が止まってしまったような感じになった。
――いや、方向教えろよ。
そう思ってるあたしと、何を考えてるのか全く分からないミヤビの、見つめ合ってるというよりも睨み合ってるって感じに近い、何の為のなのか分からない動画の一時停止みたいな時間が、意味不明に流れていく。
ただその謎の時間は、そう長くは続かなかった。
時間が経つにつれて徐々に顔を歪ませていったミヤビが、最終的にまたしても腹立たしい表情をして。
「お前マジでムカつくなあ!? 殴っていいか!? 一発殴っていいか!?」
突然喚き出した事で終わりを迎えた。
――こいつの情緒どうなってんの。
唖然とするしかないあたしに、ミヤビが大股で近付いてくる。
そして。
「お前の頭の中どうなってんだ!? ああ!?」
それはこっちの台詞だ――と思う事を口にして、あたしの目の前で止まる。
けど、殴られるとは思わなかった。
殴っていいかと喚かれはしたけど、殴るつもりで近付いてきた訳じゃないのは分かった。
人が殴る時の目は分かる。
目の色を一瞬で変える奴もいるけど、今のミヤビはそんな感じじゃない。
ただ。
「つーか、お前は頭もおかしけりゃ感覚までおかしいのか!?」
どうしてもあたしに喧嘩を売りたいらしい。
は?――と、売られた喧嘩をほぼ買った気分でミヤビを見てる目を細めた瞬間。
「初冬の夜の寒さナメてんじゃねえぞ」
ミヤビの不機嫌な声と共に、肩からコートを被された。
「バカだから風邪ひかねえとでも思ってんのか」
あたしをムカつかせようとしてるとしか思えない事を言いながら、ミヤビはあの時のように、あたしに着せたコートのボタンを留めていく。
袖に腕を通してないのにボタンを留めるから、腕の自由が利かなくなった。
でも窮屈って感じはない。
体格の差があるからミヤビのコートは大きくて、コートの内側には小さい子供ひとりくらいなら入れそうなくらいの隙間がある。
「おら、行くぞ」
ボタンを三分の二まで留めたところでやめたミヤビは、あたしから目を逸らして歩き出す。
その後ろを、あたしはついていくつもりだった。
なのにあたしが歩き始めると、何故かミヤビが歩調を緩めたから、否応なしに並んで歩くカタチになった。
それが落ち着かなかった。
帰る方向が分からないから逃げてコートを盗むような事はしないのに何で隣を歩くんだって、不思議どころか不審に思って居心地が悪かった。
でもそれはあたしだけらしい。
ミヤビは特に何も思わないどころか、あたしがいる事すら忘れてるって感じで、両手をポケットに突っ込んだまま正面だけに目を向けて歩き続ける。
ミヤビがそんな風だから、あたしが変に意識してるみたいで、凄く嫌な気分になった。
薄暗い道を無言のまま歩き続けた。
何度か道を曲がると、国道らしき大きな道路の灯りが見えた。
それを見てホッとしたのは、よく分からない今夜の一連の出来事からようやく解放されると思ったから。
どうしてこうなったのかって謎はずっと残るけど、そんな事はもうどうでもいいから早く家に帰りたくて仕方なかった。
国道らしき大きな道路はやっぱり国道だった。
片道二車線の国道にある横断歩道の信号まで行くと、ミヤビは不意に足を止めた。
そして、歩いてる間一度も向けられなかった目をあたしに向けたから、あたしも止まるしかなかった。
「あっち側からタクシー乗れ」
ミヤビは横断歩道の向こう側を目顔で指し、ポケットに突っ込んでた両手を出すと、右手をデニムのパンツの後ろに回す。
その動作を見ながら、返す為にコートを脱ごうと思ったら、ボタンを留められてる所為で自力じゃ脱げなかった。
コートの中でモゾモゾとあたしが動いてるのは分かってるくせに、ミヤビはそんなの完全無視で、デニムのパンツの後ろのポケットから財布を取り出した。
そうして。
「金は返さなくていい」
そんな事を言いながら、財布から五千円札を取り出して、あたしが着てるミヤビのコートの左ポケットにお金を入れるから、コートをこのままあたしに着せておくつもりなのは分かったけど、じゃあこのコートどうすんのっていう疑問しか残らない。
そのあたしの疑問にミヤビが気付いたのかは分からない。
けど疑問に思ったタイミングで、ミヤビは「お前」と、もう一度財布を開きながら口を開く。
「どうせ連絡先聞いても言わねえだろうし」
続けるようにそう言ったミヤビは、財布の中から黒い紙を取り出して。
「コート。返せとは思ってねえけど、返すつもりがあるなら持って来い」
その紙を、またコートの左ポケットに入れた。
試されてるのかと思った。
あんな
そうじゃないにしても、今持って帰ればいいじゃんって思った。
ボタン外して引っ張るだけでミヤビの手許に戻ってくるんだからそうすればいいじゃんって思った。
でも思っただけで言葉には出来なかった。
国道の方を見ていたミヤビが不意に左手を挙げて、ちょうど通りがかったタクシーを止めたから。
「じゃあな、無口なアリス」
そう言って、さっさと止めたタクシーに乗り込んだから。
ミヤビを乗せたタクシーは、すぐに走り出した。
遠ざかるタクシーのテールランプを眺めながら、複雑な気持ちだった。
ミヤビは「またな」じゃなく、「じゃあな」って言った。
本当にコートを返せとは思ってないらしい。
安物って感じじゃないのに。
むしろ高いだろって肌触りなのに。
それより何より、こんなコートあたしの手許にあったってどうしようもないのに。
幅の大きさもさる事ながら、ミヤビとの身長差が二十センチ近くある所為で、着せられてるコートの丈が長い。
裾が足首まであるこんなコート、あたしが持ってたって着る訳にもいかないし、何の役にも立たない。
だからやっぱり今持って帰ってくれたらよかったのに。
――てか、持って来いってどこに?
疑問ばかり残して立ち去られて、どうしようもないあたしは、とりあえず今ひとつだけは疑問を解消出来そうな物を見ようと、コートの中でジタバタして何とか頭からコートを脱いだ。
そしてコートの左ポケットから、ミヤビが入れた五千円札と黒い紙を取り出した。
黒い紙は名刺だった。
表側に白字で「CLUB
――面倒臭い。
まず思ったのがそれだった。
次に思ったのも同じだった。
コートを返したいとは思うけど、名刺にある住所からして明らかに「不思議の国」だったから、面倒臭いし行きたくないと思った。
ミヤビだって返せとは思ってないって言ってたし、最悪返さなくてもいいかなって。
どういう人間に思われてもいいやって。
そんな風に開き直って、ちょうど信号が青になった横断歩道を渡りながら、サイズ感の合わないコートを着直して、指先の寒さを凌ぐ為にコートのポケットに両手を突っ込んだ。
途端に、右手に違和感を覚えた。
コートの右ポケットに何か入ってる。
その何かが何なのかは、見るまでもなく触った感じで察してしまった。
恐る恐るソレを掴んで、ポケットから取り出した。
ソレは案の定、スマホだった。
――はあ?
これって一体何の罠なの。
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