最早因縁


 どっかで俺降ろして——と言ったミヤビが、あたしを連れてミニバンから降りようとしてるのは、あたしを隠そうとしてるらしい状況から考えて、聞くまでもなく分かってた。



 だからミニバンが停まってすぐ、ミヤビがあたしの頭を片腕で抱いたまま動き始めても抵抗しなかった。



 後部座席のスライドドアが開く音がして。



 ミヤビの手があたしの頭から離れて。



 ミヤビの体温を間近に感じなくなった直後に腕を掴まれて。



 コートで視界を遮られて前が見えないあたしを導くような感じでミヤビに腕を引っ張られながら、とりあえずは想像し得る中で一番最悪な事態にはならずに済んだ事にホッとした。



 段差で転ばないように足許を確認しながらミニバンから降りると外の冷たい空気を感じて、解放された感覚に息を吐いた直後、腕を掴んでるミヤビの手が離れていった。



 ミヤビが動く気配と、間もなく聞こえたスライドドアが閉まる音。



 そのすぐあとに聞こえてきたミニバンが走り出す音。



 あたしから離れていくミニバンのエンジン音と車体の気配。



 そして。



「お――」


 ミヤビが何か言い始めたのと同時に、頭から被せられてたコートが引っ張り取られて。



「――まえ、バカか!」


 視界が開けた瞬間、目の前にいたミヤビにいきなり喧嘩を売られた。



――は?



 何がどうなってこうなってるのかの経緯の説明も一切なしに喧嘩を売られて、意表を突かれすぎて不覚にも呆然としてしまった。

 


「お前何やってんだ!? バカか!? バカなんだな!? このバカが!」


 そんなあたしに向かって「バカ」を連呼しながら唇を歪ませて喚き散らかすミヤビは、右の眉だけを器用に上げた、言ってくる内容以上に腹立たしい表情してる。



「お前、俺に売春ってねえって言ったよなあ!? だったらあんな場所トコで何やってんだ、ああん!?」


 喚きながらボルテージが上がってきてるのか、ミヤビがどんどん早口になっていくから、聞いてるだけで息がしづらい。



 てか、何で。


 

「ただのホテル街じゃねえだろうが! あの地域のあの場所がどんなトコか知らねえ訳じゃねえだろ! ヤバい場所だってのは有名だろ! 売春ってねえならあんなトコ何でウロついてんだ!」


 あたし、ミヤビあんたに喧嘩売らなきゃなんないの。



「お前本当は売春ってんじゃねえのか!? 俺に嘘吐いてただで済むと思ってんじゃねえだろうな!? ぶっ殺すぞ、こ――の野郎いい加減何か喋れや!」


 最後の言葉がひと際大きかったミヤビの声が、やけに夜の静寂しじまに反響した。



 一体どこで車から降りたのかと周囲を見渡すと、見知らぬ場所のデカい建築現場の前だった。



 その周りにも会社っぽい建物がいくつもあるけど、時間が時間だけにどこも電気が消えてる。



 通りの外灯も少ないから一帯が薄暗いし、人もいない。



 そんな場所で喚くから、ミヤビの声が矢鱈と反響してうるさい。



「おいコラ、聞いてんのか!」


――黙れ。



「シカトしてんじゃねえ!」


――黙れ。



「喋れっつってんだろうが!」


――鬱陶しい。



「てめえ、いい加減に――」


「地元」


「ああ!?」


 建築現場に顔を向けたまま溜息交じりに出したあたしの声が小さくて、ミヤビは聞こえづらかったらしい。



 でも、「聞こえづらかった」ってだけで決して「聞こえなかった」って訳じゃなかった。



 腹立たしい表情を一瞬にしてやめたミヤビは。



「……何だと?」


 数秒の間をつくったあと、眉を顰めて低い声を出した。



 その問い掛けは、聞こえなかったからじゃなく、本当なのか確認する為にしたものだってのはすぐに分かった。



 それが証拠に。



「住んでんの。地域トコに」


 建築現場からミヤビに目だけを向けてしたあたしのその返答に、ミヤビは分かりやすく絶句した。



 ミヤビだからこそ、そうなるってのも分かる。



 一般人には大して分からない事だけど、縄張りが何だ仕切りはどこだと権力ちからを誇示する事ばかりを考えるような世界で生きてるミヤビには、ミヤビの地元から然程遠くはないあたしの地元が、どれほど最悪クソな場所なのか分かってる。



 その上、そこに住んでるのがどんな人間なのかも知ってる。



 だから、ミヤビは何も言わない。



 今さっきまであんなに喚き散らかしてたくせに、真顔であたしを見下ろしたまま、完全に口を噤む。



 ただあたしに向けられてるその目には、間違いなく蔑みが含まれてる。



 あそこが地元だってだけでこの扱い。



 そんな反応には慣れてるから、いちいち腹が立ったりはしないけど、気分がいいものでもない。



 まあミヤビに何をどう思われようが、どうでもいいけど。



 それでも先に目を逸らす事も指のひとつも動かす事も出来ない沈黙の時間を落ち着かなくは思った。



 てかそもそも、何でこうなってんのか分からない。



 突然ミヤビが現れた事も、そのミヤビに走らされた事も、ミニバンに乗せられた事も、この場所に連れて来られた事も。



 分かるのは今寒いって感覚くらい。



 風を妨げる建物が周りにないから余計に寒い。



――てかマジで、この状況って一体何。



 そうやって、結局あたしだけが何がどうなってるのか分かってないから。



「……何であたしここにいんの」


 沈黙に負けたみたいで嫌だけど、あたしが先に口を開く羽目になった。



 この場所である理由は、ミニバンの車内で聞いてた会話の内容からして適当に選ばれたってのは分かるんだけど、ここに至るまでの経緯や理由を説明して欲しかった。


 

 なのに。



「知るかよ」


 あたしをここに連れてきた当の本人のミヤビの口から吐き捨てるように出てきたのは、そんな有り得ない返答。



 しかも。



「何でこうなったのか知らねえよ」


 どういう訳だか声は低いし、明らかにあたしを睨み付けてて、分かりやすくキレてる。



 更には。



「つーか、何でか知らねえが、めちゃくちゃお前にムカついてきたんだが」


 謎に因縁まで付けてきやがった。



 ミヤビこいつの感情は一体どうなってんだ――と、呆れるしかなかった。



 ミヤビの頭の中がどうなってるのか全く分からなかった。



 ただ、訳の分からない言動をするところは初めて会った時と変わらない。



 どういう思考回路を持ってるのか理解出来ないのも変わらない。



 そしてミヤビがそんな人間である理由は分かる。



 多分、「強者」側の人間だからなんだろうと思う。



 好き勝手な言葉を吐いて、好き勝手な行動をして、好き勝手な態度を取って。



 それでもそれが許されたり通用したりする人生を歩んできたから、そういう人間になったんだろうと思う。



 他人ひとに合わせるんじゃなく、他人から合わせてもらえる人生。



 他人に合わせる事を強要されて余儀なくされるあたしとは、正反対の側で生きてる人間。



 そんな奴とこれ以上関わったらロクでもない事になる。



 これまでの経験上どうしたってそれが分かってるから、さっさと帰る事にした。



 ここに至った経緯や理由を知る事も諦めた。



 何よりこの寒空の下にあと少しでもいたら凍死するかもしれないって、マジで思うくらいに寒かった。



 先に逸らしたくなかった目を逸らして、指のひとつどころか体全体を動かして、ミヤビに背中を向けて歩き始めた。



 でもその足はすぐに止めざるを得なくなった。



 「どこ行くつもりか知らねえが、お前の地元はそっちじゃねえぞ」


 低い声を継続したままのミヤビのその一言で。

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