目先真っ暗


「――さ、むっ」


 ファストフード店から出た途端、口を衝いて出たあたしのその言葉に、隣にいたルナは「制服ブレザーすら着てないんだからそりゃ寒いよ」と笑った。



 金曜の夜。



 学校終わりにルナに誘われて地元の繁華街に遊びに来て、ファストフード店で夜ご飯を食べながら、何時間もルナの取り留めのない話を聞き続けたあと。



 ルナのスマホに誰かからのメッセージが来て、ルナが「用事が出来た」って言うから解散する事になって出た、ファストフード店の前。



 もうどうしたってアウターがなきゃやってられない寒さに、体が自然とブルッと震えた。



 日に日に寒くなってるけど、今日は特別寒い気がする。



 夜だからってのもあるんだろうけど、昨日はここまで寒くなったから、油断して制服の下にインナーすら着てこなかった事が悔やまれる。



「アリス、ブレザー見つからないの?」


「うん」


「押入れの奥の方とか探した? あと、ハクトさんの部屋までとか」


「探した。兄貴の部屋は三回くらい探した。けどない」


「そっか。でもハクトさんに持っていかれたのってモッズコートだけでしょ? アリス、ダウン持ってたよねえ? それ着ればいいんじゃない?」


 ルナに笑ってそう言われて、「まあ、そうなんだけど」とは思ったけど、ダウンを着るにはまだ微妙に早い気がした。



 目の前を行き交う人たちの中にも、まだそこまでがっつり防寒って格好をしてる人はいない。



 まあもちろん、あたしほど薄着な人もいないんだけど。



「帰ったら一応ダウン出してみる」


「それがいいと思う! ルナの大好きなアリスが風邪ひいたりしたらルナ悲しいもん!」


 なんて、どういうたぐいのお遊びだか分からない事を言ったルナは、「じゃあ、ルナあっちだから」と駅の方を指差して、「また月曜にね」と手を振って走っていく。



 そんなルナの後ろ姿を、何とも言えないよく分からない感情で暫く眺めてたあたしは、吹き付けた冷たい風に体を震わせ、我に返って帰路に就いた。



 歩きながらスマホで時間を見てみると二十二時半を過ぎてた。



 それでも週末って事もあって、繁華街の大きな通りは人で溢れ返ってる。



 すれ違う人たちが楽しそうに笑ってたり喋ってたりするのを見て、こういう時にたまに湧き上がってくる、妙な感覚に襲われてしまった。



 ここを地元だと言う人間は、誰しもが自分の人生をロクでもないものだと、人によって差はあれど確実に思ってる。



 なのに、そんな人間ばかりが住んでるこの場所に、そうでない人間がこぞって遊びに来てる事を奇妙に感じる。



 もちろん、地元外ソトの人間は、ここがどれほどクソみたいな地域トコなのか分からないから来るんだろうけど、本当なら交わる事のない世界の人間同士が、繁華街ってものがあるが故に交わるこの環境を、受け入れきれない時がある。



—―ううん。違う。そうじゃない。



 多分あたしは羨ましい。



 あたしとは違う、キラキラと輝くような人生があるって知ってはいるけど、実際にそうである人間を目の当たりにすると、羨ましくて、妬ましくて、息苦しくなる。



 つまり受け入れきれないのは、ここに集ってる地元外の人間をって事じゃなくて、自分が置かれてる立場だったり環境だったりをって事。



 奇妙な感覚なのは、何だかんだ言いつつも諦めきれてない自分に対してのもので、ただ単に往生際が悪いってだけ。



 本当に全てを諦めて、抗う事をもやめてしまえば、もしかしたら地元こんな場所ででも、幸せだと思える時があるのかもしれない。



 でもまあそんな事、やろうと思って出来るものなら、既にやってるんだけど。



 息苦しさに耐え兼ねて、人の多い大きな通りから小路に入った。



 道と道がぶつかって、やたらと十字路が続くその小路の、ラブホテルが建ち並ぶ通りに足を踏み入れた。



 それが失敗だった。



 もう一本奥の十字路を曲がればよかった。



「おい、アリス」


 通りに入った途端、覚えのある声に名前を呼ばれた。



 場所が場所だから嫌な予感しかしないのに、聞こえなかった振りをして逃げなかったのは、声をかけられたのがほんの数メートル前からで、いくら何でも「聞こえなかった」は通用しないと分かったから。



 見るとそこには顔見知りの男がふたり立っていた。



 なりたくてなった顔見知りじゃなく、兄貴がこいつらと関わってたから嫌でも顔見知りになったってだけの「顔見知り」。



 顔を知ってるだけで名前なんか知らない。



 年齢だってリオンさんと同じくらいかちょっと上って感じくらいでしか知らない。



 でも人間としての下劣さが、しっかり表面に滲み出てる奴らだってのはよく知ってる。



「ちょうどいいところで会った」


 あたしにとっては最悪のタイミングで会ったんだろうと思う言葉を口にして、男ふたりは下卑た笑いを口許につくって近付いてくる。



「お客が急遽三人でヤるのを所望されてな?」


 頼んでもないのに状況を話しながらあたしの目の前で足を止めた男は。



「女がひとり足りねえんだわ」


 その続きは聞かなくても分かるって思う事を続け様に口にする。



—―だから何だ。



 そう思ったって、こいつらみたいな人間相手には意味がない。



「あたしには関係ない」


 だっていくらあたしが正論を言ったって。



「ああ? 何? 聞こえねえなあ」


 そんな言い分どこの世界で通じるんだって思うような事を平気で言いやがる奴らだから。



—―マジでクソだ。



「あたしには関係ない」


「女がひとり足りねえんだ」


「あたしには関係ない」


「バカだから分かんねえのか? 俺はお前に客の所に行けっつってんだよ」


「いやマジであたしには関係ないから」


 そうとだけ言って、踵を返した。



 家とは逆の方向だけど、家の方向にはこいつらがいるからそうするしかなかった。



 ただ、それで逃げられるとも思ってなかった。



 逃げられたらいいなって程度からの行動だった。



 案の定、すぐ男に肩を掴まれた。



 直後に力ずくで体を向き直らされた。



「あそこの五一二号室だ。行ってこい」


 男ふたりとまた向き合うカタチになった矢先、男のひとりが建ち並ぶラブホテルのひとつを指差して、有り得ない事を言ってくる。



 はいそうですか——と、素直に従うと本気で思ってるんなら、こいつらかなり頭が悪い。



 若しくはあたしをナメすぎてる。



「何だ、その目は」


—―黙れ。



「今更何が嫌だってんだ」


—―黙れ。



「今までお前は兄貴に言われて何回もこういう事ヤってんだろうが」


—―黙れ。



「簡単だろ。シャブって喘いで股開いてりゃいいだけなんだからよ」


—―黙れ。



「断れると思ってんのか? 俺らはお前の兄貴に散々貸しがあんだぞ」


—―黙れ。



 兄貴に貸しがあるから何だってんだ。



 あたしはお前らに何の借りもない。



 お前らみたいな奴はいつだって、貸しが何だ弱みが何だと偉そうに宣って、他人ひとを自分の都合がいいように使いやがる。



「おい、聞いてんのかよ、アバズレ」


—―ふざけんな。



 あたしが借りた訳でもないものを返す為に、何であたしが体張らなきゃなんねえんだ。



「さっさと行ってこい!」


—―マジふざけんな。



 そんな不条理が何で罷り通ると思ってんだ。



 ムカつく。



 ムカつく。



 ムカつく。



 何が一番ムカつくって、あたしが思ってる事は何も間違っていないのに、結局訳の分からない事を言ってるこいつらの、思惑通りになるしかない、やっぱりクソでしかないあたしの人生がムカつく。



 さっきなった妙な感覚の所為で余計にムカつくのかもしれない。



 通りの二本向こうには楽しそうに笑って幸せ感じてる人間がいっぱいいるってのに、そんなに距離も離れてない場所で何であたしはこんな目に遭ってんだってムカついて仕方ない。



 あたしと向こう側の人間に何の違いがあるってんだ。



 生まれ育った場所が違うってだけで何でこんなにも差が出るんだ。



 必死になって生きてんのはあたしの方のはずなのに。



「手間かけさせんじゃねえ、アリス」


—―黙れ。



 ここでめちゃくちゃに反抗してこいつらをバカみたいに怒らせて、顔面ボコボコに殴られて、見るも無残な見た目になったら、こいつらの思惑通りにしなくて済むかもしれない。



 めちゃくちゃに反抗するっていうか、一発殴ってやってるのもいい。



 一方的にやられるくらいなら、最初の一発だけでも殴ってやりたい。



 そう思った。



 いつもなら諦めて次の手を考えるこの場面で諦める事をしなかったのは、幸せな人間たちを目の当たりにしたばかりだからかもしれない。



 だから拳を握り締めてた。



 次に何か言ってきたら思いっきり殴りかかってやろうと思ってた。



 けど、実際にそれを実行する事はなかった。



「――あ?」


 ベラベラと喋ってたのとは違う方のもうひとりの男が、何かに気付いたように言葉を発してあたしの背後に視線を向けた。



 それが余りにも突然で意味不明な言動だったから、殴りかかろうとしてた事も忘れて、何なんだと思った。



 矢先。



—―は?



 間近に何かの気配を感じたのと同時に、あたしの目の前が暗闇に包まれた。

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