不思議の国


 あたしが住んでる場所は、この国の底辺なんじゃないかと思うほどにクソみたいな地域。



 二キロ圏内にある駅前には、少し小さいけど繁華街もあって華やかだけど、地元民しか行く事がない、駅から離れた住宅区域の方に進んでいけばいくほど、ヤバくなる。



 汚いし、うるさいし、臭い。



 犯罪紛いの出来事は日常茶飯事に起こるし、犯罪だってしょっちゅう起こる。



 それでも捕まる奴が少ないのは、警察ですら来るのを躊躇するような地域だから。



 そんな場所に住んでる人間は、まともな奴がひとりもいないどころか、ロクでもない奴しかいない。



 もちろん程度の差はあれど、あたしだって例外じゃない。



 地元の人間以外も来る繁華街だって絶対的な安全地帯って訳じゃなくて、大きな二本の通りを中心にして裏通りや小路が碁盤の目みたいに広がってる通りを、一本間違って足を踏み入れればヤバい場所だってある。



 でもそこで生まれ育った人間としては、その危なさもその特殊さもその退廃的なり方も何もかもが当たり前で、ここが地元外ほかとは違うと分かっていても離れようとは思わない。



 むしろ自分たちがそんな地域で育った所為で、地元外ほかの人間と比べて異質な存在だと理解し、馴染めないと分かってるから、離れたくないのかもしれない。



 あたしも地元外ソトには滅多に行かない。



 もうすぐ十七年間となる人生で、地域外ソトに出たのは数えるほどしかない。



 だから初めてだった。



 ドピンクで黒ずくめの「騎士」に、ハイエンドなホテルからダークブルーのセダン車に乗せられて連れてこられた、かの噂の「獣神」のナワバリである、あたしの地元から然程遠くはない場所のデカい繁華街に来たのは。



 車を停めた「騎士」に半ば強制的に助手席から降ろされたのは、矢鱈と高級そうな車が並ぶ自走式立体駐車場の中だった。



 車は、階層が五層あるその駐車場の四層目に停められた。



 繁華街の端辺りにあると思われるその駐車場からはデカい繁華街の明かりが見えた。



 酷く綺麗だった。



 あたしの地元の繁華街とは違って、色とりどりの明かりは何のくすみもなくキラキラと輝いてる。



 夜景の映像や写真なんかで見るのとは全然違う。



 これが本当の華やかさなのかと、地元外の繁華街ヨソを生で初めて見て思った。



 なんて、状況が状況なのにも拘わらず悠長な事を思えるのは、育った環境で培われた諦めの早さのお陰なのかもしれない。



 地元あそこで生きていくには、何に対しても早い諦めが必要。



 諦める事が出来ないと、その分辛くなる。



 ただ諦めたからって、恐怖を感じない訳じゃない。



 スマートキーで車を施錠した「騎士」が、また左手であたしの右手首を掴んで歩き始める。



 駐車場のエレベーターに乗り込んで、一階に行く為のボタンを押す。



 エレベーターの中は、モーター音が聞こえるだけ。



 静かだから、これから何をされるのか色々と考えてしまって、また更に怖くなった。



 暴力振るわれるにしたって、暴行されるにしたって、そんなの怖いし嫌に決まってる。



 確かに地元外ホカの人間よりそういう危険や経験が多い分、腹が据わってるかもしれないけど、痛いものは痛いし、辛いものは辛いし、怖いものは怖い。



 じわじわと甚振られるくらいなら、いっそ一撃で仕留めて欲しい——なんて思った時、エレベーターが止まってドアが開いた。



 直後にエレベーターから降りて、繁華街の方に歩き出す「騎士」が、あたしに目を向ける。



 そして。



にようこそ」


 バカにしたような笑みを口許につくって、冷やかすような声で言葉を吐く。



 あたしの人生にいて、余りにも言われ慣れ過ぎてるワードを使ってきたから、「騎士」に対して呆れに呆れて、発想力のないクソつまんねえ奴だと思った。



 その思いがあたしの表情に出てたのかは分からないけど、「騎士」は口許のバカにしたような笑みを消してすぐに前に向き直った。



 そしてさっき見えた繁華街の明かりの方へと、あたしを連れて歩いていく。



 裏通りか地元の人間しか知らない通りなのか、それともわざとそういう通りを選んでるのか、「騎士」があたしを連れて歩く道は、街灯も少なく薄暗くて静かで誰もいない。



 ただ理由は何であれ、あたしの恐怖心を煽るには効果的だった。



 外部からの情報が少ないと、それだけ意識が思考に向いて、進むにつれて怖さが増していく。



 全身から血の気が引いていってるのも、足が震えてるのも自覚してる。



 全てを諦めて、怖いという感覚さえもあたしの中から消えてくれればいいのに。



 百メートルほど先に、眩い光を放つ通りが見える。



 沢山の人たちが行き来してるのも見える。



 見た事がないほど華やかで、賑やかで、温かさすら感じる光。



 地元のような、ギラギラしてるだけの厭らしい感じの光じゃない。



 怪しさも妖しさもなく、確かに人が多くて賑やかではあるけど、どこか穏やかさがあるように感じる。



—―嗚呼、ここは本当に「不思議の国」なのかもしれない。



 なんて事を思った時、ふと視線を感じた。



 右隣に目を向けると、半歩前を歩く「騎士」がこっちを見てた。



 身長差でどうしたって見下ろされる視線には何の意図もないんだろうけど、見下ろされてる側のあたしとしては見くだされてるようで不愉快さを感じた。



 だから。



—―何だよ。



 そんな気持ちを込めて、精いっぱいの虚勢を張って、睨み上げた。



 だけどあたしの睨みなんて、名高い「騎士」には全く利かなかったらしい。



 利かないどころか寸分の不快さも与えられなかったらしく、「は?」って感じの表情をされる始末。


 

 もしかしたら睨んでるって事すらも「騎士」には伝わらなかったのかもしれない。



 そんな、睨んでる事も分かってもらえないあたしに向かって、「騎士」は口を開いた。



「お前――」


 ただ、言葉を発したのはそこまでだった。



「ミヤビ」


 まるで「騎士」の言葉を止めるかのように、後ろの方から男の声が聞こえた。



 後方から聞こえた声に、「騎士」は視線を向けて直後に足を止めると、「おう」と表情を柔らかくした。



 だから声をかけてきた男が「騎士」と親しい間柄の人間なのは分かって、あたしにとっていい状況じゃないのが理解出来た。



 ハイエンドなホテルで「騎士」は、あたしを誰かに渡すと言った。



 その「誰か」っていうのが、声をかけてきた奴なのかもしれない。



 そう思った矢先。



「カナタ、いいところで会った」


 そんな風に「騎士」が言ったから、やっぱりそうなのかもって思いが強くなった。



 だから後ろは見なかった。



 声をかけてきたのがどんな男か見たくなかった。



 行くはずだった「不思議の国」の大きな通りに目を向けて、どうにか恐怖心を抑えようと必死だった。



 自分の中ではどれほど恐怖心が大きくなってもいいけど、こいつらには絶対気付かれないようにしなきゃいけない。



 気付かれたら終わる。



 それが弱肉強食のことわりだと知ってる。



「いいところって何」


 男の声が近い。



 多分もう、すぐ傍にいる。



「お前の車借りたから鍵返そうと思ってた」


「俺の車? 何でミヤビが鍵持ってんの」


 ふたりはまるであたしなんかいないかのように普通に会話をし始める。



「リストにあったから持ってったんだよ。お前がリストに置いてたんじゃねえの?」


「置いてない。何でリストに俺の車の鍵があるんだ」


「知らねえよ」


 嫌でも耳に入ってくるその会話を聞いて、分かった事がある。



「サブキー?」


「いや、マスターキー」


 最初聞いた時は分からなかった「ミヤビ」っていうのが、このドピンクで黒ずくめの「騎士」の名前だって事。



 そして声をかけてきた男が、多分「カナタ」って名前だって事。



「何で」


「知らねえって」


 男でも女でも使えそうな「ミヤビ」って名前が、中性的な顔をしてるこのドピンクで黒ずくめの「騎士」に合ってる気がした。



「つか、何で俺の車? ミヤビ、自分の車は?」


「車検」


「代車は?」


「借りる必要ねえだろ。車が必要な時は誰かの車乗ってきゃいいんだし」


「それで俺の車ね」


「ああ」


「でも俺、リストに鍵置いた覚えねえんだけど」


「どうせまたどっかに忘れてて、誰かがリストに届けたとかじゃねえの」


「ふーん」


 後ろにいるカナタの、その気のない感じの「ふーん」が、聞こえてきた感じからあたしを見ながら吐かれたんだと分かった。



 だから反射的に、カナタの方に目を向けてしまった。



 思った通りカナタはあたしを見てた。



 その所為で、否が応でも目が合ってしまった。



 その瞬間。



—―こいつ、ヤバい。



 だと分かって背筋が凍った。

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