Trap
そう思って考えてみれば、最初からおかしかった。
家に大事な封筒を忘れたから制服のまま持って来い——なんて。
制服のままである理由が「高級なホテルだから」って。「学生の正装って言や制服だろ」って。「実際学生は冠婚葬祭に制服着るだろうが」って。
そんな言葉を鵜呑みにしたあたしがバカだった。
それに、あのクソ兄貴が地元から離れた場所にある、こんなハイエンドなホテルにいる事がおかしい。
いくら「頼まれた仕事で人と会う為に来てる」って説明されたからって、ちょっと考えれば、あいつがやりそうな仕事でこんなホテルに来る事なんかないって分かったはずなのに。
たまに仕事だとかで地元のビジネスホテルで誰かと会ってたりするから、何も考えてなかった。
つーか、そもそも何を言われようが、
—―あいつはこういう
ほんの数秒の事だったけど、そんな風に考えを巡らせられたのは、そこまでだった。
ドピンクで黒ずくめの男に腕を掴んで引っ張られて、否応なしに部屋の中に入れられた。
そんなに強い力で引っ張られた訳じゃなかったけど、抵抗しなかったのは無駄だと思ったから。
まだ相手がおっさんだったら腕を振りほどいて走って逃げたら逃げ切れるだろうけど、二十代前半くらいであろうこの男が相手じゃ逃げたとしても追い付かれる可能性が高い。
可能性が高いどころか、足の長さの差から考えて絶対に追い付かれる。
見たところ身長が百八十センチくらいある、ドピンクで黒ずくめの男は、あたしの腕を掴んだまま部屋の奥に歩いていく。
流石ハイエンドなホテルだけあって部屋の中も広くてオシャレだった。
それでもホテルはホテル。
宿泊を軸とする部屋のメインはやっぱりベッド。
ワイドダブルのベッドがひとつ、部屋の中心にあった。
男はベッドの近くまで行くと、ようやく掴んでた腕を離した。
そして立ってるあたしに真正面から向き合うカタチで、人ふたり分の距離がある位置のベッドに腰かけ、長さを持て余すように足を組んだ。
「なあ、それマジもんの制服か?」
軽い口調で話す男の二重瞼の目があたしに向けられてる。
「おい、聞いてんのかよ?」
無言を貫くあたしに向かって発せられる次の言葉も軽い口調。
「現役の女子高生が
その口調の軽さが、あたしを見くだしてるからのものだってのは嫌でも分かってる。
—―てめえはその現役女子高生を金で買ったクソ野郎だろうが。
そう言ってやりたかった。
でも言わなかった。
言えなかった。
「――アリス」
今まで一度も会った事がない、ドピンクで黒ずくめな目の前の男に、突然名前を呼ばれた
男はまるであたしの返事を待つかのようにジッとこっちを見てくる。
絶対に言葉は発しないと決めてるから、あたしは黙って男を見据えてた。
思考や感情を悟られないよう、表情を変えない事も意識してた。
だけど正直、心中は穏やかじゃない。
どうして名前を知ってるのか分からなくて困惑してた。
まさかクソ兄貴が本当の名前まで告げてたのかと思ってムカついた。
こういう時は名前を告げるにしたって偽の名前を使うのが常識だろうがって、一番の問題はそんなところじゃないのに、兄貴に対して殺意さえ芽生えてきてた。
でも実際は、兄貴があたしの名前を告げてた訳じゃなかった。
「それ、お前の名前?」
返事を待つ事に痺れを切らしたのか、男があたしの首元を指差して聞いてくる。
すぐには理解出来なかった男のその言動の意味が分かったのは、指を差されて十秒以上が経ってから。
—―ヤバい。
なんて思ってももう遅い。
男の目はしっかりと、あたしの首にある「Alice」と書かれたシルバーのネームネックレスを捉えてる。
「まあ、他人の名前のなんか付けねえか」
納得するように独り
意思とは関係なく思わず後退しそうになったその時、自分でも持ってる事をすっかり忘れてた、さっき鞄から取り出してた兄貴の封筒を、男はあたしの手から引き抜くようにして取った。
男は自分の目の前まで封筒を持ってくると、しっかり封をしてあったその封筒を手で破って開ける。
そして中に入ってた紙をゆっくりと取り出した。
その紙には何か書いてるらしかった。
男の目が紙に書いてる文字を読むように動いてる。
一体何が書いてあるのか知らないけど、ロクでもない内容だってのは想像出来る。
男の視線が紙からあたしに戻ってくる。
嫌な予感しかしなかった。
「後払い分は現金でこの封筒に入れてお前に渡せって書いてあるけどよお。お前、全額十五万のシゴトちゃんと出来んのかよ」
—―じゅ……う……ご……まん……。
指示が書いてあったらしい紙を、人差し指と中指の間に挟んでヒラつかせる男の言葉に、今回のヤバさの度合いを知った。
ただヤるだけの金額じゃない。
いくら相手が現役の女子高生だとしても、ただのセックスでそんな金額設定しない。
何をされるか、何をさせられるか、考えたくもない。
今までの経験上、男が払った前払い分は半額以上。
そんな金額簡単に諦められるもんじゃないだろうから、隙を突いて逃げたって絶対本気で追いかけてくるだろうし、意地でも捕まえようとするはず。
この男じゃなくても、どれだけあたしが死ぬ気で走って逃げたって、余程のジジイかデブじゃない限り本気になった男に勝てる訳がない。
なんてあたしの考えは、根本的に間違ってた。
隙を突いて逃げるも何も、目の前の男にはまず「隙」がなかった。
この男の動向から目を離しちゃダメだと、本能だか何だかで感じて見つめてた先。
男が指で挟んでた紙を落とした。
思わずその紙に視線を移してしまった直後。
「まあ、一応」
耳を掠めた言葉にハッとして視線を戻したけど、もう遅かった。
男があたしの腕を掴む。
「死なない程度にならナニしてもいいらしいが」
話しながらあたしの腕を引っ張る男の力は、さっきとは比べものにならないほど強い。
油断してたあたしの手から鞄が放れる。
足が勝手に前に進む。
男の力でベッドに無理矢理近付かされて、足の裏が床から離れていく。
腕を痛いくらい引っ張られて、体が僅かに宙に浮く。
「そもそもお前、さっきから口利かねえけど——」
背中に微かな衝撃を感じて。
「――喘げんの?」
あっという間にベッドの上で仰向けにされたあたしの体を跨ぐようにして、流れるような動きで男が膝立ちになった。
ヤバい状況だってのは体が強張るほど分かってるのに、あたしのお腹の上辺りで膝立ちになってるこの男から、どうやって逃げればいいのか分からない。
暴れたって、押さえ付けられたらそれまでだし。
殴るにしたって相手が気絶するくらいの力で殴れる訳ないし。
股間を思い切り蹴ってやろうにも男がいる位置が悪い。
でもどうにかこのヤバい状況を—―。
そこまで考えた時、男の右手が制服のシャツのボタンに伸びてきて、思考が一時停止した。
男は右手だけで器用に一番上のボタンを外す。
そしてすぐに二番目のボタンに手を掛ける。
体が強張って、何の抵抗も出来ない。
腹を括ればいいんだろうか。
そうしたら楽になれるんだろうか。
どんな事をされて、どんな事をさせられるか分からないこの状況で腹を——。
「ナニされると思う?」
ボタンを全て外され、シャツを
その直後、ギュッと強く瞼を閉じてたあたしに聞こえてきたのは、聞き慣れた「カシャリ」というシャッター音。
ハッとして瞼を開いた先に見えたのは、尚も同じ体勢のまま、スマホのカメラをこっちに向けてる男の姿。
—―撮られた。
それはすぐに分かった。
だけどそれが分かったからって、あたしに出来る事は何もない。
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