泊まりたい

 普段、綾瀬がうちに泊まることはない。

 どれだけ遅くなっても家までは帰すようにしていたし、そもそも付き合ってもない男女が一つ屋根の下で泊るとなると色々と問題になるからだ。

 もちろん、異性の友達同士でそういうことをする……なんて、もしかしたらする人もいるかもしれない。

 しかし、そんな度胸があるならとっくの昔にやっているし、できることならそういうことは好きな人と大事にしていきたい。


 それは綾瀬も分かっているのか、遅くなっても今までうちに泊まることはなかった。

 けれども、綾瀬と友達になってから初めて、彼女の口から「泊まりたい」と口にされた。


 俺は―――


「……とりあえず、母さんに連絡だけする」

「……えっ?」

「泊まるんだろ? 一応、綾瀬の両親にも一報ぐらいは入れとけよ」


 俺はスマホを取り出して母さんに連絡すると、綾瀬に背中を向けてそのままリビングへ向かう。

 すると、追いかけてきた綾瀬が少し不思議そうに口にした。


「い、いいの……? いっくん、普段泊まらせようとしないじゃん」

「そりゃ、いくら仲のいい友達とはいえ、男女が一つ屋根の下っていうのはよろしくないからな。それは、綾瀬だって分かってるだろ?」

「ま、まぁ……」

「でも、そんな顔されて言われたら首を縦に振るよ。言っただろ、なんだって」


 もちろん、何かするつもりはない。正直に口にするが、下心も一切ない。

 ただ、綾瀬が心配だから。

 あんな顔をされて無理に突き放す方が―――


「ん?」


 ふと、スマホが震える。

 先程、母さんに連絡したから、その返事でもきたのだろうか?

 俺はもう一度スマホの画面を開き───


 母さん『ついに我が息子も大人の階段を登るのね!? 君はまだシンデレラなのかしら!?』


 張り倒すぞこの野郎。


「で、でも……いっくん、額に青筋が浮かんでるし」

「安心しろ、俺は見えないけど多分身内に対しての青筋だと思うぞこれ」


 しれっと知ってる曲をぶっこんできているところが絶妙に腹立つ。


「まぁ、さっさと皿洗ってテレビでも観ようぜ。ちょうど推しのアイドルが歌謡祭に出るんだ」


 俺がそう言うと、綾瀬は少しオドオドとした様子でキッチンまで向かう。

 皿を回収し、流しに置くと、少しの間水の流れる音だけがリビングに広がった。

 すると―――


「……何も、聞かないの?」

「ん?」

「普通、気にならない? いきなり泊まろうとか言いだしたりさ、ちょっと落ち込んだりしたらさ」


 皿を拭いていく綾瀬が、そんなことを口にする。


「そりゃ、気になるかどうかで言えば、すっごい気になる……けど、別に無理に聞くつもりはない」

「そう、なの?」

「あくまで憶測で、間違ってたら恥ずかしいんだが……綾瀬は、ちゃんと言おうとしてくれてるだろ? んで、少し気持ちを整理する時間がほしいから泊まりたいとか言ってきた」


 もしも、すぐに言えるような話だったら、泊まるなんて言わずとも少しお茶を飲んでいる間に済ませられる。

 けれども、そういう提案をしてこなかったということは、いつ言い出せるか分からなかったから。

 ならば、無理に聞き出す必要はない。

 泊まると決まったのなら、まだまだ時間もあるはずだし。


(それに、家に帰りたくないとか、今だけは誰かといたい……とか、あるかもしれないしな)


 だったら、綾瀬が納得するまで傍にいればいい。

 どんな事情があるとしても、俺ができることは最大限するつもりだ———だって、綾瀬は俺の中でだから。


「……いっくんは、優しいなぁ」


 カチャ、と。皿の置く音が少しだけ響く。

 無言の状態が少し続いたからか、もう流しにある食器も残り僅か。

 綾瀬が棚に戻してくれているおかげで、これならすぐに片付けも終わるだろう。


「私のこと、なんでも分かってくれる」

「なんでも分かったら、今まで苦労してないマジで」

「……嘘ばっか」


 そして———


「分かってる、クセに」


 ふと、背中に柔らかい感触と温もりが広がった。


「分かってなきゃ、そんな言葉くれないよ。ほしい時に、いっくんは私にちゃんと言葉をくれるし、待っててくれる……ちゃんと、


 ……正直、ここまでされたら流石に察してはしまう。

 違うんじゃないか? なんて、経験がないから疑いを向けていたが、今までのことを総評したら否定する材料の方が難しい。


 ―――意外だと思うかもしれないが、綾瀬は異性に対してのガードが堅い。

 異性の友達は多いものの、積極的なスキンシップは控えるようにしていたし、向こうから受けるスキンシップも極力避けていた。

 好きな人がいるからだと、確か綾瀬の友達が言っていたような気がする。


『私さ、恋愛初心者だけど……こう見ても、ちょー攻勢強いんだぜ♪』


 ふと、脳裏に初恋の人だとバレた時の彼女の言葉が脳裏に浮かぶ。

 だが―――


(……まぁ、それは今考えることじゃないな)


 俺は蛇口の水を止め、少し綾瀬を引き離す。

 そして、優しく彼女の小さな頭を撫でた。


「そりゃ、大事にもするよ。綾瀬は知ってると思うが、俺の交友関係って狭くてさ……俺の中では、綾瀬が一番付き合いも長くて仲がいいんだ」


 そう口にすると、綾瀬は一瞬だけ驚いたような顔をした。

 しかし、それもすぐに戻って、


「……知ってる。いっくん、陰キャだもんね」

「おっと、ここで張り倒してやろうか貴様」

「ふふっ、でも私には関係ないもん……いっくんは、いっくんだから」


 引き離したのにもかかわらず、綾瀬は胸に顔を埋めてくる。

 小さな腕が背中に回され、そっと一つ深呼吸を入れるような息が聞こえてきた。


「あのね、いっくん」


 綾瀬は、俺の胸に顔を埋めながら―――


「……さっき、お母さんからお父さんと離婚するって言われちゃった」


 ―――落ち込んでいた理由を、口にしたのであった。

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