第38話

 朝、目が覚めると良い匂いがして自然と意識が覚醒する。


 出汁の効いた味噌汁の香りだ。


 いつも朝は食べない派の俺でも、寝起きでぐぅぅと腹の虫が鳴りやがる。


「母さん、今日は遅出の日なんか」


 父さんと母さんの朝はめちゃくちゃに早い。だが、たまに朝ゆっくり出る時もある。そんな時は朝ごはんを作ってくれる。今日がその日らしい。


 布団から出て、匂いにつられるようにカウンターキッチンへ向かう。


「おはよ、龍馬」


 そこにはネコのエプロンをした葵が丁度味噌汁の味見をしているところであった。


「ん。おいし」


 自己満足な評価をつけて、満足げに呟く彼女へ大きな欠伸をしながら朝の挨拶を返す。


「ふぁぁぁぁ……おふぁよぉぉぉ……」


「さっさと顔を洗ってきなさい。もう朝ごはんできるから」


「ふぁーい……」


 まるで母親のような朝のセリフを受けて、俺は洗面台に向かい、歯を磨き、洗顔していく。


 さっさと洗面台での仕事を終えると、リビングのダイニングテーブルに座り、スマホを開いて今やっているゲームアプリの1日無料ガチャを引く。


「朝っぱらからゲームしないで、さっさとご飯たべなさい」


「これだけ回さしてくれ」


「もう。しょーがないわね。1回だけよ」


 呆れながらも、葵から許しをもらって1日無料ガチャを回した。そんなところでダイニングテーブルには朝ごはんの王様、シャケが王者の風格を出しながらのご登場。他にも出汁巻玉子やほうれん草のお浸し等、朝からバランスの取れた食事が並ぶ。そして、俺を覚醒させたご飯の右腕である味噌汁と、主食である白米が最後にやって来る。


「うまそ」


 つい漏れた一言に、葵はエプロンを外して目の前の席に座る。


「いただきます」


「どうぞ、召し上がれ。私もいただきます」


 ふたりして葵の朝食に手を付ける。


 ほうれん草のお浸しは、近年、栄養バランスが不足している若者の栄養を補うかのように、俺の体に栄養素を運んでくれている気がする。出汁巻玉子は朝にぴったり優しい味が口いっぱいに広がる。そして、シャケ。調味料を加えない、シャケ本来の塩っ気が白米との相性ぴったりで、ご飯が進む。最後に出汁の効いたネギと豆腐のシンプル味噌汁を流し込む。


 うますぎて俺の体は朝からハッピーな覚醒を果たす。


「んで、なんで朝から葵が俺の家で朝飯作ってんだ?」


 覚醒を果たしたからこその疑問。


 いや、葵が俺の家にいるってのはなんの違和感もない。昔から互いの家には行き来しているからな。だけど、寝起きで幼馴染がいる状況というのは困惑ものだ。


「そりゃ、私達付き合っているんだから、彼氏の家で朝ごはんを作るのは当然でしょ」


「設定に従順だな」


「設定は大事よ」


 流石は葵様。アイリスの設定はグダグダだけど、設定にはかなりのこだわりがあるお方だ。


 お互いに相手の家の合鍵を持っているから、中に入るのは簡単だよな。昔、葵が家の鍵を忘れて大泣きしていた時に、俺が家に入れてあげて、葵に家の合鍵を渡してあげてって言ったのがきっかけだったな。俺の両親も帰りが遅いから同じ事象が起こるかもってことで葵の家の合鍵ももらったっけ。そういや葵のやつ、昔は泣き虫だったな。


「おじさんとおばさんにもちゃんと言ってあるから」


 とか少しばかり昔を思い出していると、葵からとんでもない言葉が飛び出しやがった。


「ぶふっ!」


 味噌汁を吹き出してしまう。


「ちょっと、汚いわよ」


 言いながらも、サッと布巾で俺の汚したところを拭きとってくれる葵は女神かなにかかな。じゃないわ。


「なんで父さんと母さんにそんなこと言ってんだよ!」


「だってしょうがないじゃない。『葵ちゃん、どうしたのこんな朝早くから』っておばさんに聞かれたから、『付き合っているみたいなので』って答えると、おじさんとおばさんが盛り上がっちゃったんだもん。ま、相手を騙すならまず味方からって言うでしょ。外堀から埋めないと」


「そんな必要ないだろ」


 葵は唇を尖らして、少し拗ねたような声を出した。


「だって、こうでもしないと勝てないかもだし……」


「なにに?」


 聞くと、葵は視線を逸らして、「なんでもないわよ」と否定してご飯を食べ進める。


 両親にまでその設定を言う必要はないと思うんだが。別に両親に葵との関係をどう思われようが今更か。


 ♢


「なぁ葵」


「な、なによ」


「距離、近くない?」


 葵と一緒に学校へ登校。


 彼女は俺の腕にしがみついて歩いている。


 テニス部に行かなくなってから葵との登下校頻度は多い方だが、流石にこの距離間はバグっていると思う。


「つ、付き合ってたら普通でしょ」


「付き合ってても、この距離間で登校とか漫画のラブコメの世界だろうが」


「あれを見なさい」


 そう言われて目の前を歩く、俺達と同じ制服の男女を指差す。


「かーくん♡♡ 今日もいっぱい、ぎゅーしようねー♡♡」


「うーちゃん♡♡ 今日もずっと一緒しようねー♡♡」


 目の前には、糖度が高すぎるカップルが胸焼けするようなあつあつのセリフを吐いてご登校なされていた。彼女の方が彼氏の腕に抱きついているのがわかる。


「これがリアルよ」


「まじかよ。フィクションでしか見たことないぞ、あんなん」


「これだからぼっちは困るわね」


 やれやれと安定のツンデレ呆れため息をもらい、葵が真実を語る。


「世の中は本当に広いわよ。都会に行ったら中年のカップルがあんなのをしているのを何度も目撃するわ。髪の毛ピンクのおっちゃんと、髪の毛パープルのおばちゃんがまじでやってるわ!」


「本当にそんなカップルが存在するのか?」


「テニスの大会に行った時、午前5時の駅で、紅蓮○を熱唱するマダムがいる街だから、そんなもん珍しくもないわよ」


「午前5時の単独ライヴ」


「ちなみに、そのマダムの歌唱力はクリスタルボイスだったわ」


「現実は小説よりも奇なりってか」


 ♢


 葵の力説により、カップル感を出して校内に入る。


「なんだ、あいつら」


「見せつけてんのかよ」


「ちっ。二股野郎が……」


 校舎に入ると完全なるアウェー。


 これ、中間テストが終わる前に俺が終わるんじゃないだろうか。


「シンプルに殺す」


 シンプルに殺害予告している奴がいるんだけど。いるんだけども。


「なぁ葵。これ、逆効果じゃない?」


「い、今はそう感じるだけ。もうちょっと、もうちょっとだけ。こうしよう。でへへ」


 目をやばくして葵が俺に抱きついて歩いている。


 葵も結構言われたりして、変なテンションになってきてしまっているな。俺のことは悪く言っても良いけど、葵のことは悪く言わないで欲しい。


「カップル感、カップル感が出てる……でゅへ、でゅへへへ……」


 葵がバグっている。あの優等生の葵がでゅへへへ? こりゃあかんやつだ。


 今日の突然の訪問朝ごはん。カップル感を出すための密着登校。


 その全ては自らを犠牲にし、俺を守るため……。


 葵。すまない。こんなことに巻き込んでしまって……。


 彼女への罪悪感を抱えたまま教室までやって来ると、二年六組のクラスメイト達は別段こちらを意識していないみたいで、俺達を気にする様子はなく、いつも通りに過ごしてくれている。このクラスの人達は優しいな。放置が一番優しいよね。


 安全地帯と呼べるこの場所で、俺は葵へ謝る。


「ごめんな葵」


「え? なにが?」


「いや、葵も周りから変な目で見られてラリってるみたいだからさ」


「ラリっ!? ラリってないわよ!!」


「ありがとう。葵。俺を守ってくれて」


「待ちなさい。私は……」


「優しいよな、葵は。いつも、本当に感謝してる」


「ちょ、だから……!」


 葵の優しさに包まれているところで、「おはよ。長谷川さん。福井くん」と当事者の一人である天枷が俺達のところにやってくる。


「えっと、二人共距離が近くない?」


 天枷が首を捻ったところで俺は首を横に振る。


「葵は自らの精神を犠牲にして、心を壊して俺を守ってくれたんだ。本当に聖母ってやつだよ」


「長谷川さん……」


「ちょっと待てぃ! そんな設定を勝手に作るな」


「ラリって尚、俺を守ってくれる葵には脱帽だ」


「私もラリるほどに二人の力になるね」


 拳を作って、えいえいおーとする天枷。


「ちょっと感動風にするなっ! ラリってないから!」


 キーンコーンカーンコーンとチャイムが鳴る。


「あ、そうそう、今日から勉強会だよね。また放課後よろしくね」


 それだけ言い残して天枷が去って行った。


「待って天枷さん! 私、別にラリってないから! ラリってないからねええええええ!」

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