第四話

「なあ兄ちゃん、そろそろ起きてくんねえか」

「……あ?」

 肩を揺すられて、陣太は目を覚ました。

 御者のオヤジが迷惑そうな表情を隠そうともせず、陣太の顔を覗き込んでいた。

 馬車の窓から差し込む日は、いつの間にか濃い橙色に変わっている。かなり寝入ってしまっていたようだ。他の乗客は誰もいない。

「もう終点、谷馬たにばの町だぞ。こっからは折り返しだが、出るのは明日だ。兄ちゃんどこまで乗ってくつもりだったんだい」

「終点か……」

「ああ」

「分かった。ここで降りる」

「そうかい」

 そう言ってため息をつくオヤジに運賃を支払い、陣太は馬車を降りた。厄介な客にまた乗り込まれたらたまらないとでも言いたげな様子で、馬車はさっさと離れていった。


「はあ、めんどくせえな」

 とりあえず遠くまでと思って出かけてきたのだから、一応目的通りではある。ただ、ここから先は無計画だ。

 頭をボリボリとかきながら辺りを見渡す。カラスが寂しく鳴きながら陣太の頭上を通り過ぎてゆく。谷馬はそこそこ大きな町だが、既に時刻は日没間際である。通りの人影はまばらだった。

「どうすっかな、これから」

 陣太には竜術士以外に仕事の経験は無い。暴れて倒したり壊したりすることは得意だが、それ以外に出来ることなど無い。

 遠くへと目をやると、鮮烈な夕焼けを背景に生い茂った森と連なる山々が深く黒く構えている。もうすぐあの向こうに日が沈み、夜が訪れるだろう。

 何となく、陣太は山の方へと足を向けた。そうして町の出口に差し掛かると、近くにいた女性に声をかけられた。

「あんた、こんな時間からどこへ行くんだい」

「知らねえ」

「もう遅いから、町を出ない方がいい。夜は物の怪が出るからね。特に山ほうは危ないよ」

「物の怪ねえ。そりゃちょうどいいや」

 都から遠く離れた谷馬は物の怪が多く出ることでも知られている。特に人里離れた山や森は奴らの根城だ。

 陣太は再び歩き出した。背後からもう一度だけ呼び止める声が聞こえたが無視した。

 これからどうするかは追々考えたらいい。物の怪だろうが構わない。今は胸中のムシャクシャを受け止めてくれる相手が必要だった。


 山の麓に辿り着いたときには、空は橙から濃い紫へとなだらかに移り変わり始めていた。陣太の立っている場所はすでに日陰になり、一足早く夜の訪れを感じた。風が枝葉を揺らし、森は不気味にざわめいている。

 陣太は躊躇することなく山道へ歩みだした。明かりがないのは不便だが、これでも鍛え抜かれた元竜術士だ。この程度の暗がり、勘で歩けなければやってこれなかった。


 ずんずんと山へ分け入ると、やがて茂みの中から獣のような臭いと気配を感じた。気配の主は陣太の様子を伺うように、姿を見せないまま周囲を動き回っている。物の怪に違いない。突然の侵入者が、獲物か敵か見極めているのだろう。

「さっさと来いよ。遊び相手になってやる」

 陣太はニヤリと笑い。大鉈に手をかけた。そして、物の怪も答えを出したようだ。

 茂みが割れ、敵が姿を現す。

 大鼬だ。陣太の何倍もある巨体に、熊すら一息で引き裂けそうな爪と短刀のように鋭い牙。

 大鼬は、その巨大に似合わぬしなやかさで木々を起用に避け、陣太に飛びかかってきた。

 陣太は大鉈を振り上げ、その爪を受ける。鋼鉄と打ち合ったかのような激しい音が森の静寂を破った。

「オラッ!」

 気合とともに振り抜く。

 爪を弾き返し、返す刀で顔面を狙う。しかし、敵は素早く身を翻して逃れた。陣太は大鉈を構えて次に備える。

 残念ながら、大鉈には竜気が残っていない。自分の力だけで今の一撃を受けられたのはそれだけでも超人的であるが、強い物の怪を打ち倒すには明らかに力不足だった。

 それでも陣太が無謀な戦いに挑むのは、自棄になっていた部分が大きいだろう。竜術士であろうとなかろうと、陣太は戦い以外に生きる術を知らなかった。

 大鼬は幾度も爪を振るい、陣太は鉈で受けた。一撃一撃が死と隣り合わせだ。

 敵が躍り出る。鋭い牙が陣太の喉元目掛けて迫った。

 大鉈で受ける。敵の牙は分厚い刃をガッチリと挟み込んで放さない。戦いは鍔迫り合いめいた膠着状態に陥った。

「くそが……!」

 竜気さえあれば数秒で容易に叩き斬れた相手だろう。それに圧倒されている現実を前に、己が竜術士でなくなった実感が強まる。もう、昨日までの陣太ではないのだ。


 大鼬が強く顎を引いた。あっさりと陣太の手から武器が奪い取られる。

 大鼬は大鉈を暗がりの茂みに放り捨てると、丸腰の陣太へ向き直った。もう勝ち目はないだろう。敵の目は陣太を獲物としか見ていない。竜術を使えない陣太の、それが現実だった。


「お願いします。竜神さま」


 小さな声がした。


 敵の背後、暗い茂みの向こうで強大な気配が膨れ上がった。突如として現れたそれは黒い爪の影となって大鼬に襲いかかる。

 陣太に気を取られていた大鼬は対応が遅れた。影の爪はがら空きの横っ腹を引き裂く。

 物の怪の血が飛び散り、鋭い悲鳴が夜の森に響き渡る。だが、命を奪うには至らなかったようだ。

 唖然とする陣太を置き去りにして、大鼬は闇の中へと遁走していった。何が起きたのかわからないが、ひとまず助かったらしい。しかし、油断はしなかった。

「誰だ」

 陣太は闇に問いかけた。

 物の怪を一撃で追い払った何者かは、まだ闇の向こうに佇んでいる。

 声のした方から目を離さぬように、陣太はじりじりと歩いて大鉈を拾い上げた。その切っ先を声の主へ向けて答えを待つ。

「この山に住んでいる者です」

 そう言って、声の主は茂みの奥から近づいてきた。木々の隙間からわずかに差し込む月明かりの中に、その姿を認める。

 少女だった。ゆったりとした黒い法衣のような衣装に身を包んでいる。年の頃は十代半ばといったところか。幼くはないが大人びてもいない。闇の中でも映えるほどの白い髪。一部を三つ編みにして左肩から垂らしており、その先を赤い紐で結わえていた。

 少し目を離せば闇夜に溶けていなくなってしまいそうな、幽き雰囲気の人間だった。

「名前は?」

忌夜きやです。忌まわしい夜と書いて、忌夜」

「ひでえ名前だな」

「そうですね。わたしもそう思います」

 そう言って自嘲する忌夜に敵意は感じず、陣太はようやく大鉈を下ろした。

「お前は竜術士か? 今の技には竜気を感じた」

「いいえ、わたしは竜神さまから受け取った力をそのままぶつけただけです。とても技と呼べるような代物ではありません。でも、あなたは竜術士ですね。その鉈からは竜気が良く馴染んだ気配がします」

 陣太は大鉈を掲げてみせ、言った。

「俺はもう竜術士じゃねえ。こいつも今はすっからかんだ」

「というと?」

「今朝、破門になった」

「あら……」

 忌夜は口に手を当てて小さく驚いてみせた。

「何があったか知りませんが、気の毒に。でも、自棄っぱちになるのは良くありませんね。ここは夜に出歩くのは危険な場所ですよ」

「その物の怪が出る山に一人で住んでる女に言われたくねえな」

「それもそうですね」

 忌夜は頷きながら答えた。

「では、うちへ来ませんか? なぜこんな所に住んでいるか、話しましょう。それに、あなたの傷も手当したほうが良さそうですし」

「あ?」

 言われて陣太は気づいた。腕に切り傷がいくつもできている。大鼬とやりあっているうちについたのだろう、戦いに熱中していて気が付かなかったのだ。

「こちらです」

 そう言うと、忌夜は茂みの中へと歩き始めた。少し迷った末、陣太はその後を追うことにした。


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