第9話 石塚の姉2

 立ち止まってふと見上げると、凝った作りの喫茶店だった。さぞ値の高い珈琲を覚悟して沙苗さんに続いて入った。テーブルも椅子もマホガニーの調度品だ。こういう店に何の躊躇ためらいもなく入る沙苗さんには、矢張りそれなりの気品が備わっている。

 店のテーブル席に着いて、真面に面と向かって彼女の顔をじっくりと間近に眺められた。ここまでの道すがらは横顔ばかりだった。面長で鼻は高くないが筋は通っている。目は細面てだが、微笑むとほんのりとした三日月になるのが可愛い。髪もストレートでしなやかに風になびき、ほどよい肩までの長さだ。店の人も若い女性で、何かスイス辺りの民族衣装をカジュアルにもじったものを着ていた。沙苗さんはメニューも見ないで「いつもの渋めで酸味の強い珈琲お願いします」それで通じるところが凄いと感心していると、

「越村さんは何にします」

 と言われて内心は穏やかでないが、此処は男の沽券に関わると、無理に澄まして「じゃあ同じものを」と頼んだ。

「かしこ参りました」

 とウェイトレスまで慇懃に答えて奥へ引き上げた。まあ三千メートルの北穂高と同じ値段の珈琲だと思えば踏ん切りが付く。ここまでの経過から石塚の自宅で垣間見た印象がかなり変わった。面識が薄いにも拘わらず、積極的に行動するのは、石塚は姉に対して越村の印象を良いように刷り込んでいるのか。それとも沙苗さん自身の性格なのか。今、言えるのは引っ込み思案でなく、前向きに物事を考えて対処する人だ。

「越村さん、あなたは穂高にバイトに行く時に弟に何か言いましたか?」

 エッ! どうなってるの。聞きたいのはこっちなのに。

「そうですね。北アルプスの、特に槍ヶ岳の良さを吹聴してやったんですが、それが何か気に障ってましたか?」

 う〜んとため息を吐いてる時に珈琲が来た。実にひと息入れるには計ったようなタイミングだ。彼女は砂糖なしで飲みかけた。越村は学食の珈琲の苦さが染みて砂糖を入れかけると「此処のは何も足さないでそのまま味わった方がいいわよ」と愛想良く言われて一口飲んでみた。此の見事な酸味と苦味が、絡めた舌に因って絶妙にブレンドされて喉を通ると、その爽快感が脳を刺激させた。

「こんな珈琲初めてだ」

 越村の独り言を沙苗は「そうでしょう」と誇らしげに囁かれた。そこで更にどんな風に弟に言ったか追及された。

「そう言われても彼奴あいつ、いえ、石塚は何を言っても動じない男ですから、思いの丈を打っ付けてしまいました」

「例えば」

「食わず嫌いが人生に於ける一番の不徳だ。先ずは話には乗ってみよ。好奇心が湧いたらなりふり構うな。思いたったら吉日とか、もう頭に浮かんだものを片っ端から石塚の頭の中に降り注いでやりました」

「何か卒業生を前に校長が錦の御旗の如く掲げる文言で、ありふれた言葉ばかりね」

 別に教育課程は専攻していないが、言われればその通りだ。とにかく彼に対しては前向きに行動を起こすように促した。

「前向きな行動はいいんですが、あの子はなにを考えているか解らないところが偶にあるのよ」

「ぼくの場合は偶に処か、しょっちゅうですよ。家では普段、彼奴は、いえ、石塚は何を考えてるんですか」

 二度目の彼奴と言う所で沙苗さんが微笑んだのには冷や汗を掻いた。しかし印象を悪くしてなかったようでホッとした。

「そうね、確かに弟に関してはあなたよりあたしの方が、なんて言っても子供の頃から傍に居ましたから、その点、越村さんは二年かしら。それ具合の付き合いですものね。でもね、高校まで一緒だったお友達が言うには、サッパリ解らん男だったと言うから。あのお友達は見る目がない人だと思った。その人より、これは弟からもう耳にタコが出来るほど聞かされた話では、その友人より、あなたの方が良く知っていそうなんですけど……」

 彼奴には十年付き合っても判らない者も居たのか。そいつに比べれば二年そこそこと言われても越村にはその違いがまだピンとこない。それはそうと、顔見知り程度の俺の事を、沙苗さんにはいったい何を吹聴したんだ。  

「例えばどんなことを聞かされてるんです」

 これは逆になって仕舞ったわねと笑われた。でもそれで何かあなたがまた思い出して下さるのならと、

「そうね、入院していたおばあちゃんですが、そのおばあちゃんが亡くなる前、仕切りに祐司に会いたがっていたの。余りにもつれなくするから、あたしが引っ張り出したのよ。おばあちゃんはそれから暫くして息を引き取ったの。あたしのお陰であれほどあんたを可愛がってくれたおばあちゃんの死に目に会えて感謝しなさいって言えば、なんと言ったと思います」

「そうは言っても彼奴の事だ『だから行かなかった』って言ったんでしょう。行けばおばあちゃんが今までの張り詰めていたものが一遍に吹き飛んで、入院ベッドが極楽浄土になってしまう。彼奴の事だからそう言ったんでしょう」

 これには沙苗さんは飛び上がらんばかりに目を見開いて、不思議な顔でじっと見詰められた。

「なんで! 何でなのッ、どうして解ったの?」

「石塚はそんな別な面で、思いやれる男なんですよ」

 一瞬、身を引いた沙苗さんが、急に身を乗り出してきた。

「何で、何でなの、あたし以上に弟の気持ちが分かるなんて。あなたってシリアスな人以上に変わった人ね」

 越村の表情の変化を素早く読みとって、彼女は慌てて「いい意味で言ってるの。けして誤解しないで」と哀願するように言われれば悪い気はしない。それどころか一層心が揺れた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る