第8話 石塚の姉
越村はアパートに帰り着くと、二年に亘る夏山のバイトの意義について懐疑的になった。穂高連峰の美しさに惹かれるほど、どうしても伝えられないもどかしさが募る。受け付けない理由が食わず嫌いに似た単純なものだけに見込みも十分にあるのに、改心させる才覚がないのがもどかしい。今回もなんの収穫もなく帰ると、虚しく天井を眺めて一夜を明かした。
翌日は既に授業が再開されているにも関わらず、大学へ行く足取りが重たかった。石塚の奴め、俺がこれほど心配しているのも知らぬげに、今頃はのうのうと講義を受けて単位を取るのに邁進していると思うと、いささか腹が立つ。嫉妬に切り替わると足取りが速くなり逆にいきり出した。
早速、講義室に行くと珍しく石塚の顔が見えない。講義終了後に部屋の者に訊くと、石塚は夏休みが明けても大学に顔を見せてないと解った。
詳しい実態を知るには彼奴の家に行って訊くしかない。石塚の店には一度だけ見学者で案内してもらって、店の者との馴染みは薄い。こうなると今までの敷居が高いと避けていたのが悔やまれる。あとは石塚が、越村の存在をどれだけ家族に浸透させているかだ。それに依っては、訪ねても門前払いを喰いかねない。
自宅は天王町の本社ビルから歩いて、十分も掛からない
父親と長男は会社で平日、家に居るのは母親と姉の沙苗さんだ。母親とは少し見かけただけで向こうは印象が薄いだろう。残る沙苗さんはここから洛北にある、ミッション系大学に通っていると聞いた。石塚が居れば問題ないが、夏休みが終わっても大学に来ないのが気になる。
自宅には数回行ったが、家族が越村を憶えているとすれば、お姉さんの沙苗さんだ。訪ねて家に居ればいいが、他の人なら押し売りか何かに間違えられそうだ。色々思案に暮れるうちに着いてしまった。キッチンシステムの販売を手掛けている自宅に見えないほど、ごく普通の家だ。それでも古風な作りなのは、此の当たりには昔は平安貴族や明治維新の功労者だった家が立ち並んでいた。石塚の家は小さいがそんな雰囲気があった。一応門柱はあるがそこから玄関まで数歩の距離だ。越村は恐る恐るインターホンを押した。どなたでしょうかと女の声がした。当たり前だ。この時間ではそろそろ夕飯の順次に取りかかる母親か、大学から帰った娘のどちらかだが、くぐもったインターホンの声では、性別以外の区別は難しい。
「越村といいます」
「あらッ、祐司のお友達の越村さん?」
他に越村がいるのか?
「そうですが、あの〜、石塚祐司は大学に来てないんですが体でも悪いんですか」
と言い及んでいるうちに玄関が開いて、膝丈ほどのプリーツスカートに清楚なブラウス姿の女性が出て来た。お姉さんの沙苗さんだと直ぐに判った。向こうも慌てて玄関に来てくれたお陰で、憶えていてくれたとひと安心した。
此の家には数回で、来ても石塚が彼を家に上げずに直ぐ外へ連れ出した。依って彼女とは、挨拶程度の会話だ。育ちの
「どうしたんですか?」
と彼女が玄関に来ると直ぐ越村は声を掛けた。これにはハッとしたように見詰められた。
そもそも顔見知り程度で、親しく話したことのない相手から、そう言われて彼女も返答に困ったのだろう。
「石塚はどうしてます? 家に居ないんですか?」
「そうなの」
「誰か来ているの? お客さんなら店に行ってもらい」と奥から母親の声がした。
「祐司のお友達の越村さんが見えてるの」
なら上がってもらいと言われたが、沙苗さんは
通りまで歩くと彼女の横顔にやっと微笑みが見られた。
「大学には出て来てないようで、あっ、ぼくはずっと北アルプスの山小屋でバイトしてまして、それで今日初めて大学に来て知ったのですが……」
「それは知ってます。弟からあなたのお話は良く聞いてますから」
「ハア? それで
「越村さんってシャイな人なんですね」
「エッ! それはないでしょう。石塚がそう言ってたんですか」
この言葉に越村は俄然と
「だいたいあの男は身勝手すぎるんですよ。こっちの話にはいいとこ取りして耳の痛い話は聞かない、それで今まで友情なんて金輪際成り立ってない。それでも顔を合わすとお互いに励まし寄り添う。何か
これには沙苗さんは腹を抱えて笑われた。
「何か可笑しいですか?」
「御免なさい。だって弟もそっくりそのまま同じ事を言ってるんですよ。あなたの事を。矢っ張り切っても切れない縁なのね」
とまで言われた。我に返って思うと、その通りだと今更ながら呆れてしまった。その内に賑やかな白川通に出た。
「それで喫茶店は何処ですか」
「ああ、そうね、弟の話を聞きに来たのね」
「家では話せないほど、何か込み入ってるんですか?」
「そうね、今の我が家では一番の関心事なのよ」
愛くるしい顔で、現状を
「と言いますと……」
どうやらお目当ての喫茶店に着いたのか、此処にしましょうと言われた。
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