第7話 さらば穂高

 夏休みが終わり秋になり、大学の授業が再開された。越村と小淵沢伸也は山小屋でのバイトが終わり下山するが、来年もまた来られるか判らない。此の夏はとうとう小淵沢伸也とは一緒に休暇が取れなかった。そこで北穂高岳小屋へ縦走して、矢張り呑むのなら此処のテラスだと。そこで生ビールで乾杯して別れることにした。早朝に山荘のあるじに挨拶して大キレットから北穂高岳へ向かった。毎度ながらこの大キレットには泣かされる。前回は女性の澤村さんをエスコートするつもりで挑んだ。今日は二十歳に成るか成らんかの二年目の登山者だが、難なくあの鎖場を通過していく。あれには感心させられた。

 十時には北穂高岳小屋に着いた。秋になるとまだ上高地は賑わっても、樹林帯を抜けてここまで登って来る登山客は急激に減る。荷物を降ろしてスッカリ登山客が減ったテラスを二人は見回して売店に行った。生ビールの売り場にはまだ彼が居た。此の山小屋は冬は閉鎖されて四月の連休前に開ける。彼も新雪が積もり出す十一月最初の日曜まで頑張るそうだ。

「あんたらで今年のビールは終わりだよ」

 都会はまだムンムンしているが、流石に九月に入ると需要どころか登山客そのものが減ってくる。

「もう空ですか」

「いや、店じまいしたあとの乾杯に残してある」

 下山するのに出来るだけ荷物を減らしたい。そう言って缶詰以外の保存の利かないつまみを大サービスしてくれた。

 二人は展望の利くデーブル席で呑みだした。小淵沢伸也は高校生の時に来て、此の景色に惚れ込んで今年も来た。それだけに女性に初心うぶでも、そこそこの登山に関してはいい腕をしている。

「何処で憶えたんだ、高校じゃあ山岳クラブなんてないだろう」

 遠い親戚に山小屋をやってる人が居て、その人が三年前にひと夏でいいから、手伝っくれないかと茅ヶ崎の自宅を訪れた。勿論、高校生の伸也でなく、学生の兄を通じて同じ大学生に声掛けを頼みに来た。

「それで君が応募したのか」

「去年は応募するともう間に合ってると言われて、それでも頼み込むと穂槍山荘ほやりさんそうを紹介された」

 どうやら両親は受験を前にやらせたくなかった。そこで親戚の人に相談すると、槍ヶ岳なら尻込みすると決めつけられた。

「それで半分は意地で登ったら病み付きになったんですよ」

「お兄さんの代わりに行った訳じゃないだろう」

 エヘヘと意味不明な笑いをされた。笑ってちゃあ解らんとばかりに追求すると、失恋したのだ。高二で恋をするか! と驚いた。エエイ人生ママよ、とばかりに槍ヶ岳三千百八十メートルに挑んだ。一番高い山なら富士だが、なんか失恋した彼女の懐に飛び込むようでいやだった。そこへ例の親戚の人が槍ヶ岳の厳しさを叩き込まれて、此の山なら本望だと決めた。それで山荘に着くと本当にやって来たと向こうは吃驚していた。

「そうだったのか。去年も今年もそんな話はしなかったなあ」

 またエヘヘと気味の悪い笑いをされた。問い詰めると失恋した彼女の面影がまだ尾を引いていた。余程惚れ込んだ人らしい。相手は高校の同級生だったが、親が仕事で関西に引っ越してそれで別れた。それじゃあ文通、いや古くさいか、ネットを使って遣り取りすればいい。そこまで追求すると気まずくなった。父親の単身赴任が一人娘の意向で家族揃って会社が用意したマンションに去年の春に引っ越した。

「それでその夏に槍ヶ岳三千百八十メートルに挑む気になったのか」

 彼はつまらない動機だと、またえへへと笑った。

「いや、動機はどうでもいいんだ。そのー、此の山の魅力をどうして知った」

「だからその親戚の人から、本当は兄貴に話していたんだが、真剣に訊いたのは俺の方だったんです」

 親戚のおじさんは、人の一生なんで知れてるが信州の山々は、何百万年の造山運動で我々人類に見せつけるために作り出した造形美だ。これを見ずして死ねるか、ただその一語に尽きる。信州の山はまさに一期一会のように滅多にお目に掛かれない景色を見せてくれる。何か訳の判らない話を熱っぽく聞いているうちに、彼女の面影と重なってしまった。それでおじさんの話を聞くうちに、君は一期一会の人なんだと彼女に言った。バッカ、そんな太古のままの山と一緒にしないでと言われた。

「それで嫌われたのか」

「そうでもないけど、何となく変な人だと察して、それで去年の春に彼女は消えてしまったんです」

「難しい動機だなあ」

「何がです?」

「失恋が動機では参考にならないなあ。じつは俺が毎年夏休みに山小屋にバイトに来るようになったのは、同じ大学に居る友人の思考を広げるために、どうしても此処から見える此の世界を見せてやりたかった」

 ついに二杯目の生ビールを呑みながら、眼前の言い尽くせぬ風景に舌鼓を打った。ひと口では言い表せないこの景色をどう説明すればいいか、我ながら表現力の乏しさに頭を痛めた。

「簡単です。一緒に登ればいいんです」

「そう簡単に言うな。それが通じる相手ならとうに一緒に来ている」

 今まで山で会った人に声を掛けても、ここに来て見てもらうのが一番だと言われた。今年も答えを出してくれる人に巡り会わなかった、と越村は意気消沈した。

「今年もこの最高のビヤガーデンで乾杯して下山するか」

 此の雄大な景色は、彼の失恋までも吹っ飛ばしてくれるのかとジョッキを合わせた。

 此処から二人は下山する方角が違った。越村は岐阜県側の沢沿いに、行きしなと同じ新穂高の登山口に下りる。小淵沢伸也は、長野県側の沢沿いに上高地へ下りる。そこからはどちらも歩く必要はなく、バスと電車を乗り継いで、茅ヶ崎と京都へ帰った。



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