第6話 穂高連峰4

 石塚が話題に上がったのは、彼の並外れた世間との融和のなさだ。

「それでこの先どうするのかしら」

「どうするって」

 奈弥なみちゃんの質問を受けた澤村さんは、視線を自然と越村に向けた。

彼奴あいつにその心配がないから苦労してるんですよ」

 一年ぶりに会って、どうして石塚のような他人事に関心を惹くのか判らない。よく訊けば此の二人はメールの遣り取りをしょっちゅうして気心が解り、今更お互いのことを訊くより、此の景色の中で再会するのが最大の目的だ。非日常の景色に付随した石塚のような面白い情報源に飛びついたのだ。

 システムキッチンを販売する株式会社ミカド商店は、白川丸太町の東天王町にある。社長は石塚長矩いしづかながのりで社員は五人、あとはパートだ。女性の事務員を除く後の四人は営業でほとんど店に居ない。社長に言わすと営業マンが店にとぐろを巻いていれば処置なしだ。営業の四人のうち一人は石塚純一いしづかじゅんいちで長男だ。石塚家は次男が祐司ゆうじで長女が沙苗さなえ。 

 自宅は天王町の本社ビルから歩いて十分も掛からない所にある。社長宅としては広くないこぢんまりした家だ。三千メートルの景観を映像で理解しても、到達する過程に難色を示す石塚洋樹の境遇は、ほとんど彼の周囲から仕入れたものだ。

「じゃあ長男が跡取り息子なら、彼は万が一のスペアーか」

 いとも簡単に澤村は言って退けた。

「いいご身分じゃあないの」

 奈弥が鼻であしらうように捻くれて言った。

「そのー、彼の家には行ったことがあるの?」

「一回だけ行った」

 エッ! これには二人とも呆れて、今更ながら付かず離れずの関係になんとか理解を示そうとした。

「同じ大学でしょう。お友達の家って遠いの?」

「バスで三つか四つだから、歩いても二十分ぐらいですよ」

「無理な距離じゃないわね。そのシステムキッチンの会社、敷居が高いの?」

「澤村さん、あなた同じ山荘に居る小淵沢伸也くんを知ってるでしょう」

「ええ」

「彼もそんな友達が居ますよ。訊きましたか?」

 入り口が賑やかすぎて足が遠のくのだ。

「そういえば男の人って、買い物やお喋りだけを楽しむ習慣がないのかしら?」

 響子は奈弥に同意を求めてると、彼女も男の人は何考えているか判らない得体の知れない動物とまで言い切った。奈弥は如何いかにも明快に響子の質問に答えている。

「男は得体の知れない動物ですか」

「そこが可愛い」

 二人とも底が分かり切った男には興味がないようだ。騒ぎ立てる男の底は知れてるが、問題は寡黙な男の底をどうして突き止めるかだ。

「でもパンダの可愛さとは違うわよ」

 あれば底抜けの可愛さだと言われた。

「そう謂えばパンダは、四川省の山奥で、人が立ち入れない秘境に棲んでるのよね」

 眼下には所々に、はぐれ雲が低く棚引く北アルプスの山並みを奈弥は眺めていた。 

「いつも見上げる雲が此処からは見下ろせる。これって凄い気分転換になるのよ。此の気分を味わうために、山麓から延々と続く過酷な体力と精神の限界を何度も克服してくるだけの価値を、寡黙な人ほど味わって欲しい景色だと思いませんか?」

「それは同感だが、小淵沢も口で何遍説明しても、百聞は一見にしかずと、昔の人は良く言い伝えたものだと感心してましたよ」

「いつまでも此の風景を眺めていたいけど、あたしの休憩時間も終わりそうなの」

 と奈弥はこの場からおいとました。奈弥さんの後ろ姿を響子さんが未練がましく見ていた。

「一年ぶりに会った友達なのに、ぼくの余計な話題に引き込んでしまって、せっかくの大切な時間を潰してしまって申し訳ない」

 と越村は謝罪した。

「出会ってから奈弥ちゃんとは此の一年、数え切れないほどのメールを交わしているのに、今日みたいな話は初めて」

 いつも、どうでもいい事をメールしていたのかしら、と彼女は気落ちした。如何どうしたものかとこっちも滅入ると、いきなり生ビールが呑みたいと言い出して驚いた。一転してそんな表情をされると、訳もなく同意して越村は売店に行った。 

「ようッ、今年も来てくれたか」

 と去年も居た若い男が、ジョッキに生ビールを注いでくれた。

「上手くなりましたね」

 やはり三千メートルの山小屋だ。気圧が低くて地上とは少し加減しないとビールが一気に溢れてしまう。

「此処では当たり前のように空気を吸っていても、下とは違うんですよね」

 その内に三千メートルの空気入り穂高の缶が発売されれば最悪だと二人は笑った。

 響子さんが待つ張り出したカウンター席に座ると「今年も頑張ろうー、それと此の景色に乾杯ー」と二つジョッキを合わせた。ついでにエイのひれをつまみに買ってきた。

 三千メートルの連なる山と、棚引く雲を眼下にして呑む生ビールは、此処でしか味わえない。高山になれた胃に下界の炭酸が、一気に胃袋に広がり、いつもと満足度が違った。

 二人はその日のうちに穂槍山荘ほやりさんそうに戻り、響子さんとはまたよろしくと別れた。受け付けには小淵沢伸也が迎えてくれた。

「どうでした今年の北穂高岳は」

「太古のままだ」

 下界があれほど目まぐるしく変わっても、此処は変わりようがない。

「小淵沢くんもこの絶景をどう説明していいか迷ってる友達が居たが、どうした」

 この世に不変の世界の存在を石塚に教えるには如何どうしたものかと小淵沢に言ってみた。

彼奴あいつは死ぬまで無理だ」

 石塚と同じやまいか。

「そいつは酒は呑むのか?」

「ビールが好きでね」

「それは良い。三千メートルで呑む生ビールを宣伝しろ。あれは良いぞ」

「北穂で呑んだんですか」

「今年最初の北穂高の生ビールだ。今年も彼奴が居て上手く入れてくれた」

 いいですね。今度休暇が合えば、北穂高岳小屋のあの展望テラスで呑みましょう、と誘ってくれた。

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