第5話 穂高連峰3
北穂高岳小屋は、北アルプスでは一番標高が高い場所にある。
三千メートル級の頂上からの眺めは何処も良いが、椅子に座りテーブルに飲み物や本を置いて眺められるのは此処だけだ。澤村さんも、
「あたしもそうだけど、響子ちゃんも小屋へは登山口からは樹林帯を抜けて沢筋から登って来たんしょう」
「そうだよ。小屋に来てから縦走するのは今日が初めて」
「響子ちゃんは本当にあの大キレットを登って来たの。呆れてもう滑落したらどうすんの」
と北穂高小屋の奈弥ちゃんに言われてしまった。
「だって会いたかったから、それに越村さんも一緒だから難なく越えられた」
「まあ今日は同伴が居たからいいけど、一人じゃダメよ」
同伴か、なんかスナックか、その方面を連想さす。他に言い方はないのか。サポート者とか支援者、別な言い方もあるだろう。
「とにかく越村さんは凄いのよ。去年はほとんど一人で縦走しても、どんなふうに登っているか知らなかった。でも今日初めて一緒に行ってみて、岩場を難なく越えてゆくのに感心した。だっていつも山荘では、ヘリが降ろした荷物の搬入では、一番に難儀していたもん」
これは貶してはいないけれどひと言多い。
「あら、そうなの」
「奈弥ちゃんは意外と思うの?」
「だって一、二回ぐらいかしら? 越村さんが去年ここに寄ったのは」
「いや、単独縦走する時は此処には何回か寄ってますよ。此処からの景色は何度見えも飽きないからね」
三千メートルの頂上に登りきって見る景色は、見晴らしは良いが、場所が狭くてあとから次々と人が登頂して来てのんびり出来ない。それに引き替えて此処は、珈琲を飲みながら此の風景を堪能できる。
「男の人はいいなあー。一人でも行かしてくれるから。女の子はそうは行かない。縦走計画を見て、山荘に居るベテランがガイド代わりに同行して貰わないと許可してくれないもん。それほど大キレットは難所なのよ。此処で音を上げればジャンダルムはもっと難易度があるわよ」
「そりゃあそうだ。女の子のバイトは少ないって、小屋のオーナーが言ってました。滑落事故でも起こされたら益々来てもらえないでしょう」
奈弥ちゃんの登山歴はほとんど知らない。去年の二ヶ月のバイトで顔だけは見知っただけだ。今回は間近に隣の席で初めて喋れた。
「まあね、周囲の人から大丈夫って言われていたけど、実際に小屋に通年居るベテランと行って、こりゃあ大変だと思ったのに、越村さんはほとんど縦走されたんですか?」
「そうですね〜。澤村さんからあの大キレットを難なく越えられたってさっき言ってましたけど。矢っ張り何回挑んでも怖いですよ。なんせ鋭く切れ立った狭い稜線上に、ゴツゴツした岩がニョキニョキと林立して、次の足場を何処にするか一瞬で判断して、次の岩にしがみ付いてゆくんですから凄いですよ。あれは何回挑んでも恐怖の連続で、決して慣れないどころか一瞬気を抜けば数百メートル滑落して、まあ一巻の終わりで、いつも初心であの大キレットは行ってます」
「そうよ、次に掴める岩の角がない所には鉄の取手がちゃんと打ち込んであるのよ。よくもまあこれを打ち込んだ人は大変。少しだけしか余裕のない所でも、足場がなけれは連なってる岩に鎖が取り付けて通過できたけど、あの鎖を取り付けた人はいったい何に掴まって作業をしたか考えると感謝しかなかった」
「あれ? 澤村さんは余裕ですね。そんなこと考えながらあの鎖場を通り過ぎるなんて、ぼくの場合は次の岩場をどう乗り切るかなんちゃって。それしか無かったです。なんせ岩だけで急斜面になってる絶壁の上を行くんですから。あそこに鎖や取手を取り付けるなんて、ぼくの場合はとてもそんな先人の苦労なんて考えも及ばなかった。矢っ張り女の人は着想が凄い。あの切り立った岩しかない僅かな稜線上を行く時に、恐怖よりそんな先人の苦労を思いやるなんて、別な意味で澤村さんは肝っ玉が据わってるんだ」
まあッ、大袈裟ね。と二人の女性から笑われた。
「あらッ、いつも黙って売店で飲み物しか頼まない人なのに結構、喋る人なのね、越村さんて」
「奈弥ちゃん、ずっと一緒に小屋で仕事しているけど。此の人、余り喋らないのよ。だから今日は珍しいのよ」
山の話になるとつい熱が入って口も軽くなってしまう。
「それに此の人、同じ大学に変な友達が居るの。高い所はゴンドラの頂点で満足している人に此の山の良さをどう言えば良いのか悩んでいるわよ」
別に悩んではいないが、狭い世界に閉じ籠もるなと言いたいだけだ。
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