第4話 穂高連峰2
「好奇心旺盛なら喰わず嫌いでもなんとかなるでしょう」
と軽く云われた。遊園地のゴンドラに乗れるのなら、彼女は高所恐怖症じゃあないと確信した。高所恐怖症じゃあないが余計なものに体力を使いたくないんだ。山岳風景はテレビを通じて素晴らしい映像として捉えても、そこに辿り着くまでの無意味な行動に彼は興味をなくしていた。それなら容易いだと彼女は太鼓判を押すが、そんな苦労をするのなら
「でも自分で自分の限界を勝手に決めてしまう人じゃないんでしょ」
「まあそうですが、彼の場合は努力に報いるだけの結果が得られるかに掛かってるんですよ」
なるほど、それで食わず嫌いかと笑われてしまった。
バンジージャンプはかなりの勇気が要るが、三千メートルと言っても地に足を着けていれば大丈夫だ。それでも山岳路と言っても、ちゃんとした道が付いてる訳ではない。平らな岩の瓦礫になってる箇所を見付けて歩く。尾根を上るときは瓦礫でない岩に手と足を掛け、傾斜の在る岩場を亀のように四つん這いになって這い上がる。目にするのは岩と空だけだの世界に、いきなり飛び込む人はいない。手頃な低い山を先ず登らせば良いと簡単に言うが、階段さえエスカレーターはどこだと、ブツブツ言いながら上がる男をどう説得したものか。
石塚の説明を聞けば聞くほど、彼女は面白がって話に突っ込んできた。去年の彼女とはこんな話はしなかった。彼女もそうだが、みんなほとんどは夏の二ヶ月だけバイトに来る。夏のシーズンはあの小屋だけでなく、近くでテントを張る登山客も大勢居る。縦走する登山者も昼食や休憩で大勢立ち寄る。なんせ小屋から槍ヶ岳は目の前三十分で登頂出来るから大きなリュックサックは山荘に預ける。毎日が目の回る忙しさで特に去年は新人の女の子とは、短い言葉の請け合いでじっくりとは話してない。男性とは寝る部屋が同じだから気が合う小淵沢伸也とは馴染めた。それでも二ヶ月も居ればだいたいどんな人か解るが、ここまで面白い話をする人とは思わなかった。そう謂えば去年の休みはほとんど一人で縦走した。一回だけ休みが小淵沢と合って二人で付近を縦走したのが一回あった。
「澤村さんがそこまで槍ヶ岳や穂高に愛着心があるとは思わなかった」
「だってあたしは三回目よ、でも女の子ではあたし一人、もう一人の
スタッフは十五人もいるが、街のホテルと違って一人で何役も
「あの
「忙しいのは夏だけか」
「だって
それだけに夏の短期バイトには、休みを使って近辺を縦走できるメリットがある。それを目当てに応募する人が多い。裏を返せば連休がなければ中々人が集まらない。しかもほとんどが暇になる週明けに交代で休ませる。
「それで美佳ちゃんと一緒に縦走できたのは二回くらい。男の人はほとんど単独で縦走する。でもその方が気楽で良いみたい」
せっかくの休みを使って好きな山へ行くから好みが合わないようだ。
「これから行く北穂高岳小屋はバイトの人は
「そうか通年居る年配の人を除けばバイトは新人ばかりか」
「そうでもないわよ。越村さんみたいに山好きな学生は多いから、結構知ってる人がまた来てるかもね」
登山を楽しむ人は仕事も忘れて、山の重圧感に心を静めて愛おしむ。毎日、朝から晩まで仕事に追われても、軽くあしらうように山を見ない、そこが違う。
「でも去年の夏の二ヶ月は、来て仕事が始まるとしまったと思った。これほど大変なら来るんじゃなかったと後悔の連続だ。でも秋風が吹く頃にバイトを終えて下山すると、ケロッとした顔で、また穂高を仰ぎ見る自分が居るんだよなあ」
「あたしもそう。麻薬の禁断症状じゃあないけれど。でも我慢できるたおやかな心の痛みね」
下界と違って、広い空間に居ながら、現実には近くの岩や鎖に掴まって自由に動けず、逃げ隠れも出来ない恐怖が、足元から湧き上がる。それに打ち勝ったご褒美にあの頂上から広がる風景を一生焼き付けられる。さあ、そのご馳走にありつけに行くぞと二人は南岳小屋で取った休息をバネにした。
二人はここから北穂高まで難所の大きく切れ込んだ谷になる、大キレットと途中に有る小高い長谷川ピークを過ぎてまた谷を下る。その行程のすべてが岩に取り付けた鎖にしがみついて一気に二百メートル以上の急斜面を降りてまた登り切る。此処では気を抜けず、まして周囲の風景どころか視線は一歩先の足場を固めて登る。大キレットは、そのほとんどが設置された梯子や鎖にへばり付きながら、ひたすら次の安全な岩の角に足と手を掛けながら進む。
道なき箇所は岩に書かれた白いペンキを目印に登ると、やがて岩が瓦礫の用に重なり合う少しなだらか先に北穂高岳の標識が見えて来た。到着した山頂の真下に小屋はある。
早速受付のフロントに行くと宿の主人が「今年も良く来てくれましたね」と迎えて、奈弥ちゃんを呼んでくれた。三人は表のテラスに出た。北穂高岳小屋のテラスはほぼ頂上から張り出すようにあり、その眺めは凄いのひと言に尽きた。
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