第3話 穂高連峰

 梅雨明けの安定した天候に恵まれて予定通り着いた。大雨が降ると水のない沢筋まで濁流に包まれると行けなくなる。電車やバスに乗っているあいだは、石塚との議論が頭に浮かぶが、新穂高の登山口からは黙々と歩き続ける。雄大な自然に触れれば恋も仕事も此の景色が心の片隅に追いやってくれる。北アルプスの稜線に立つと浮き世の全てが遠い彼方へ飛んでいく。それほど足元に注意を払わないと、常に滑落の危険と隣り合わせなのだ。

 山荘の主人に到着を告げると温かく迎えてくれた。なんせみんなが尻込みする、三千メートルの頂上近くにある山小屋だ。ここまで登って来る通勤が大変なんだ。給料に差はないが、みんな登りやすい中腹の山荘に行く。此処に来る連中はあの槍ヶ岳に魅せられた者たちだ。越村もその一人で夏休みに入る前に来た。

 此の山荘には彼を含めて十五人のスタッフが居る。仕事は部屋の掃除や、山荘の場所柄痛みが激しい箇所の修理。一番大変なのは宿泊客に提供している食糧だ。これはまとめてヘリで運んでくるが、山荘付近が霧に包まれヘリが中々来られない場合、歩荷ぼっかだ。これは各自が背負子しょいこに積んで人海戦術で三千メートルまで運ぶ。これが一番きつい仕事だ。でも此処に来るバイトの連中は根性が座って中途半端じゃない。それもそうだ。一切の娯楽も人間社会の喧騒にも囚われずに、天空にそびえる槍ヶ岳三千百八十メートル直下の無の世界で働く。自分自身をとことん磨き上げるには持ってこいの世界だ。心が閉ざされて自分を見失ったつらい時こそ、こう謂うスキルアップが必要なんだ。人生観が変わる。まあ石塚にすれば心の視野が広がるのは請け合いだが、彼奴あいつは死ぬまで興味のない物には体力を使わない温存策を取ってる。そんな石塚と別れてほぼ丸一日掛けて到着した山荘でやっと落ち着くと彼奴を散々貶せた。これが登山口から樹林帯を抜けて、いよいよ岩ばかりの山岳ルートに入れば、彼奴を貶す余裕なんてない。それどころか石塚のように上りきったコンドラの頂点で満足すればどんなに楽だろうと後悔の念に囚われた。これでは彼奴をバカに出来んが、喉もと過ぎればなんとで、着けば直ぐにまた石塚を批判した。だか翌日から仕事が始まれば石塚の事など構ってられない。全て自給自足の山荘では、何から何まで此処に居るスタッフで処理しなければならない。おかしくなっても電気屋や水道業者を呼んではいられない。なんとか自分達で不都合な箇所を見付けて直さないといけない。

 山が好きでバイトに来て、これらの条件を克服出来て良い経験だと一過性の人が半分ぐらい居た。彼らは趣味と仕事との違いを身に染みた人達だ。前回は女性のスタッフが四人居たが、今回は一人減って三人だ。その内の一人は新人さんで女性二人を含む顔馴染みは七人だ。その中の二人だから彼女らは余程肝が据わってる。男性は矢張り体力に自信の有る人達がまた来ていた。食材を運ぶヘリは山荘の前に降ろしてくれない。少し離れた開けた場所に降ろす。まあそこから数百の距離だが、切り立った岩場を何度も往復して運ぶだけに体力が要る。山麓から背負子しょいこに詰めるだけの荷物を詰めて運ぶ歩荷ぼっかに比べれば月とスッポンだ。再契約したバイト達からは「その体力で良く来たなあ」と去年の体験から越村は甘く見られていたようだ。確かに辛い要素はあるが、それを謂うなら登山そのものがそうだ。それでも山小屋バイトの良さもある。それは連休がもらえるのだ。これを利用して近隣の山を走破できる。これが越村がまた来る気になった原因でもある。先ず北穂高の山小屋が凄い。三千百六メートル。山頂直下、徒歩三十秒で北アルプスでは一番高い山小屋で此処から正面に槍ヶ岳が見える。越村の目的は出来れば毎年の夏休みは穂高連峰を走破することだ。次に同じ厳しい条件下で働く似たようなひと癖ある特異な人達と情報交換することだ。山小屋は各地に点在するがとても全部回れないし、人も入れ替わりが烈しく、毎年近くの山小屋で新しい人の話が聞けた。第一に近いと謂っても峻険な山岳地帯でそう簡単には行けない。

 さっそく最初の休暇は予定通り北穂高岳に向かった。去年知り会ったバイトの澤村響子さわむらきょうこさんは、北穂高岳に居るバイトの子に今年も挨拶に行くので付いてゆく。

 どうやらもう一人の女の子と一緒に行くつもりが休暇が取れなかった。前日にフロント横の食堂で、休暇の合わない二人を見付けて話を聞いた。

 この山荘で去年、気が合った東京の大学生、小淵沢伸也こぶちざわしんやは一足早く来ていた。彼が女の子が続けて来るなんて珍しく、その心境を知りたい所為せいもあって澤村さんと同行した。

 槍ヶ岳から南に天を突くように立ちはだかる屏風の尾根が続く稜線上の彼方に北穂高岳が見える。早朝に山荘を出た二人は途中の難所は大キレットだ。それまでも岩の瓦礫が交差するような歩幅ほどの道を走破する。大キレットに行くまでの南岳小屋で休憩した。此処は規模の小さいこぢんまりした小屋で顔を合わせて、小淵沢に頼まれた用件を訊いた。

「去年一緒だった人から訊いたんですが、女性は身の回りのことが大変だそうですね」

 彼女はちょっとはにかみながらも頷いた。

「それなのにまた来るなんて、余程、此処の風景に魅せられたんですか」

「そうなの」

 と彼女は俄然、顔を輝かせた。

「だってそうでしょう。こんな世界を知らずに人生を終える人の気持ちが判らないわ」

「でも食わず嫌いで、山がいやな人も居るんですよ」

 これには、まあッ、と驚いて。一生損するとまで言わしめたこの人を、石塚に会わせたら面白いとふと頭に浮かんだ。



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