第2話 噛み合わぬ男2

 越村洋樹は毎年夏休み前の七月中旬から九月の中旬まで、下界と隔離された北アルプス(飛騨山脈)の山小屋へバイトに行く。

 テストが終われば北アルプスの山荘に行くつもりで教室を出たが、仕事なんてどうせ遊び半分だろうと云う石塚の言葉が背中にこびり付くと、もう我慢がならない。一度も働いた事のない者に言われたくないと越村は引き返した。

「どうした。まだ時間があるなら珈琲でも飲むか」

 金を親以外から一度も手に入れたことのない石塚に、雇用関係の重要性が解ってない。単なる登山なら泊まるテントから食糧、炊飯道具一式の重装備を揃えるが、山荘に辿り着くだけの装備品は知れているし既に用意している。どうせバイトだ。この一言が頭に来た。前から徹底的に仕事人としての覚悟を教え込むチャンス到来と石塚の誘いに乗った。

 前期テストが終わると各自の孤独な闘いは終わり、たがが緩んだ桶のように勝手な議論が染み出してくる。学食に付随する喫茶室ではそんな連中がたむろしている。そこで石塚はテスト前の議論とは話題を変えて、丸一日掛けて明日の夕方にまでに、三千メートルの山小屋に行く経路を訊かれた。これにはいささか調子が崩れた。まあ此の際、ええ加減な気分で仕事をするなと戒めるには丁度良い。

 京都駅を夜の九時半の新快速で、米原から東海道線の快速で岐阜に、岐阜から高山本線で翌朝の七時半に高山に着く。高山からバスに乗り、一時間半で新穂高に九時過ぎに着き、そこからは徒歩で時間を掛けて穂槍山荘ほやりさんそうには夕方に着く。

「名古屋まで新幹線を使えば楽だろう」

 名古屋まで新幹線の料金で在来線だと飛騨高山まで行ける。高山線は岐阜から出ている。新幹線だと米原から在来線に乗り岐阜で乗り換える。名古屋なら岐阜まで引き返す。どちらも途中で一泊すれば一日遅れで、昼間に山荘に着けるが、仕事で行くのならそんなのんびり出来ない。走る電車で一泊すれば翌日には山荘に就ける。

「しかし夜中に何回も乗り換えるんだろう」

「そうだ。JRで先ずは米原、それから岐阜、美濃太田、高山と乗り換えて朝に着く。そこからバスでやっと登山口の新穂高に着けるんだ」

「それじゃあ、落ち着いて寝られねぇな。まして着いた朝から直ぐ歩き出して、夕方に北アルプスの、なんだ、その三千メートルの山小屋、穂槍山荘に行くのか。まるで三千メートルの山小屋へ挑む耐久レースだなあ」

「そうだ。厳密には山荘は三千八メートルだ」

「ほぼ不眠で列車を何回も乗り継いだ後に、直ぐそんな高いところへ上る心境が俺には理解できんよ」

 遊園地のゴンドラしか、高いところには上がったことのない男に、聞かれても答えようがない。

「着いたその日にぐっすり寝れば、それで翌朝から仕事に就ける」

 やらねば明日がないと謂う生活環境が、お前とは違う。しかし育ちが良いわりには休みたい、寝坊したいと石塚は云ったことが無い。えぇとこの子、特有の愚痴は彼の口から聞いたことがない。これが越村が彼に惹かれた一番の理由だ よく見ると面白いと感じればトコトン調べて突っ込む。これも彼の人間形成の根幹をなしている。だが面白みがなければ徹底的に排除する。そのひとつが登山なのだ。幾ら魅力を披露しても、現実に頂上からの展望の素晴らしさを説いても、そこへ行くまでの厳しいプロセスが培われてなければ意味がない。やはり遊園地のゴンドラから見た景色から離れない。ゴンドラであの雄大なアルプスのパノラマは見られない。それなら飛行機からでも見られると言うだろう。大地にしっかりと踏み締めて見るからこそ価値ある風景なんだ。ここまで説明するともう理屈ではない。身体からだが悲鳴を上げながらふもとから登りつめて、酷使したご褒美に神が見せてくれたもなんだ。  

「ヤレヤレ、行き着くところは神か」

 気怠そうに石塚に言われた。満足のいく答えでないが、あの登頂した充実感は神以外にたとえようがない。

「酷使された細胞に活力を与える視覚的療養方法だ、と言えば納得するのか」

 これじゃあ逆に、こっちがヤレヤレと言いたくなる。机上でしか物事を考えない、ロマンのない哀れな男に、恋が出来るのか。まあ人それぞれ恋の認識も違うが、異性から五感が受ける感動には違いない。ただ受ける感動が石塚は著しく低下しているだけだ。そんな楽な恋はこっちは望んでいない。

「オイ、俺はもう時間がない。遅刻する」

「エッ! 三千メートルの山小屋にタイムレコーダーがあるのか」

「バッカ、有るわけないだろう」

 此処で越村と石塚は、テスト前の議論より更に突っ込んだ話をした。周囲からも二人の持論には、密かに耳を傾けながら珈琲を飲む者も居た。

「頂上に立てば、限界に挑みながら酷使した肉体に凄い感動の衝撃がそよ風のように颯爽と心の中に吹くと、今までの苦労が吹き飛ぶ。此の一瞬の爽快感が忘れられずにまた登ってしまう」

「分かった、分かった。もう時間がないのだろう」

「何も解っちゃねぇなあ。じゃあ行くぜ」

 石塚と越村は言い争いと謂うより、白熱した討議だと告げたのは周囲の連中だ。本人同士の言い分にはかなりの違いがあっただけで、感情の起伏はなく、後腐れもなくその場は済ました。なんせ越村にはこれから二ヶ月に及ぶ山岳でのバイトが待ち受けている。生活の心配がない石塚とはテスト前より噛み合わない。二人とも頭をオーパーヒートさせて別れた。

 北アルプスを何日も掛けて縦走するのでなく、最初の山小屋に着けば良い。それだけの準備は直ぐ揃えられる。越村は石塚祐司と別れてアパートに戻り、着替えと山荘に着く当日の朝と昼食をコンビニで買い込んで出掛けた。



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