逸れ道

和之

第1話 噛み合わぬ男

大学での講義を終えるとノートと教科書をたたんで、みんなぞろぞろと部屋を出て行った。此の大学に入って知り合った石塚祐司いしづかゆうじはまだ浮かない顔をして座っていた。どうしたとそんな彼に、越村洋樹こしむらひろきは声を掛けて、サッサと部屋を出るように促した。我に返ったように、やにわに石塚は机に広げた書物と筆記用具を片付けだした。

「授業が終わってまだボォーとしているなんてお前らしくないなあ」

 熱気ムンムンの先生の講義が終わった後での言葉だけに、彼の授業意欲を刺激させかねない。それでそのまま活を入れる為に出て仕舞った。越村は彼の恵まれた生活環境にはいささか嫉妬している。それを見透かされても石塚は平気で雑談に応じる。おごり高ぶらない彼の庶民的なところを越村は気に入っている。

 前期テストを前にして、みんな気が滅入る者と高ぶる者が居れば、石塚はどちらにも属さない我関せず派だ。それでも成績が気になる連中は、われ先にと部屋を飛び出していった。それが今日は珍しく彼は終了のチャイムには全く反応を示さなかった。裏を返せばそれだけええところのボンボン育ちなんだ。

「学食で珈琲でも飲むか」

 越村は気休めに声を掛けると、おうっ、と快活に反応した。何だこいつはと半ば呆れたが、とにかくほっとけずに声を掛けた以上はこのままアパートに帰るわけには行かずに学食のテーブルに腰を落ち着けた。駄弁だべる者が少ない、テスト前なのかいつもの活気がない。黙々と食べているのか借りたノートを暗記しているのか、どっちも頭に胃にも消化に悪い。

「今日の授業だが、テストには出ないところばかりやっていた」

 赤線が所狭しと引かれた教科書を睨む学生たちの視線が、こっちに浴びせられたのも気に掛けずに彼は喋る。

なんでそんなん判るんやあ」

 無神経な石塚に集中した視線を和らげる為にも、越村も負けずと反論する。

「あの先生そんな顔をしてた」

 この言葉で石塚に集中した呪いの視線は一気に霧散した。やれやれこれで此奴と腰を入れて喋れるとひと息ついた。

 顔で問題の出題箇所が判れば何の苦労はないし、なんの為の試験だと言いたい。要は物事の本質を知ればテストなんて必要ないとあの先生はのたまってるのだ。

 難題を引き出して物事の本質をややこしくしていると言いたいようだ。それでも石塚は欠かさず、すべての授業は受けていた。石塚には先生の教え方に拘りがあるんだ。人間の本質は持って生まれたもので、天才は存在しない。すべては努力の賜物だというのが彼の持論だ。

「それでテストなんかしてなんになるんだ」

 教えたものを部分的に採り上げて出題する。そこを聞き逃したり、休んでいれば成績は悪くなる。逆にピンポイントで勉強したところばかり出れば成績優秀となる。

「それじゃあ丁半博打とどう違うんだ!」

 と越村は怒鳴りたくなる。石塚にすれば浅く幅広く勉強して、適当に点を取っていれば良い。後は自分の好きなことをするために大学はある。

 若者はこれから人生の花を咲かせる。此の理論なら「好きなことをするために大学はある」この石塚の言葉には頷ける。

「それでお前は何がしたいんだ」

「今の俺にないもの、それは女だ。だから恋に生きたい」 

 ハァ? 此の学食に居る連中と変わり映えしない。これには相手も居ないのにと越村は吹き出した。

けなすな! お前も同類だろう。彼女がいないから毎年夏休みには山に籠もってるのだろう」

「お前と違ってあれは仕事だ」

「バカ言うな。仕事なら何も三千メートルの天界に行かなくても、此の下界になんぼでもあるのに、より依ってそんな苦行をしなくてもいいだろう」

 苦行か、そう云えば昔の登山は修験行者の修行の場だった。

「今はなんだ。そこにあるから極めたい。一種の征服感か。見返りのないものを求めるなんてどうかしている」

「石塚、お前もさっき言っただろう。恋に生きたいって。本当の恋は見返りを求めないもんだろう」

 恋と、もの言わぬ山にたとえるなんて、神聖な恋と登山を一緒にするな。恋したことのない石塚に言われたくない。

「石塚、お前には恋も登山も出来ないのに、言い切る根拠はどこにあるんだッ」

「そんなもんはいらん。体験しなくても頭の中に凝縮されて、いつでも手に取るように再現できる」

 それは恋じゃあない。単なるゲームだ。どれほどのコンピューターでも女心は再現出来ない。同じように山に挑む山男の心理もしかりだ。

「どうだ、一度、山に登ってみないか。高いところはいいぞ。全ての人間が俺にひれ伏しているんだ」

御免被ごめんこおむる。余計な事に俺を引き込むな。高いところなら遊園地のゴンドラで十分味わえる。恋の相手は相性をデータ化して、コンピューターに入力すれば希望する相手が見つかる」

 此の学食にも女性は多く居た。気に入った人は居ないのか見向きもしない。何が恋に生きたいだ。いい加減にしろ。

「じゃあ、相性が合えば気持ちはどうでもいいのか」

「それは相手次第だ」

 そうは言っても心はまったく変わらん。これには絶句した。

 まあそんな恋の話を機械に置き換える石塚は、どちらかと謂えば変人の部類だろう。しかし此の分け方も突き詰めればみんな変人の要素は持っている。目立たず、表に出さず、密かに胸の中で暖めて、卒論に吐き出すつもりなんだ。みんなあとて取って付けたお題目で、さも研究心のかたまりを自負する。だが石塚の場合はそんな欠片は微塵にも持ち合わせてない。ただ己一人の殻から出ようとしない人間だ。そんな男を尻目に、越村は前期テストが終了するとバイトで槍ヶ岳へ向かった。


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