第6話 変貌

 使用人たちに見守られながらひとり気まずい夕食を終え、シノと共にダイニングルームを後にする。

 向かう方角は自室方面だが、しかし私の目的地は自身にとっての安息地ではない。


 何かあれば隣室、ユリアン辺境伯の眠る主寝室に――。昨日マディより伝えられた言葉が脳裏に蘇る。

 まさかこんなにも早くその『何か』が起こるとは。

 ……マディの想定とは、まるで別の案件だけれどもね。


 シノを私の寝室へ待機させ、私は一人、隣室――ユリアン辺境伯がいる主寝室へ向かう。


 扉を壊さぬようノックを叩く。返事はない。最初から返事があるとも思っていないけれど。

 一応、数秒待つ。それからもう一度ノック。


 ……いいわよね? 突入しても。これだけ待てば。


 マディの件に関しては。

 流石にうら若き乙女であるマディの部屋に突入することは許されないだろうと思い、マディ付きの侍女に後を任せる形にしたけれども。


 今回の相手は、形だけとは言え旦那様だ。

 嫁が夜這いしたとて問題にはならない……だろう。多分。


 決意を固めて、ドアノブに手を掛ける。鍵は……掛かっているわね。

 開いていた方がスムーズではあったのだけれど。しかし閉まっているのならば仕方ない。


 ――無理矢理、扉を蹴り飛ばす。


 中にいたユリアン辺境伯は、目を見開き眉根を寄せ、少々引き気味にこちらを見ていた。

 鍵をかけた扉が勝手に開いたのだから当然ね。

 ま、私自身がどれだけドン引きされようと構わないわ。今はそれ以上に重要な案件があるのだから。


「……旦那様」


 扉を形だけ閉め、一歩一歩、部屋の奥へ足を踏み入れていく。

 ユリアン辺境伯は気まずそうな表情で視線を床へ向けていた。


「……用件は何だ」

「色々ありますけれど、まず一つ確認させてください」


 ユリアン辺境伯へ向けてまっすぐズンズンと進み、手を伸ばせばお互いに触れられる距離まで近付く。


 戸惑いがちにユリアン辺境伯が身を後退させようとしたが、その動きは決して機敏ではない。

 ……私以外の人間にとってはどうだか知らないけれど。

 意識して速く腕を動かせば、ユリアン辺境伯の右腕を捕まえることは非常に簡単だった。


「旦那様。――氷の能力をお使いになられたのですね?」

「……ッ……」


 ユリアン辺境伯はやはり何も仰らない。

 けれど、下唇を噛むように食いしばった口元を見れば図星であることは明白だった。


「私は無能力者ですので、詳しいことは分かりませんが。とても強大な能力をお持ちの方は、能力使用の際『反作用』が起こるとお聞きしています」


 ユリアン辺境伯の右腕を軽く持ち上げる。

 その右腕は――酷く冷たい。


 氷の能力を使うことによりユリアン辺境伯の身に起こる、反作用。

 それは恐らくこの、身体より体温が奪われる現象なのだろう。


「誠に勝手ながら、執事よりお聞きしました。幼少期のマディが腕に凍傷を負った件について」

「……」

「先程マディを払いのけたのは、反作用により体温の低下した腕をマディに触れられたくなかったから。その認識でよろしいですか?」

「……、……」


 肯定の返事はない。ユリアン辺境伯は黙ったまま、目を伏せ床を見つめている。

 ……ユリアン辺境伯を相手にしている以上、返事を待っていたら何も進まない。


「妹君に傷を負わせてしまった件については、心中お察し致しますわ。けれども。それは今、マディを傷つける免罪符にはなりません」

「……ッ」

「マディにお伝えになったらいかがですか。先程、マディの手を払いのけられた理由について」

「……、それは……」

「全てをお伝えする必要はないのです。能力を使った理由が何なのか、私は存じ上げませんが。理由などについては、マディにだって伏せておいてよいのです、し……?」


 ――何故だか分からないが。

 よく分からないタイミングでユリアン辺境伯が、顔を上げ私へ視線を向けた。

 その顔は心の底からの困惑に満ちている。眉をひそめ顔をしかめ、口が半開きになっていた。


「……本気か……?」

「? ええ、私はずっと真剣にお話させて頂いておりますが」

「……そ、うか……」


 ドアの鍵を壊してまで室内に入った人間が、終始冗談を言っていたらそれこそ悪い冗談だろう。

 そこまで非常識な人間であるつもりはない。


「私の本気が伝わったようで何よりですわ。ほら旦那様、行きましょうマディの部屋へ今すぐにでも!」

「ッ、ま、待て……!」


 ユリアン辺境伯の背後に回り(呆けている旦那様の背中を取るなど朝飯前だ)肩を持ち、ずいずいと押す。

 多少の抵抗はあれど、ユリアン辺境伯を部屋から押し出すのに支障はない。


 マディの部屋の前までユリアン辺境伯を無事お連れし、ホッと一息ついた瞬間。

 顔を真っ青に染めた侍女が部屋から慌てた様子で飛び出してきた。


「……どうしたの? まさか、マディの身に何かが」

「あっ、あの私、マディ様がお返事をされないので……お持ちした夕食を食べて頂こうと、その」

「落ち着いて、大丈夫よ。ゆっくりでいいから。夕食を持ってマディの部屋へ入ったのよね、そうしたら?」


 侍女の嗚咽が酷くなっていく。……喋ることもままならない、といった様子だ。


 マディの部屋にお邪魔して、中を確かめた方が早いかしら。

 そう思い扉へ視線を向けると、既にユリアン辺境伯が室内を確認しに中へ入られていた。


 ……ちゃんと、心配しているんじゃない。妹のこと。


 ユリアン辺境伯を少々見直しつつ、私も後に続く。

 ランプによる微かな光が揺らめいた。


 我々の侵入により空気が入り込み、ランプの火の角度が変わったのだろう。

 真っ暗闇であった室内の奥が灯りに照らされ、そして。


 部屋の最奥にいたマディの姿が浮かび上がった。


 ……我々の前に姿を現したマディの様相は。

 先ほどダイニングルームから走り去っていったマディとは、大きく異なっていた。


 ヒラヒラとした純白のドレスは引き裂かれ、マディの足元に散乱していた。

 指先から肘上を覆っていたオペラグローブは脱ぎ捨てられ、腕には薄らと凍傷の痕が残っている。


 黒を基調としたドレスに着替えたマディは、前側だけ丈が短くなった釣鐘スカートより、シルクストッキングを履いた足をチラリと覗かせていた。

 一般的な足元まで届くスカート丈とは違う、見たことのない衣裳。

 そのドレスを着込んだマディはどうにも浮世離れして見える。


 しかしマディは、丈の短いスカート以上に非現実的な装具を背中に携えていた。

 ――深淵の如き、黒き翼。


 翼がバサリと音を立て、開く。

 生き物の如く羽ばたく動きが室内に風を巻き起こしていた。


「マディ……なの?」

「……リリアナ様。わたくし、もうマディの名は捨てることにいたしました」


 マディの瞳がランプの火に照らされ妖しく揺れる。

 微笑んでいるはずの顔は、しかし穏やかさや優しさといったものとは無縁の、どこか恐ろしい笑顔であった。


「誰からも……お兄様からも愛されないわたくしは、必要のない存在ですわ。だから生まれ変わりますの」


 マディが部屋の最奥に設置された窓を開けた。

 薄暗い満月は雲に隠れ、室外は暗闇に満ちている。


「聡明で美しく、皆から愛される宵夜の聖女――アンリエッタになるのですわ」


 マディが翼を大きく広げ――窓から飛び出した。

 隣に立ち尽くしていたユリアン辺境伯が慌てた様子で飛び出し、窓の外へ身を乗り出す。


「――マディ!」

「旦那様……大声、出せるではありませんか」

「……な、何を呑気な……!」


 前傾姿勢となっているユリアン辺境伯の上半身を一旦、窓の外より室内へ引き戻す。


 無理矢理に室外から室内へ後退させられたユリアン辺境伯は、突然のことで状況が飲み込めないという顔で目を見開いている。

 しかしこれ以上、ユリアン辺境伯に時間を割いている余裕はなさそうだわ。


「シノ!」


 呼び掛けつつ、窓の外に出る。

 スカートをたくし上げ、壁を蹴り伝って地上まで降りれば、シノが私の部屋の窓からこちらへ手を振っていた。指示はちゃんと通りそうね。


「……っ、四階だぞ!?」

「旦那様、この程度でしたら私は平気ですから。シノ、マディを追うわよ! 私の冒険服を放り投げて、それから彼女を追って!」


 黒き翼で空を駆けるマディを、シノが私の冒険服一式を窓より投げ捨てながら視認した。


「わぉ! 飛んでるっすね!? テンション上がって来たっすよ〜!」


 シノが窓から駆け出し、民家の屋根の上を飛び移りながらマディを追う。


 シノはシノビの掟? とやらで、寝る前はいつも動き易い格好に着替えている。

 おかげで時間のロスが少ない。日課が功を奏したわね。


「ひゃっは〜! みなぎるっす〜!!」


 さて、私も着替えて二人を追いましょう。

 ……城外、つまり外だけれど、真っ暗だし誰もいないし。

 草陰に隠れれば、着替えちゃってもいいかしら。


 ドレスに手を掛けながら草木を探すと、斜め上から猛烈な視線を感じ取る。

 ユリアン辺境伯が窓から身を乗り出し、とんでもないものを見る目で私を見ていた。……あら。

 や、でも、相手は一応旦那様だし。着替えを見られるくらい恥ずかしいことでもないかしら……?


 ドレスを脱ぐ手を止めない動きから、私の不埒な思考を読み取ったのか。

 ユリアン辺境伯が慌てて室内へ舞い戻った。

 ……仮にも令嬢が外で着替えだなんて、とユリアン辺境伯より非難されているような心持ちになる。


 仕方ない、城内で人気ひとけのない部屋を探して着替えましょうか……。

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