第5話 拒絶の右手
「……マディ! どうしたの」
「リリアナ様……!」
私の視線に気付いたのだろうか、マディがぽろぽろとこぼれ落ちる涙を手で抑えた。
全身が小刻みに震えている。指先から肘上までを覆うオペラグローブに、涙がじわじわと広がっていく。
思わずマディを抱き寄せる。
腕の中にすっぽり収まったマディがまるで涙を隠すように、顔を私の肩へ埋めた。
「リリアナ様、どこへ行かれていたのですか……!」
――外出の件、まさかマディにバレていたとは。
城を不在にした時間が長過ぎたわね。
「その件はまた後で話すわ、それよりもマディ、あなたよ」
マディの背中へ回した腕に、より強く力を込める。
……これでマディの涙も少しは落ち着いてくれるとよいのだけれど。
「マディ、何があったの? あなたを悲しませることがあったのなら、私に相談してちょうだい」
「……リリアナ様……、わたくし……」
声の震えが強まったマディの背中をさする。
ひっく、と
「わたくし、……お兄様に、嫌われているのですわ」
「旦那様に……? 詳しく聞かせてもらっても大丈夫?」
マディが言葉を詰まらせながらも話を続ける。
「リリアナ様とお話させていただこうと、でもどこにもいらっしゃらないから、お兄様に、お聞きしようと思っ、ひっく」
「大丈夫、ゆっくりでいいわよ」
こくこく、とマディが頷く動きが肩に伝わった。
……マディ、城にいない私のことを探してくれていたのね。悪いことをしてしまったわ。
「それで、お兄様のいる執務室に、お邪魔したのです。そしたら、大声で……っ、入るな、と言われてしまって」
「……なんてことかしら。事情が、あったのだと思うけれど」
「でもわたくし、お兄様の、あんな大声っ、初めてで……きっと何か、悪いことをしてしまったんですわ。だから、お兄様に、嫌われてしまったのです……」
「そんなこと……」
そんなことないわ、そう最後まで言い切れなかった。
言い切るだけの根拠がない。私はあまりにも、ユリアン辺境伯のことを知らないのだ。
仮にも旦那様だと言うのに。……もどかしいわ。
「大丈夫よ、マディ。それに私のことも心配してくれていたのよね。お礼を言わせて」
「リリアナ様……」
マディの背中を撫で続ける。少しずつではあるが、鼻を啜る音の鳴る頻度が減ってきていた。
「……マディ、落ち着いた? 夕食は食べられそうかしら」
「……はい……」
「大丈夫。夕食の席で旦那様に話を聞いてみましょう? きっと、大したことじゃないわよ」
果たして十文字以上喋る事ができない(らしい?)ユリアン辺境伯が事情を説明してくれるかは分からないが。
流石に泣き腫らした妹の目元を見れば、何かしら答えてはくれる……と、思いたい。
せめて「嫌いではない」とだけでも言ってくれれば、マディもある程度は安心するでしょう。
たった七文字だから、ユリアン辺境伯にだって発言できる文字数のはずだわ。
――もしも自身の妹を本当に嫌いになるような男であるのならば、話は別だけれど。
その時は。マディを泣かせた罪の分、しっかりと罰を受けてもらわねば。
どのくらい手加減して殴れば
辺境伯は氷の『能力』を使うとエミール様からお聞きしている。氷による防御は考慮に入れておくべきね。
氷をかち割りつつ、しかし人は死なない程度に殴打――ま、やるしかないわ。
いや、やらないで済むのが一番いいわね。
ユリアン辺境伯が妹を嫌っていないなら、それが一番だもの。
ユリアン辺境伯がマトモな人間であることを祈りつつ、マディを連れて廊下を進む。
ダイニングルームの扉前に辿り着く。そのタイミングでちょうど、廊下の先を曲がりこちらへ向かってくるユリアン辺境伯の姿が見えてきた。
「……お兄様……」
我々の存在に気付いたユリアン辺境伯が、気まずそうに視線を斜め下へ向けた。
どうやら罪悪感はあるようだ。……よかった。妹が嫌いというわけではなさそうね。
「旦那様。マディから話は聞いておりますわ。ひとまず、夕食の席で事情を説明いただけませんか?」
ユリアン辺境伯は何も答えず、私たちへ視線を向けることもなく。
無言のままダイニングルーム扉のドアノブに手を掛けた。
その様子をじっと見ていたマディが、急にユリアン辺境伯の元へ駆け寄る。
「お兄様! その腕……!」
「……!」
ドアを開けようとしていたユリアン辺境伯の腕が、咄嗟にだろう、大振りに宙へ浮いた。
――駆け寄ってきたマディを、振り払う形で。
「……あ……お兄様、わたくし……」
「! 待って、マディ!」
兄から拒絶されたと感じたのだろう。絶望の表情を浮かべたマディが走り出した。
廊下の角を曲がり、一瞬の内にこの場から消えてしまう。
マディを追いかけようと思って、しかし視界の隅に佇むユリアン辺境伯の様子に足が止まる。
妹を突っぱねた形となったユリアン辺境伯も、また。
自身の手――マディを振り払った右手を、見開いた目で凝視していた。
……後悔なさるなら、最初から妹を拒むような真似、なさらなければ良いのに!
「旦那様! 何をお考えなのですか」
「……俺は……」
「マディがお嫌いなわけではないのでしょう?」
今ならまだ、ユリアン辺境伯が大声で「嫌いではない」と叫べばマディにも届くかもしれない。
そう期待を込めて問うも、しかし。
辺境伯ユリアンは顔を思い切り歪め、ダイニングルームに入ることもなく。
マディとは逆方向に歩き出し、廊下の先へ消えてしまった。
その行為を理由に、ユリアン辺境伯を非情な兄だとして切り捨てる事も――できるけれど。
しかし違和感があった。
ユリアン辺境伯の腕を気にした様子のマディにも。
その右腕を触れさせまいと妹を払いのけたユリアン辺境伯にも、だ。
やはり、何か事情があるのだわ。
……だからと言って、それはマディを傷付ける免罪符にはならないとも思うけれど。
しかし今はユリアン辺境伯を問い詰めるよりも先にやるべき事があるわ。
ダイニングルームの扉に手を掛け、室内で待機していた初老の執事へ向け声を掛ける。
「執事。――マディの部屋まで、ご案内いただけますか?」
マディの自室へ向かいながら、先導を快諾してくれた執事へ問いを投げる。
「旦那様、どうにもマディに腕を触れられたくないように見受けられました。執事、理由はご存知で?」
初老の執事は目を細め、ためらいがちに口を開いた。
「……マディ様には、ご内密に頂けますかな」
「それがお話くださる条件ですか」
執事は無言のままマディの部屋へ向け歩みを進める。
……肯定の意味の無言だ、これは。
「分かりました。神に誓って口外いたしませんわ」
「ありがとうございます。リリアナ様、ユリアン様の『能力』についてはご存知で?」
「氷の能力を使うと、エミール様からお聞きしておりますが」
執事がこくりと頷く。
「ユリアン様の能力は極めて強大。故にその能力は、幼少期のユリアン様にとって荷が重過ぎたのです」
――ユリアン辺境伯はそんなにも幼い頃から『能力』を開花させていたのか。
或いは生まれながらにして能力者だったのかも。
「ユリアン様がご自身の能力をコントロールできないまま時は過ぎ、妹・マディ様がお生まれになりました。そして事件が起こりました」
事件。
話の流れからして、大体の想像はつく。
「あれは――マディ様がよちよちと歩き始めた頃でしたかな。マディ様が、ユリアン様に後ろから近寄りそっと触れた瞬間、ユリアン様の『能力』が暴走したのです」
執事が物憂げに目を伏せた。
彼としても、あまり思い出したくはない記憶だったのだろう。それでも教えてくれたことに感謝するばかりだ。
「――それが原因で、旦那様はマディに触れられることを恐れている。そうなのですね」
「ええ……。今となってはユリアン様も、能力を完璧にコントロールすることができています。もうマディ様を傷付けるようなことは起こり得ません。けれども……」
能力を使いこなせるようになったからといって、トラウマが
ユリアン辺境伯は未だ、妹を傷付けた罪悪感を背負っているのだろう。
「マディ様の手と腕を覆うオペラグローブは、凍傷の痕を隠す目的もあるのです。今は痕もかなり薄くなりましたが……それでもユリアン様はマディ様に、オペラグローブを装着するよう指示しておられます」
話しながら、執事がある扉の前で足を止めた。……マディの部屋だ。
廊下から扉を隔てた部屋の奥へ、声を掛ける。
待てども待てども、中からマディの声が返ってくることはなかった。
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