第9話
突然、ポケットに入れていた慶太のスマートフォンが振動しだした。
この場にそぐわぬ機械的なノイズに仰天し、慌てて、「ちょっと失礼」と告げると廊下に飛び出した。
見下ろすと、薄暗い廊下にぼうっと灯るディスプレイに、茂野冬美の名が浮かび上がっている。慶太は玄関へ向かいながら、電話を取った。
はい、もしもし、と言った途端、取り乱した声が耳元で響いた。
「広江君? ああよかった。大変なの。大変というか、緊急性はないんだけど――」と、物凄い早口でまくしたてる。
「え? あの、どうしたんです?」
「大したことじゃないの。でも、知らせておこうと思って。ちょっと、自分一人じゃどう考えたらいいかわからないし」
一体何なんだ? どうしたというんだ? 慶太は肌の上を無数の虫が這い回るような感覚を覚えた。
「茂野さん、一体――」
「ごめんね。ちょっと混乱してるの。ただ、何があったかだけ話そうとしたのに――」そこまで喋って、茂野は声を詰まらせた。
よくわからないが、何か尋常でないことが起きている。そうでなければ、いつも冷静な茂野がこんなに取り乱すはずがない。懸命に、落ち着け、と自分に言い聞かせながら、慶太は電話に向かって言った。「すぐ戻ります。今、事務所ですよね? 待っててください!」
バックステップで廊下を後戻りしながら、電話を終えると、客間の障子を開けた。
御崎ハルに、やむを得ない事情で戻らなければならなくなった、と告げると、慶太は未都を部屋から引きずり出した。呆然としている御崎ハルに、振り返って、「あの、明日またお邪魔します――」と頭を下げる。
通りへ出ると、訳がわからない様子の未都に茂野からの電話の内容を話した。
未都もまた、理性的な茂野がそんな電話を寄越したことに驚いたらしい。「一体、どうしたんだろう」
「さあ。とにかく、一刻も早く帰って、何が起きたのか確かめよう」
心なしか青い顔で、未都は頷いた。「ねえ、ほんと言うと、さっきから寒気が収まらないんだよね」
慶太は驚いて振り向いた。
「実を言うと、俺もなんだ」
せっかく、御崎ハルから母親の失踪についての情報を引き出しかけたのに、話を中断することになってしまった。駅前で拾ったタクシーの中で、そのことに触れると、未都は肩をすくめた。
「しょうがないよ。それに、何かとんでもないことが起きたんだ、ってことは慶太の様子から伝わったから、彼女もわかってくれるんじゃない?」
「だといいけどな」
「うん。それに、少しだけわたしがその話をしておいた」未都は眼鏡を掛け直した。「ハルさん、お母さんがいなくなったことについて、あまりに突然だったし、置き手紙も何もなくて、手がかりがまったくない、って言ってた」
「そうか」慶太は沈痛な面持ちになった。母親がいなくなる、という異常事態に、あの子は耐えていたのか。
タクシーが止まると、二人はドアから飛び出し、転がるように事務所のビルへ向かった。――ごみごみとした、路地裏のテナント・ビル。事務所は二階なので、エレベーターなど待つより階段を駆け上がったほうが早い。
ドアを開けると、力なくソファに座る茂野の姿が目に入った。傍らに、ニット帽を被った男が、両手をジャケットのポケットに入れて立っている。顔見知りの調査員だ。
「茂野さん――」
声をかけると、茂野ははっと顔を上げた。「広江君」目が濡れて、異様に輝いている。
「どうしたんですか。あの―― 榎並さん?」
榎並は首を振り、自分はさっきたまたま帰って来ただけだ、と告げた。事務所へ入ると、茂野が蒼い顔で座り込んでいて、驚いたのだという。
「ごめんね、榎並君。広江君と日比野さんの三人で話をさせてもらえる?」
茂野がかすれ声でそう言うと、榎並は肩をすくめ、じゃ、と事務所を出て行った。
「彼も、何かおかしい、と気づいてるよね」ドアが閉まるのを待って、茂野は呟いた。「もう、蓮野の件を秘密にするのも限界ね」
「何があったんです?」
そう聞くと、茂野は俯き、激しく身を震わせた。
「茂野さん」未都が声をかけながら、隣に腰を下ろす。震える肩に手を触れると、茂野は顔を上げた。
「――平気よ。ありがとう」そして、虚ろな目で慶太を見上げた。「驚かせてごめん。あ、あれ―― あれが、戻ってきたら、あったものだから」
小刻みに震える指が、ある方向を指す。
慶太は呆気に取られながら、その方向に顔を向けた。――そこには、蓮野のデスクがあった。
「見ていいですか?」喉に何かが引っ掛かったような声で、かろうじて聞く。
茂野は返事をせず、再び項垂れていた。その横で、未都が不安げにこちらを見つめている。慶太はゆっくりと、他のデスクを避け、間仕切りの観葉植物を回って、そちらを目指した。
人間より背丈の高い観葉植物を回り込むと、蓮野のデスクの上が見えた。相変わらず雑然と物が置かれた、そのデスクの上に、昨日、慶太が返した手帳が置かれていた。手帳はページを開いた状態で、ひとりでに閉じぬよう置物で真ん中を押さえられている。
蓮野の手帳が、なぜこんな状態で? そう訝りながら、慶太はデスクに歩み寄った。手帳の上に書かれた文字が読めるところまで。
「――あっ!」
それを読んだ途端、叫び声が口を突いた。
驚きと、信じられないという思いが、さあっと全身に広がっていく。
立ち尽くすこちらの姿に恐怖を覚えたのか、未都が震え声で尋ねた。「な、何?」それでも返事がなかったので、彼女は立ち上がると、素早くそばへ来た。
そして、慶太が凝視している箇所を見た。「え――」
そこには、こう書かれていた。
”俺は大丈夫だ”
一際大きな、濃い文字で。手帳の傍らにはペン立てから取ったとおぼしいボールペンが転がっていた。そのボールペンで、ゆっくり、力を込めて文字を綴ったらしい。
「どうして――」未都が呻くように呟く。
慶太も呆然としながら同じことを考えていた。言うまでもなく、こんな文字は手帳のどこにも書かれていなかった。しかも、文字は真新しいページの上にある。これを見逃すなんて、ありえない。
だったら、どうしてこんなものがここにあるのか。
「蓮野さんが、これを書いたのかな? ここへ来て――」
蓮野がこれを? そんな馬鹿な。彼が無事なら、なぜ、書き置きなどというまだるっこしい真似をするのか。
「彼、生きてるのかな」茂野の声が聞こえた。
慶太は手帳をそのままにして、彼女のそばに引き返した。
茂野は膝の上に両肘を乗せ、手の甲にぐったりと顎を預けていた。その顔は相変わらず虚ろで、まるで感情が抜け落ちてしまったかのようだ。
「死んだ、と思ってたんですか?」
「うん。そうかもしれない、と思ってた。人前では、口が裂けても言えなかったけど」口調も、普段の彼女のそれとは違う。きびきびして、いつも素っ気ないくらいだったのに、今の彼女はまるで酔いどれだ。
「しっかりしてください。事務所は施錠してたんですか?」
「ええ、していた。けど、したって意味ないでしょう。彼は合鍵を持ってるんだから」
傍らで、未都が啜り上げるような声を漏らす。怖いのだ。
「まだ、蓮野さんだと決まったわけじゃありませんよ。どう考えたらいいか、わからないけど」
わかってる、というように、茂野は大きく頭を振った。そして、そのまま俯くと、声もあげず泣き崩れた。
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