第10話
結局、その一件は茂野から警察に報告することになった。書き置きを残したのが誰にせよ、何者かが事務所に侵入した疑いがあるのは確かだからだ。すでに、早瀬奈緒についての報告も受け取っているので、警察も看過することはないだろう。
そちらの対応は茂野に任せ、慶太は再び、未都とともに御崎家を訪れていた。
「茂野さん、大丈夫かな」心配そうに、未都が呟いている。
どうかな、と慶太は返した。いつもなら、きっと平気だ、と言うところだが、今回ばかりは不安が勝っている。
御崎ハルは、門を開けてこちらを見ると、微かに表情を緩めた。
「こんにちは。今日は天気がいいし、縁側でどうですか」
もちろんそれでいい、と慶太は返した。天気がいいとはいえ、庭を吹き抜ける風は冷たいくらいだが、それでもあの妙に張り詰めた家の中よりましだ。
御崎ハルがお茶を運んでくる間に、未都が尋ねた。「ねえ、あの文字って、蓮野さんの字だったの?」
「そうかもしれないけど、力を込めて書いた字だったし、わからないよ」慶太はそう答えてから、縁側に腰掛ける未都を振り向いた。「未都はどうして、この調査に付き合ってくれるの? 怖い思いまでして」
すると、未都は不意を突かれた顔をした。
「どうしてって―― 何でもいいでしょ」うろたえたように、そっぽを向く。
そこへ御崎ハルが戻って来たので、二人とも口をつぐんだ。
御崎ハルは今日も、セーターに赤い割烹着といういで立ちだった。割烹着の下に覗くスカートは制服らしい。足首から下は毛糸の靴下で覆われている。
彼女はそっと二人分の湯飲みを置くと、こちらの表情を窺った。相変わらず、人形のように固い、美しい顔だが、昨日、その目の奥に火―― ちろっと燃える火のようなものを見た慶太は、見た目に誤魔化されまい、と身構えていた。この子の内には、きっと無害な外見とは相反する何かがあるに違いない。彼女を取り巻く環境がどこか異常であるのと同じく、彼女もまたどこか尋常でない気がする。
「昨日は、急に帰ったりしてすみません」慶太はまず頭を下げた。「緊急事態とはいえ、話を中断してしまって」
少女は、いえ、と言ったきり目をぱちくりさせている。
慶太は続けた。「その、改めて、お母さんについて教えていただけませんか。――お母さんがいなくなった、ということについて」
少女はためらうように、上目遣いにこちらの顔を見据えてから、唇を開いた。
「はい、わかりました」
盆を傍らに置くと、少女は縁側に―― 縁側に腰掛ける慶太と未都のちょうど間に正座した。
「どこから話せばいいでしょう」
それを聞いた未都が、助け舟を出した。「じゃあ、お母さんがいなくなった日のことを話してもらえる?」
御崎ハルは未都のほうを見て、はい、と答えた。
「五月のことでした。岩岡さんが授業をしに来て、帰られた後で、わたし、お母さんをさがしに行ったんです。お母さんとわたしは、普段からあまり一緒にご飯を食べたりしていなくて、用のある時以外は顔を合わせることがなかったんですけど。その日は、急に思い立ったようにお母さんと話がしたくなって、さがしたんです」
――薄暗い、板の間の廊下や台所を、慶太は思い浮かべていた。この少女が、そういう場所を母親をさがして歩いているところを想像すると、ふっと暗いものが胸に差す。
「最初は、お母さんがいつもいる部屋を覗きに行って。でも、いなかったから別の場所をさがしたんです。でも、どこにもお母さんはいなくて、仕方なく家じゅうを歩き回りました」その時のことを思い出したのか、少女は微かに顔をしかめた。「お手伝いさんが一人いて、名前を花村さんっていうんですけど、その人にも一緒にさがしてもらうことにしました。でも、幾らさがしても、お母さんは見つからなくて。途方に暮れて、もう一度、お母さんのいつもいる部屋に行ったんです」
御崎ハルの話す声が、次第に大きくなっていく。感情の乏しい声なのに、気圧されるような何かがそこには秘められていた。
「お母さんは、やっぱりいなかった。――でも、木の破片のようなものが残っていたんです」
「木の破片?」
「はい」
未都が困った顔でこちらを見る。慶太は彼女に代わって質問した。「その破片が何か、わかりますか?」
御崎ハルはこちらを振り向き、頷いた。「たぶん」
「何です?」
「箱です」少女は無造作に答えた。「お母さんが大事にしていた、箱だと思います」
箱? 一体それは、どういうものだろう。
「ええと、それはどんな箱ですか?」
「このくらいの」両手で大きさを示す。ルービック・キューブくらいだろうか。「木でできた箱、です。全部の面に、キラキラ光るものが埋め込んであって。象嵌、っていうんだ、って昔教えてもらいました」
木でできた象嵌の箱。何か貴重な品でも入っていたのだろうか。
「中身は何だったんです?」
「空だ、ってお母さんは言ってました。中を見てみたことがあるけど、空だった、って。わたしも、持たせてもらった時に箱を振ってみたんですけど、何の音もしませんでした。開けてみていいか聞くと、いいけど、少しだけだ、って返事でした。それで、うっすら、指も入らないぐらい、細く開けてみたんです。――中は真っ暗で、何も見えませんでした」
耳を傾けながら、ふと未都のほうを見ると、彼女は話に聞き入りながら、無意識にだろうか、服の上から腕を擦っていた。寒気がするのだろう。
「それが、壊れていた、と?」
「そうです。破裂したみたいに、粉々になって。破片の中に、あのキラキラする象嵌を見つけたから、あの箱だ、とわかったんです」
箱の破片だけを残し、母親はいなくなった、というのか。「お母さんは、それきり?」
「はい。どこにもいなくて、警察を呼びました」
辺りに沈黙が落ちた。その静寂に耐え切れなくなったように、未都が尋ねる。
「その時のこと、詳しく聞いていい? 警察の人は何て言ってたの?」
「わかりません。何も言ってくれなくて。親戚のおばさんは、たぶん知らないほうがいい、って言ってました」御崎ハルの声のトーンが少し落ちた。
「そうなの。えっと、お母さんの身の回りのものは? 何か持って行ったりしたのかな?」
御崎ハルは首を振った。
「いいえ。服は何着かなくなってたけど、ほかはそのままでした。その時着てた服がなくなっただけかもしれません」
「じゃあ、着の身着のまま、ってことか」
未都の呟きに、慶太はふと、蓮野の失踪時の様子を思い起こした。蓮野もまた、着の身着のままで姿を消したのだ。
「警察は何も説明してくれなかったそうだけど、ちゃんと調べてくれたのかな?」
「さあ。何を調べた、といったことも、教えてもらえなくて……」
ひょっとすると、警察は御崎ハルの母の自殺を疑っていたのかもしれない。御崎ハルの母には精神病か何かの既往歴があるようだから、そこからそういった推察をした可能性はある。親戚も同じことを考えていたから、知らないほうがいい、などと言ったのだろう。
「お母さんの名前を聞いていい?」
「御崎百合、っていいます」
「それと―― ごめんね、こんなこと聞いて」申し訳なさそうに、未都が尋ねる。「お父さんの話が全然出てこないけど、いらっしゃらないのかな? 教えてもらえる?」
少女は未都の心配をよそに、淡々と答えた。
「お父さんはいますけれど、一緒に暮らしてはいません。お母さんによると、わたしが小さい頃に、別の女の人と暮らすために出て行ったそうです」
返事の内容に、未都が息を飲む。
「それじゃ、ずっと、お母さんとお手伝いさんと三人だけで暮らしてたんですか?」慶太がそう質問した。
「そうです」
なるほど、この家が恐ろしく静かで、寂寞としているのは、そのせいかもしれないな、と慶太は考えた。
「その後、お母さんの行方について、手がかりは?」
まったくない、という意味だろう。少女は大きく何度も首を振った。
「じゃあ、ハルさん自身に、お母さんの失踪について、どこへ行ったのか、とか、理由に心当たりはありますか?」
その質問に、御崎ハルは眉を寄せ、考え込む様子を見せた。何か言いたいことがあるのだろうか。そう思って返事を待ったが、彼女は黙ったままだった。
「それじゃ、さっき話してた箱について、もっと詳しく教えてもらえますか? お母さんはどうして、空っぽの箱を大事にしてたんです?」
しばしの沈黙の後に、彼女は答えた。
「空っぽだけど、空っぽじゃない、ってお母さんは考えてるみたいでした」
「というと?」
「あの箱には何か謂れがあるらしいんです。わたしはよく知らないんですけど、お母さんはあの箱を見つけた時に、文書のようなものも添えられていて、それを読んだ、って言ってました。その文書はなくしてしまったみたいで、見つからないんですけど……」
謂れのある箱。オカルト的な想像が頭を駆け巡る。
「お母さんはいつ、どこで、その箱を見つけたんです?」
「ずっと昔。わたしが生まれるより、もっとずっと前に、見つけたみたいです。蔵で」御崎ハルの視線が、泳ぐように庭の隅に向かう。
慶太と未都も、同じ方向を見た。最初にこの家を訪れた時に目をとめた蔵が、そこにあった。
「――かなり、古いものなんですか?」
「お母さんは、そうだと言ってました。古くて、とても貴重なものだ、って」
未都が口を開いた。「貴重、って? よくできた品だ、ってこと?」
御崎ハルはそれに首を振る。
「違うと思います。お母さんはその箱を、邪気を払う箱だ、って言ってました」
邪気を払う。神社などでよく聞くフレーズだ。「お守りのようなもの、ということですか?」慶太は尋ねた。
「そう、とも言えるかもしれません」初めて、少女の目が揺らいだ。ためらうように言葉を選び、「お母さんはこう言ってました。邪な人間にこれを向けると、そのよくない心を食べてくれる、って。そうすると、実際に効き目があって、その人はいい人間になるんだ、って」
慶太は思わず眉をひそめた。子供に聞かせるお伽噺のようだが、御崎ハルの母はどこまで本気だったのだろう。
「本当に、いい人間に?」
御崎ハルは首を傾げた。「わかりません。お母さんは昔から、何人もの人にそれをしてきた、って話してました」
再び、沈黙が落ちた。今度の沈黙はなかなか破られず、静寂の中、未都が肩をすぼめ、押し殺したような呼吸をするのが聞き取れた。
「どういう時に、お母さんはそれをしたんです?」
「嫌なことを言われた時や、気に入らないことがあった時に。夜、その人の家の前へ行って、箱を開くんだそうです。しばらくそうしていると、ふうっと何かが箱に吸い込まれて、蓋がひとりでに閉じる、って言ってました」
不気味な話だ。少し怯みはしたが、慶太はそれを表に出さないよう務めた。
「そうすると、その人はどうなるんです――?」
「いい人になる、って母は」少女は視線を落とした。「でも、本当のところはよくわかりません。親戚の人の中に病気がちな人が何人かいるんですけど、お母さんが一度、その人たちのことをこう言ってたんです。あの人たちはいい人になりそこねた、って」
いい人に―― なりそこねた? 思わず、ぞくりとしながら質問を続ける。「それって、つまり―― お母さんがしたことのせいで、親戚の方たちが病気になった、ってことですか?」
「たぶん、そうだと思います。でも、お母さんはそのことを認めたがりませんでした。箱は邪気を吸い取る、そうするとその人はいい人になる。そう繰り返すばかりで」
箱は、邪な人間から、邪悪な心を吸い取る。御崎ハルの母はそう信じていたようだ。もしくは、信じているふりを頑なに続けていた。では、実際はどうだったのか。「病気になった人たちのこと、もっと聞いていいですか?」
「いいですよ。病気の人たちのうち、二人はまだ若いおじさんとおばさんで、もう一人はお年寄りでした。三人とも、お母さんに意地悪な態度をを取ってたそうです。理由はわかりませんけど、本家筋で優遇されていると思ったのかもしれません。それで、お母さんはその三人の家へ行って、こっそり箱を開けた。そうしたら、翌日からその人たちは寝込んでしまったそうです。しかも、体を壊したのはその三人だけじゃなくて、その人たちの家族もでした。おばさんの家にはまだ小さい子供が二人いたんですが、一人は数日後に救急車で運ばれて、そのまま病院で亡くなってしまい、もう一人は学校のプールで溺れ死にました。おじさんには子供がいなかったんですけど、おじさんに続いてその奥さんも調子を崩し、それが原因で車の運転を誤り、事故死しました。三人目のお年寄りは、ずっと寝たきりのまま、介護施設で起きた火事で亡くなったそうです」
聞いていた未都が、微かな悲鳴らしきものを上げた。見ると、顔色が蒼白で、嗚咽をこらえるように両手で口元を覆っている。
慶太自身も気分が悪かったが、なんとか自分を保った。「まさか。亡くなったっていうんですか」
「わたしも驚きましたけど、人が死ぬのはよくあることだ、ってお母さんが。うちには親戚が大勢いるし、そのうちの何人かが死ぬぐらい、大したことじゃない、って」
呻き声を上げそうになるのを慶太は堪えた。
「その、そういう目に遭ったのは、その三人―― と、その家族だけ、なのかな」
わかりません、と御崎ハルは返した。
「わたしには言ってないだけで、もっといるのかもしれません」彼女はちょっと声を詰まらせた。「子供の頃から、わたしが学校で誰かに嫌なことをされたり、苛められたりして帰ってくると、それを聞いた母が、夜中に家を抜け出す、ということがありました。その明くる日には、決まって、わたしを苛めた子が学校を休むんです。だから、わたし――」
細いため息が、少女の口から漏れる。
「嫌なことがあっても、お母さんにはそのことを言わなくなりました。正直言うと、いい気味だ、と思ったこともあるけど、やっぱり――」そこで言葉を切り、首を振る。
「そう、か」途方もない話に絶句しながらも、慶太は言葉を押し出した。
この、おぞましい話―― おそらくは、母親が何らかの方法で気に入らない人間を呪っていた、と思われる話―― これは、事実なのだろうか。到底信じられないし、信じたくもないが、今はとにかく話を聞こう。
「その、お母さんのしてきたことを知ってるのは、ハルさんだけなんですか?」
少女はしばし、間を置いた。「お父さんも知ってると思います。一度、うちへ来て、お母さんに頼んでたから。許してくれ―― って。お母さんの足にすがりつくみたいにして、叫んでました。うちの子を殺さないでくれ―― って」
慶太は言葉を失い、まじまじと相手の顔を見つめた。気のせいだろうか。父親について話した時の少女の顔は、いつも以上に硬く、冷ややかにさえ見えた。
御崎ハルの母の行動は、徐々にエスカレートしていったのだろうか。邪気を吸い取る、いい人になる、などと言いながら、半ば気の向くままに、ターゲットを選んで呪う、ということを繰り返していたのだろうか。なんてことだ、と慶太は内心で呻かずにいられなかった。
「お母さんは―― 恐ろしいことをしてたんですね」
ふっと口を突いたその言葉に、少女は目を瞠った。「そう、ですよね。恐ろしいこと、ですよね。わたし、どんな人でも、お母さんはお母さんだ、って思うことで、そのことを誤魔化してたかもしれません」
彼女は俯き、こう続けた。
「あの、箱。象嵌細工の、キラキラした綺麗な箱。お母さんはあの箱を指差して、ここが金で、ここが銀で、ここが貝殻で―― って、教えてくれました。わたしはうっとりして見てたけど、ある時、気づいたんです。箱が以前より艶を増してる、ということに。綺麗ではあったけど、なんだか、それ以上に不気味で、近づくのをやめました」
箱が以前より、艶を増した? どういうことです、と尋ねる前に、彼女は続けた。
「わたし、あの箱は人の精気を吸って、徐々に力を増していたんだと思います。アコヤ貝が何年も何年もかけて、おなかの真珠を大きく丸くしていくように、あれも人の邪な心を吸って大きく大きく育っていたんじゃないか、って。そして、それが限界に来た時に、誰も開けていないのに勝手に大きく蓋を開けたんじゃないか、って」
未都が息を詰めて、少女の横顔に見入っている。自分も同じくらい青褪めた顔をしているだろう、と慶太は朧げに考えた。
「蓋を開けて、それで、どうなったっていうんです――?」
ため息をつくように、御崎ハルは言った。
「わたし、思うんです。お母さんは、あの箱に食べられてしまったんじゃないか、って」
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