第8話
駅に向かって歩きながら、未都がぽつりと言った。「気の毒だね。岩岡さんのお母さん」
「うん」前を向いたまま、慶太は言った。「自分を責めてるみたいだったな。あの人に落ち度はないのに」
「そうだね。――ね、何か見つかるといいね」
と、慶太が手にしたスマートフォンを見ながら言った。
「そうだな。じゃ、腹も空いたし、何か食べてから調べてみよう」
ちょうど、駅までの道の途中に洋食屋があったので、そこに入って空腹を満たすことにした。慶太も未都もさほど財布に余裕はないが、その店はまあまあ懐に優しい値段設定だった。
ひとまず食事を終えてから、テーブルを挟んで岩岡のスマートフォンを覗き込む。彼の生徒だという女子高生も気になるが、その他のことも調べたい。
「岩岡さんが家庭教師をしてた女の子も、もしかして行方不明なのかな」未都が不安げな顔で言う。
現状を見る限り、その可能性は大いにある、と考えておいたほうがいいだろう。
「何を調べるの?」
「メッセージのやりとり。それに、留守録や通話履歴、かな」返事をしながら、ディスプレイの上に指を滑らせる。「メッセージの返信はここのところしてない。届いたメッセージは全部既読になってるけど、たぶん岩岡さんのご両親が調べたせいだろう」
「そっか。岩岡さんが最後にメッセージを送信したのはいつなの?」
「えっと、五月の一七日かな。早瀬奈緒さん宛てだ。旅行について打ち合わせをしてる」
「その後は?」
慶太は画面をスクロールさせた。「――この辺かな。もう岩岡さんからの返事はなくて、奈緒さんからの一方的なメッセージだけになってるね。連絡をくれ、とか、何かあったの、みたいな。でも、それに対する岩岡さんの反応は一切ない」
「そうなんだ…… なんか切ないね」声を落として、未都が言う。
「そうだね。他の人からも幾つかメッセージが来てるけど、頻繁にやりとりしてたのは彼女だけらしい」
慶太はメッセージ・アプリを閉じ、電話のアプリを開いた。「電話の着信も、奈緒さんからのがほとんどだ」
そこで、留守番電話の画面に切り替え、じっと見入った。「留守録もたくさんある。とりあえず聞こうか」
他の客に聞かれぬようボリュームを落として、古いものから留守録を再生した。
”ねー、どうしたの? 今日、連絡くれるって言ったよね? また連絡してね。よろしく”
早瀬奈緒のものらしい、少し喉に絡んだハスキーな声がスピーカーから流れ出た。
”連絡まだ? どうしちゃったのよー。あれから三日だよ”
声はかなり不機嫌そうだが、心配そうでもあった。
”ねえ、どうしたの? 固定電話にも電話してみたけど、誰も出ないんだよね…… ご両親、まだ旅行中なんだね”
”もしかして、家の中で倒れてる?”
「肉声って生々しい。ちょっと怖いな」寒気を覚えた、というように自分の腕を擦りながら、未都が言った。
慶太は画面を見下ろしながら、考え深げに口を開いた。
「奈緒さんは初めのうちは苛立ってたけど、途中から本気で心配してるみたいだね」
「そうだね。気持ちはわかるよ。相手の状況がわからなくて、気が気でなかったんだと思う。結局、電話の応答はなかったわけでしょ」
「それが、違うんだ」顔を上げながら、慶太は言った。「今、気がついたんだけど、最後の留守録には折り返しの電話をした履歴がある」
「え、そうなの?」
「うん。その折り返しの電話は――」通話履歴の画面を確認し、「五月二六日にかけられてる。この日まで、岩岡さんは無事だった、ってことだね」その時の通話時間は、約三分。二人の間に何らかの会話があったということだ。
「じゃあ、ほんとに、ただ連絡しそびれてた、ってだけなのかな?」未都が考えあぐねつつ言う。「それとも、何か連絡できない事情があった?」
慶太も眉をひそめて考え込んだ。うっかりで、これほど長い間連絡できなかった、というのは不自然だろう。
「どういう事情かわからないけど、何かあったんだろうな。奈緒さんが心配してたように、病気で倒れてたのかもしれないし」
「うん、そうだね。――ねえ、それと、気になってることがあるんだけど」
何? と尋ねると、未都は口ごもりながら話し出した。
「あのさ、これまで足取りを追ってきた人たちって、大抵、本人や周囲の人たちが行方不明や事故死、それに殺人―― に見舞われてたじゃない?」
殺人、という言葉を、彼女はこわごわと口にした。
「うん。そう、だね」
鞠川の周囲に失踪者はいないが、元妻は姿を晦ませているし、元妻の同居人は大量の血痕を残していなくなっている。そして、元妻の妹に至っては、本人も、その恋人も、数人の同僚までが姿を消し、同僚の一人は死亡が確認されている。
「でも、岩岡さんの周囲の人でいなくなったのは、奈緒さんだけ。でしょ?」未都の目が眼鏡越しにこちらの目を覗き込む。「一緒に住んでたご両親も、無事なんだよ。このパターンは初めてじゃない?」
慶太は押し黙って考えた。そうかもしれないが―― 「岩岡さんのご両親は、ずっと旅行してたから難を逃れただけかもしれない。それに、周囲の人は無事だと言い切れるほど、彼のことは調べてないし」
その反論をもっともだと感じたのか、未都はしかめ面になった。「そっか」
「でも、取っ掛かりとしてはいいと思う。とりあえず、無事を確かめる意味でも、岩岡さんが家庭教師をしてたという生徒の家に連絡を入れてみよう」
慶太はそう言うと、自分自身のスマートフォンを取り出した。
電話に出たのは、御崎ハル本人だった。
簡単な自己紹介をした慶太に、彼女は消え入りそうな声で、そうですか、と応えた。――それで、探偵さんがどういうご用ですか。
三十分後、慶太たちは、岩岡家からさほど離れていない場所にある御崎ハルの自宅の前に立っていた。
うわぁ、とその家を見上げた未都が声を漏らした。「古めかしい家だね」
古めかしい。確かに、そう形容するのが相応しい。他には、時代がかった、などというのも似つかわしいだろう。
敷地面積はそれほど広くなさそうだが、塀越しに屋根などを見る限りでは、かなり格式の高い日本家屋といったところのようだ。建物は年季が入っているが、ただ古いのではなく、重厚で、歴史ある名家なのでは、と想像させる。
「見て。あれ、蔵じゃないかな」塀の向こうに見える建物の一部を指さして、未都が言った。「凄いね。本物だよ」
インターホンを鳴らすと、なぜか返事の代わりに玄関が開く音がし、足音がして、誰かが門前に来たのがわかった。
慶太はやや緊張して、その人物が門を開けるのを待っていた。これだけの、お屋敷、と呼べなくもない家を訪問するのは初めてなので、勝手がまるでわからない。
てっきり、お手伝いさんか誰かかと思ったら、門を開けてくれたのは御崎ハル本人らしき少女だった。
「探偵さん?」
どこか掴みどころのない、無感動な声で、少女は聞いた。
「あ、はい。そうです」
「こんにちは」そう告げて、門扉を大きく押し開ける。
慶太と未都は促されるまま、門の内側に足を踏み入れた。
こぢんまりとしているが、古式床しい日本庭園が目の前に広がっている。敷石を挟んで綺麗に刈り込まれた低木が並び、その先にどっしりと母屋が聳えている。左手に立ち並ぶ木々の向こうには、例の蔵があるようだ。
いつの間にか、先に立って母屋へと歩き出していた少女が、足を止めて振り向いた。「どうぞ、こちらへ」
慶太は離れたところから、少し念入りに彼女を観察した。――小さな顔。小柄な体。白いセーターに、なぜか格子柄の袖のない割烹着を着ている。隠れてよく見えないが、割烹着の下にはスカートを履いているようだ。こちらに向けられた顔は小づくりで整っていたが、あまり表情豊かとは言えなかった。目も、口元もどこか虚ろで、眉の上で真一文字に切った前髪とあいまって、市松人形みたいに見える。
こちらが近づくと、彼女は再び歩き出し、そのまま玄関のドアを開けた。
「お邪魔します――」無理矢理、声を押し出したが、やや腰の引けた声音だったろう。
未都もまた、消え入りそうな声でそれに続いた。
やがて、通されたのは、客間とおぼしい簡素な造りの部屋だった。畳敷きで、壁の一面に床の間があって、掛け軸がかけられていて―― といったところだ。
「お茶をお持ちします」
それがちゃんとした作法なのかどうか知らないが、部屋の入り口で膝をつき、軽く頭を下げてそう言うと、少女は姿を消した。
「ふわー、凄い家だねえ」二人きりになった途端、いかにも気の抜けた調子で未都が言った。
「うん。凄いけど――」と、慶太は言葉を選びながら続けた。「あまり豪華じゃないというか。お金持ちなら、もっとこう、そういう感じがすると思うんだけど」
自分の表現力の乏しさに情けなくなったが、一応、未都には伝わったらしい。
「わかるわかる。なんとなく、寂しいんだよね。何もない、というか」
何もない。それが最も的確に言い表した言葉かもしれない。玄関から客間に至る廊下の途中で、曲がり角の奥や障子の隙間にちらっと目を向けた限りでは、この家には自分たちと少女以外、人気というものがなく、取り込んだ洗濯物や散らかった生活用品、といったものもなく、そればかりか、ここに住んでいるはずの少女の身の回りの品さえ、まったく見当たらない―― のだった。
廊下も、この客間も、いや、家全体が、どことなく荒れている。古い、というだけではなく、何年も放置されてきたように色褪せ、薄汚れてしまっている。まるで、長らく人の住んでいなかった空き家のような雰囲気を漂わせているのだ。
口にはしなかったが、慶太はこう考えていた。――まるで、どこかの世捨て人が暮らす閑居に迷い込んだみたいだな、と。
しばらくして戻って来た少女が座卓に湯飲みを並べ終えると、慶太は尋ねた。
「あの、あなたがハルさん、ですよね? 他にご家族は?」
少女は盆を卓の上に置き、両手を膝の上に並べてから答えた。「今はいません」
それきり、会話が途切れたのに気づき、未都が口を開いた。
「こちらに、岩岡寛人さんが家庭教師をしに来ていたそうですけど、間違いないですか?」
「はい。間違いありません」気のせいだろうか、そう答えた時、御崎ハルの目に微かな感情の変化を示す光が宿った気がした。
「岩岡さんが行方不明なのは、知ってましたか?」未都が尋ねる。
質問役を彼女に任せ、慶太は大人しく口をつぐんでいることにした。
「いえ――」と、首を振る。やはり、感情が揺れ動いているようだ。
「でも、来なくなっておかしいなとは思ってたでしょう?」
「はい」小さな声で答え、「いつも来てくれる日に、来てくれなくて、変だな、って。そんなこと、これまでなかったので」
未都は頷くと、少女の顔を覗き込むようにした。「連絡はしてみました?」
「はい。でも、電話には出てくれませんでした」彼女は首を傾げた。「岩岡さん、どうしたんですか?」
未都が困ったようにこちらを見た。慶太はなるべく優しい口調で、話しかけた。「僕たちも彼のことを捜してるんです。それで、できたら、知ってることを話してもらえないかと思って」
少女は納得したように頷いた。「わかりました。何でも聞いてください」
次に質問を口にするまでの間、部屋には深い沈黙が落ちた。一切の音が吸い込まれていくような、あまり経験したことのない静けさだ。
どうしても湧き上がってくる不安を拭いながら、慶太は会話に意識を集中しようとした。――この家には、なぜこんなに人の気配がないのだろう?
「岩岡さんが最後に来たのはいつのことですか?」
「五月のいつか、だったと思います」ちょっと視線を泳がせながら、「日付までは覚えてませんけど」
「その頃、変わった様子などはありませんでしたか?」
御崎ハルは真剣な様子でしばらく考え込んでいたが、首を振った。「いいえ。なかったと思います」
「そうですか――」
落胆した慶太の代わりに、未都が質問した。「最後に会った日にどんな話をしたか、覚えてますか? ほら、勉強の合間に、ちょっとした雑談なんかをするでしょ?」
それを聞いた御崎ハルは、微かに表情を和らげた。
「そういうのでいいんですか? わたし――」
と、記憶を探る間を置いて、話しだした。「岩岡さんには色々、話を聞いてもらってたんです。岩岡さんはわたしからするとかなり年上だけど、凄く話しやすくて、勝手に友達だと思ってました。年上のお友達だ、って。それって凄く特別なことに思えたんですよね……」
わかるよ、と未都が低い声で相槌を打つ。
「岩岡さんも、気さくに色々話してくれました。自分も一人っ子で、ちょっと寂しい思いをしながら育ったこととか、気持ちを打ち明けてくれて、嬉しかった。岩岡さんが勉強ができるようになったのは、ご両親に振り向いてもらいたかったから、らしいです」
口をつぐみ、視線を落として、彼女はまた話しだした。
「最後に会った日には、たぶん、わたしのお母さんについて喋ったと思います。お母さん、ちょっと変わってて…… 普段は、明るいし、人とも普通に付き合うけど、たまに自分の殻に閉じこもっちゃうことがあって、そうなると言動がちょっとおかしくなるんです。前は、そういう心の病気を治す病院に通ってたんだけど、今は行かなくなってて。やっぱり、また行くように言ったほうがいいのかなぁ、って、そんな話をしました」
なるほど。御崎ハルと岩岡寛人は、プライベートなこと―― しかも、かなりデリケートなことにまで踏み込んで話していたらしい。
その、心の病気を抱えているという御崎ハルの母親は、今もこの家のどこかにいるのだろうか。慶太は思わず、耳鳴りがしそうなほどの辺りの静寂に聞き入った。母親は息をひそめ、身を縮こまらせて、自分の世界に浸っているのだろうか。
「岩岡さん、どこへ行ったんでしょう」と、少女がぽつりと呟いた。「友達だと思って、色んな相談をしてしまったけど、わたしの勝手な思い込みでしかなかったんでしょうか。だって、そうじゃなければ、何も言わずいなくなるなんておかしいと思うし」
未都が、慌ててそれを取りなそうとした。「そんなことないよ。きっと、岩岡さんもあなたのことを大事に思ってたはず。何も言わずいなくなったのには、何か事情があるんだよ」
「そうでしょうか」少女は伏せていた目を上げた。
その時、慶太は御崎ハルの目の奥で、ちろっ、と何かが燃えるのを見た気がした。ぞくり、と得体の知れない悪寒が体内を駆け抜ける。
未都は気づかなかったのか、平然と質問を続けている。
「ええ、そうだと思います。実際、岩岡さんと親しい人の中には、同じように行方不明になってしまった人もいるし。だから、聞かせてほしいの。身の周りに、突然いなくなった人はいませんか?」
御崎ハルは、驚きも怖がりもせずにその問いを受け止めた。大きく見開かれた彼女の目は、ガラス玉のように何の感情も浮かべず、じっと未都に据えられている。彼女はやがて、唇を動かした。
「……さん」
「え?」未都が聞き返す。
少女は今度ははっきりとこう答えた。「お母さん。いなくなったの」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます