第6話
早瀬奈緒 ”お疲れ様です。来月三日から五日、お休みもらいます。よろしくお願いします”
早瀬奈緒 ”お疲れ様です。一昨日、お休みくださいという書き込みしたんですけど、取り消します。すみません”
峰岸香 ”あ、奈緒ちゃん。取り消しってどういうこと? 三日から五日、やっぱり出勤できる、でいいのかな?”
早瀬奈緒 ”あ、はい! すみません、言葉が足りなくて。そういうことです”
峰岸香 ”OKです!”
早瀬奈緒 ”いやー、旅行に行く予定だったんですけどね……”
峰岸香 ”あ、そうなの? それはお気の毒。で、どこへ行く予定だったの?”
早瀬奈緒 ”沖縄ですよ! 彼氏が大学生なんだけど、バイト頑張ったから旅行奢る、って言われて、喜んでたのに。何なんすかねー”
峰岸香 ”あー。てことは、彼氏の都合でキャンセルされたんだ?”
早瀬奈緒 ”いや、それよりもっと悪いかもしれないです”
峰岸香 ”悪い、って?”
早瀬奈緒 ”よくないことに巻き込まれた、というか”
早瀬奈緒 ”あ、また今度話します! その時詳しく説明しますね! それじゃ、失礼します!”
プリントアウトされたチャット・ルームのログを読み終えると、慶太は言った。
「これが早瀬さんの最後の書き込みですか?」
林田はせわしなく頷いた。「そうです。この連絡の二日後に、バックレ―― じゃない、店に現れなくなったんです」
昨日と同じファッション・ビルの喫茶店。今日の林田は襟を立てた白シャツに、ジーンズ、革の帽子を斜めに被っている。夜更かしでもしたのか、顔色が悪く、目をしょぼつかせていた。
「会話の相手の峰岸さんというのは?」
「ああ、彼女もバイトなんですが、まとめ役みたいなことを引き受けてくれてまして」
「その後、早瀬さんとどんな話をしたか、その方から聞きましたか?」
「いやいや。そんなことしたら、セクハラだなんだと言われちゃいますよ。余計な干渉はしないに限ります」顔をしかめて、林田は言った。「それに、わたしとしては、ちゃんと出勤してくれさえすれば、そのほかのことに文句はないですしね」
「早瀬さんはその点、勤務態度はどうだったんですか?」
「比較的、真面目だったと思いますよ。お客さんとのトラブルもあまりなかったし。普通に、やることはきちんとやってくれてた、って印象ですね」
早瀬奈緒は、気まぐれで仕事を辞めるようなタイプではなかったようだ。ましてや、何もかも投げ出してどこかへいなくなる、などという極端な行動に走る人間でもなかったように思える。だからこそ、姉の麻耶も取り乱して店に怒鳴り込んだりしたのだろう。
隣で聞いていた未都が、おずおずと口を開いた。「奈緒さん、彼氏が何かよくないことに巻き込まれた、って書いてましたけど、その、よくないこと、って何か心当たりありますか?」
予想したとおり、林田は、いやあ、と苦笑いした。
「まったく見当もつきませんね。ただ、彼氏の話は聞いたことがありますよ。大学生、というか、大学院生みたいです」
「名前はわかりますか?」
「いや、そこまでは。スタッフに聞いてもらえれば、わかるかもしれません」そこで、林田はなんとも苦しげな表情を浮かべ、首を振った。「ただ、彼女のことを知ってるスタッフがもうあまり残ってないんでね。話を聞けるかどうか、わかりませんが」
「どういう意味です? 峰岸さんはもうお店にいないんですか?」眉を寄せ、慶太は尋ねた。
林田は苦悶するような顔つきのまま、肩をすくめた。
「ええ。峰岸ももう、店にいないんですよ。スタッフの総入れ替えがありましてね。――いや」と、慌てて首を振り、「好き好んで入れ替えたわけじゃありません。いなくなったんですよ、忽然と」
慶太はぽかんとした。未都も、え? と小声で呟いている。
「あの、いなくなった――?」
「ええ。ある日、突然、ね。理由はわかりませんが、一斉に辞めていったんです」
慶太は言葉を失った。一斉に辞めた?
「いや、わかりませんよ。辞めたのか、行方不明になったのかは。でも、まさか、全員行方を晦ました、なんてことはないでしょ?」
苦り切った表情のまま、林田は口元に笑みを浮かべた。「だから、きっと示し合わせていなくなったんだろう、と思ったわけです。一斉退職、ってやつですよ。何かの意思表明、なのかな。よくわかりませんが。何なんですかね。うちは給料もちゃんと払ってたし、スケジュールの変更にも寛大だったんですけど」
彼はせかせかと煙草を取り出し、火をつけた。煙を吸うときに窪んだ頬が、妙に骸骨めいて見えた。
「スタッフの方々が、一度に何人も辞めていった、ということですか?」
信じられないという思いで、慶太は確認した。昨日、林田が言いかけたのはこのことだったのか。
「辞めた、なんて体のいいものじゃないですよ。ただ単に、来なくなったんです」
「一体何人、来なくなったんです?」
「三人です。早瀬さんも入れれば、四人。バイトは五人までしか雇わない、っていうのに」吐き捨てるような調子で言う。「まあ、同時、ってわけじゃありませんけどね。最初が早瀬さん。で、次々と三、四日のうちにいなくなった、って感じですかね」
「り、理由は?」未都が咳き込みながら尋ねた。
「理由? そんなものわかりません。悪ふざけかもしれないのに、そんなことわざわざ考えたりしないでしょう」
「でも――」
「もちろん、できることはやりましたよ。親元に連絡、くらいは。でも、それ以上のことはできないし、やる義務もないじゃないですか」
こっちは言わば被害者なんだ、と言いたげな口ぶりだった。
ちらっと横を見ると、未都は吐き気をもよおしたような顔で肩をすぼめていた。
慶太は林田に向き直った。「その中に、峰岸さんもいたんですか?」
「そう。彼女、よくやってくれてたのに。ほんと、訳がわかりませんよ」
やれやれ、と彼はため息をついた。
訳がわからないのはこちらも同じだったが、とにかく、早瀬奈緒を知る、たった一人のスタッフ―― ただ一人、店に残ったというスタッフに話を聞くべく、林田に彼女を呼んでもらうことになった。
五分後、林田と入れ替わりに栗原というスタッフがテーブルに着いた。早瀬奈緒を含む、同僚の相次ぐ失踪について尋ねたが、彼女も理由などはわからないと答えた。ただ、早瀬奈緒の恋人が岩岡という名だということと、その恋人が通う大学の名は教えてくれた。
「すみません。わたし、その頃忙しくて、店がどういう状況だったかよく知らないんです」と、栗原は頭を下げた。「早瀬さんとも、一回ご飯を食べに行ったことがあるくらいで、そんなに親しくなかったし。でも、ほかのみんなとは―― それなりに仲良くしてる人もいたので、かなりショックでした」
「友達付き合いというか、個人的な話をする間柄の人もいたんですか?」
「あ、いえ、それほどじゃ」と、また頭を下げる。「店以外の場所で連絡を取り合ったりだとか、そんなことはしてなかったです。ただ、一言あってもよかったんじゃないかな、と思って。今、みんながどうしてるのかも、全然知らないんです」
栗原が立ち去った後も、慶太たちはしばし、呆けたようにテーブルに向かっていた。
一斉に、スタッフがいなくなった―― そう告げた時の林田の投げやりとも言える態度が、脳裏にこびりついている。今話した栗原もまた、心配というより、もうどうでもいい、といった様子を垣間見せていた。彼らはどちらも、この件を、終わったこと、と捉えているようだ。
「なんだか怖い」未都がぽつりと言った。
慶太は頷いた。――怖い、というのが何人もの人がいなくなった、この状況に対してなのか、それとも林田の無関心に対してなのか、あるいはスタッフの入れ替わりを平然と受け止める店や、店を取り巻く世の中に対してなのかは、わからなかったが。たぶん、未都と自分が感じているものは同じだろう、という気がした。
昨日の帰り際に交わした会話のせいか、今日会ったときから、未都との間には奇妙な、ぎこちない空気が流れていた。今はもう、その感覚は薄れているが、やはり、未都にはこちらに対して何か思うところがあるんじゃないか、という考えは強くなっていた。
「一体、何が起きてるんだろう。いなくなった人は、どこへ行っちゃったの?」
未都の声は、微かに震えていた。
答える代わりに、慶太はメモを取り出した。先ほど、林田から聞き出した、早瀬奈緒と同時期に店に来なくなったスタッフの名前と連絡先が書き留められている。林田は最初、教えるのを渋ったのだが、重ねて頼むと、不意に態度を和らげ、まあいっか、と口頭でリストを教えてくれた。今更、個人情報がどうとか言ってもね、と呟きながら。
「どうするの?」
未都に聞かれ、慶太はスマートフォンを取り出しつつ返事をした。「名前で検索してみようと思って。何かわかるかもしれないだろ」
そこで、未都と手分けして、スタッフの名前を検索にかけていった。念の為、早瀬奈緒の名も含めることにした。
ほとんど空振りに終わったが、一人だけ、検索に引っ掛かった名があった。井本さえり、というスタッフだ。
引っ掛かったのは、ローカル・ニュース・サイトの記事だった。
”昨日、午後六時過ぎ、〇〇のマンションで二四歳の女性が階段から落下し死亡する事故がありました。亡くなったのは無職の井本さえりさん。警察によると、マンションの住人が、同時刻に助けを呼ぶ悲鳴を聞いたとのことで、事件と事故、両面での捜査が進められています”
「助けを呼ぶ悲鳴、か」慶太は呟いた。
早瀬奈緒を含め、他の三人の名はそうした報道には乗っていないようだ。
「ごめん、慶太。わたしちょっと気分が悪い」いきなりそう言うと、未都は立ち上がって、店のトイレのほうへ駆けていった。
しばらくして戻って来た彼女は、酷い顔色をしていた。
「大丈夫?」
「うん、平気」無理矢理、見せた笑顔が痛々しい。
どうしよう、とおたおたしていると、隣に座った未都が思い詰めた声で言った。
「平気だけど―― 調査はもう、切り上げたほうがいいと思う。事務所に帰ろう。帰って、茂野さんに報告しよう。だってこんなの、普通じゃないよ。何か異常だよ」
そして、慶太の片手を握り、がたがたと震えだした。
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