第5話
翌日、待ち合わせに遅れた未都を待ちながら、慶太は大学のフリー・スペースで茂野と電話した。
茂野は開口一番、警察内部の人間から内緒で情報を幾つか貰った、と告げた。
「内緒で、って、警察も意外と口が軽いんですね」
「そうみたいね。蓮野の知人だから、わたしはあまりよく知らないんだけど」と、茂野の返事は相変わらずクールだ。「その人物によると、例の部屋に残ってた大量の血痕の解析が済んだらしい。血痕は、元妻の同居人のものだったそう」
「同居人? 元妻の血はまったくなかった、ってことですか?」
「それについては確実じゃないみたい。何しろ、血飛沫は部屋じゅうに飛んでたらしいから。それを残らず解析するのは難しいでしょう。何ヵ所かから採取した血を調べた結果、ってことらしい」
「でも、その可能性が高いわけですね」この事件の続報は、今朝のテレビのニュースでも取り上げられていた。世間の関心が集まりつつあるようなので、警察としてもいい加減な捜査はしていないだろう。「そうすると、どういうことになるんでしょう? 元妻は無事、ってことですか?」
「安易にその結論には飛び付けないけど、その可能性はあると思う」
昨日の時点で、犯人として疑わしいと考えていた鞠川は、実は元妻の身を案じているだけだった、という考えが浮上した以上、今度は、ひょっとすると犯人は早瀬麻耶では、と思えてくる。だが、茂野が言う通り、安易に結論に飛び付くのは危険だろう。
「それとね」なぜかためらいながら、茂野は続けた。「これはわざわざ言うべきか迷ったんだけど、その警察関係者によると、現場で見つかったのは血痕だけじゃなかったらしいの。――肉片や、骨の一部も見つかったんですって」
慶太はぞくっとするのを覚えた。「思ったより残虐な事件、ってことですか?」
「そういうこと。血液量にしても、一人分だとするとかなり量が多かったらしいし、相当残忍なやり口だったらしい」
「犯人は遺体を処分するために、その部屋で解体して肉片や骨を残したんでしょうか?」
「おそらく、そうでしょう。でも、だとしても普通は浴室でやるでしょうから、部屋じゅうに血を撒き散らすなんて、異常な気がする」
異常、か。確かに。慶太は温かいはずのカップを持つ手が冷え切っていくのを感じた。
「何者なんでしょう」
「わからない。想像もつかない、正直言って。――とにかく、昨日も言ったように、この事件にはこれ以上関わらないで。別の方面で進展があったから、そっちを調べてほしいの」
幾分ほっとして、慶太は尋ねた。「何です?」
「昨日、あれから元妻のSNSでの書き込みを調べてたら、わかったことがあって。彼女、仲のいい妹がいるらしくて、その妹と撮ってる写真が何枚もネットに上がってるの。ところが、数カ月から、そういった投稿がぷっつりと途絶えてて」
「仲違いした、ってことですか?」
「いいえ、そうじゃないみたい。その頃の元妻の投稿を見てみると、妹のことを心配してる内容が綴られてる。具体的なことは書かれてないけど、その様子からして、妹の身に何かあったんじゃないかと思う」
妹の身に何かが―― 「再び、トラブルの予感ですね」
「そうね。一連の出来事ではあると思う。ただ、それが鞠川と関係があるかは不明だけど。念のため、調べてみてほしい」
「わかりました」
茂野は早瀬麻耶の妹についての必要な情報も揃えてくれていた。依頼人の鞠川祥子から情報を聞き出し、早瀬の実家に連絡をつけたらしい。
メモを開いて、茂野の話を書き留めているところへ、遅れ馳せながら未都がやって来た。茂野との電話を終えると、慶太は彼女に向き直り、今の会話の内容を伝えた。
「それじゃ、まずはその妹のところへ行くの?」
「そうなるね」
ひとまず、連絡を取ってみよう。そう思い電話をしてみたが、案の定というべきか、応答はない。
「妹さん、何て名前?」
早瀬奈緒だ、と答えると、未都はスマートフォンで手早く何か調べ始めた。やがて、手の動きを止めると、「これが、妹さんについての投稿だね」
どれ、とスマートフォンの画面を覗くと、そこには早瀬麻耶のSNSの書き込みがあった。日付は、四カ月以上前だ。
”今日もナオから連絡がない。返事をくれ、って何度もメッセージ残してるのに。何があったんだろ…… 心配だよ”
”今日も妹から連絡なし。心配でイライラする。彼氏と何かあったのかな……”
”彼氏とどっかへ雲隠れしてる? 旅行? ならいいんだけど”
”もう、アタマくる。ナオのやつ、何してんのよ”
「不穏な内容だね」慶太は呟くように感想を述べた。「妹のアカウントも調べられる?」
早瀬麻耶と妹がSNS上でやりとりをしていたなら、そこから辿って、妹の投稿も見つけられるだろう。
「ちょっと待って」しばらくして、未都は再び慶太にスマートフォンを差し出した。「これじゃない?」
”このところカレシと会えてない。お互い忙しくて、今週は無理みたい。マジ疲れる”
”ネイルをキメてきた! ちょっと気合い入れて高いのにしちゃった。週末、会えるかな?”
投稿はそこで途切れている。スクロールして、それ以前の投稿を見てみると、姉妹で並んで撮ったとおぼしい写真が見つかった。顔は上半分を隠しているが、下半分は剝き出しで、二人とも屈託ない笑みを浮かべているのがわかる。
「ねえ」と、薄ら寒い顔つきで未都が言った。「もしかして、この妹も行方不明なんじゃない?」
慶太も同じことを考えていたが、それを口に出すのが少し怖くて、黙っていた。
「これ以降、書き込みはまったくないの。四カ月以上。姉のほうも異常を感じてるみたいだし、どう考えても変だよね」
慶太は頷いた。「二人の両親と話した茂野さんによると、元々二人とも実家に頻繁に連絡を入れないタイプらしい。そのせいで、何が起こっているか両親にもまったくわからないそうだ」
「連鎖してるよね。行方不明が」自分の肩を抱くようにしながら、未都は言う。「鬼ごっこみたいじゃない? 鬼にタッチされたら、鬼になる。この場合は行方不明だけど」
「それじゃ順序がおかしいよ。蓮野さんが鞠川を追い始めたのは、鞠川が行方不明になってからだろ。行方不明者は、タッチなんてできないし」
そりゃそうか、と未都はぼやいた。「で、どうする? 妹さんの家に行く?」
慶太は首を振った。
「妹のマンションの部屋は、もう解約されてるよ。だから、彼女の知人に会いに行く」
駅前の小さなファッション・ビルにある喫茶店に入ると、二人しかいない客のうち一人が腰を上げた。
慶太はこちらを見ているその男のほうへ近づいた。「林田さんですか?」
「そうです。探偵さん、だそうで?」
「はい、まあ」
林田は慶太と未都を物言いたげに見比べながら、向かいの席を示した。想像とはだいぶ違う、とでも思ったのだろう。
お辞儀をして椅子に座ると、慶太は言った。「名刺は持ち合わせがなくて。広江慶太といいます。こちらは助手の日比野です」
はあ、なるほど、と林田は応えた。アパレル・ショップの店長だという彼は、白いシャツにウールのベスト、落ち着いた色味のジーンズを身に着けていた。年は三十歳半ばだろう。童顔を隠すためか、顎に短い髭をたくわえている。
「あの、早瀬さんについて聞きたい、ということでしたよね?」
少し声を張り上げ気味に、林田は尋ねた。「彼女のことを調べてるんですか?」
細かい説明は省きたかったので、慶太は曖昧に頷いた。「ええ、まあ」
「彼女、何かその、トラブルに巻き込まれたんですか?」
「まだ、はっきりとはわかりません」疑問を覚えて、慶太は尋ねた。「早瀬奈緒さんが行方不明だということは、ご存じでしたか?」
いやあ、と林田は頭を掻いた。「わたしも、事態をよく飲み込んでいなくて。早瀬さんが来なくなった後、しばらくしてお姉さんがうちにいらしたんですよ。気の強い方でね、色々まくしたてて帰っていかれました。その後、ご両親からも電話があって話したんですが―― 生憎、こちらは聞かれたことにまったく答えられなくて」
慶太は未都と視線を合わせた。随分、混乱している様子だ。
「順を追って話していただけますか? 異常に気づかれたのはいつです?」
異常って、と口ごもりながらも、林田は答えた。「六月の中旬ですかね。彼女が無断欠勤して。お恥ずかしい話ですが、そのことをあまり深刻には受け取らなかったんです。うちは従業員の入れ替わりが激しいし、彼女はアルバイトでしたから。無断欠勤したからといって、心配して連絡したりはしなかった。数日後、やっと電話してみたんですが、応答がなく、その後折り返しの電話もなかったので、辞めたんだろう、と勝手に考えてしまって」
随分あっさりしてるな、と呆れたが、人の出入りの多い職場はそういうものなのかもしれない。
「前触れもなく、いきなり来なくなったんですか?」
「うん、まあ、そうですね。異常、ねえ―― 感じなかったな、そんなもの」林田は顎を撫でながら、考え込んだ。「最初は、示し合わせて悪戯でもしてるのかと思ったんですよね」
「悪戯?」
林田はちらっと目を上げて、首を振った。「ああ、いえ、何でもありません」
どういうことだろう、と気になって追及しようとした時、林田が口を開いた。
「そういえば、彼女、悩みがあるとかこぼしてました」
「悩み、ですか?」
「ええ。ただ、直接聞いたわけじゃないんで。――スマホ・アプリ内にスタッフ用のチャット・ルームを作ってるんです。業務連絡以外も書き込んでいいよ、と言ってあるんで、たまに他愛ない書き込みがあるんですよ。そこで彼女が、付き合ってる相手について何か書いてたような気がします」
「内容はわかりますか?」
「ええっと、調べればわかると思うんですが」そう言いながら、林田はスマートフォンを手に取ったが、しばらく操作して肩をすくめた。「もう、ログが残ってませんね。ま、随分前だからな」
慶太は首を振って見せた。
「数カ月前のログなら、クラウドに残ってる可能性があります。もしよければ、こちらでお預かりして調べさせていただけないでしょうか」
「預ける? じょ、冗談じゃない」林田は慌てふためいた。「クラウドね。こっちでなんとかしますよ。今は無理だけど、後日、また連絡します」
よほど見られたくないものでもあるのか、滑稽なほど取り乱してそう言うと、彼はそそくさとスマートフォンをポケットにしまった。
「なんか、どうでもいいみたいだったね、奈緒さんのこと」
林田と別れ、ファッション・ビルを後にすると、未都が呟くように言った。
「いちいち構ってられない、って感じはしたな。バイトなんて使い捨てなんだろうね、きっと」
慶太の口調に何かを感じ取ったのか、未都はさらに食い下がった。「それが当たり前なのかな? それが最近の風潮なの?」
未都の、やりきれない、と言いたげな様子に、慶太は思わず振り返った。
「どうしたの? 随分、感情的だね」
「ううん、何でもない」項垂れて、未都は言った。「ただ、そういうものだから、ってだけで、受け入れるのは嫌だなぁ、と思って」
彼女が何を言おうとしているのかはよくわからなかったが、それ以上話を続ける雰囲気ではなかったので、慶太は何も聞かなかった。
この日は二人とも用事があったので、調査はここまでで切り上げることにした。駅で未都を見送ると、慶太は別の電車に乗り込み、蓮野の自宅へ向かった。
蓮野がいなくなって以来、慶太は定期的に彼の家に寄り、郵便物や留守番電話の録音をチェックしていた。何か重要な知らせがあるかもしれないし、いつ、どんな形で蓮野から連絡があるかわからない、と考えたからだ。これまでのところ収穫はなく、あるのは無人の部屋に迎えられた虚しさだけだったが。
N市の南に位置する分譲マンションの一室が、蓮野の自宅だ。N市に海はないが、ここの高層階からは窓越しに湾が望める。それが、ここを買うことに決めた一番の理由だ、と以前、蓮野が笑いながら話していた。
鍵を使って、ドアを開ける。ずっと閉め切っていたせいか、ドアは軋み音を上げながら開く。いつものように空っぽの部屋が待っていると思っていた慶太は、違和感を感じて視線を巡らせた。
玄関に靴が置かれている。
蓮野のものではない。女性ものの靴だ。
息を飲んでいると、奥から足音がした。「あら」
なんだ、と慶太は肩の力を抜いた。茂野だ。
「どうしたの、広江君」
「こっちのセリフですよ」靴を脱ぎながら、慶太は言った。「茂野さんこそ、何してるんです?」
そう聞かれて、茂野はバツの悪そうな表情を浮かべた。
「何って、時々来てるの。仕事関係の郵便が来てるかもしれないから」
それだけのために、わざわざ? それに、それでは茂野がここの合鍵を持っていることの説明にはならない。そうは考えたが、慶太は何も聞く気になれなかった。
「僕も同じです。一応、親戚だし、留守を預からないと、と思って」
「そっか。そうよね」
バツが悪そうな顔のまま、茂野は身を翻して奥へ戻った。「入って。わたしが、入って、と言うのも何だけど」
そう言われて、居間へ進むと、カーテンが開いていて、壁一面の窓が露わになっていた。
「ここの眺めは、ほんと最高よね」そう言いながら、茂野はキッチンへ消えていく。
慶太はリュックを降ろし、ソファの端に腰を下ろして、窓の外を眺めた。
港湾は、夕暮れの色に染められている。
それは、赤ではなく、胸を締め付けるような昏い色だった。どこか、安ホテルやキャバクラの並ぶ、N市の裏通りを思い起こさせる色だ。あそこでは、夕日すら薄汚れて見える。
ふと、未都のさっきの言葉が頭をよぎった。――それが当たり前なの? と彼女は聞いたのだ。だからって、受け入れるのは嫌だ、とも言っていた。
あの時は、最近の風潮のことを言っているのかと思ったが、もしかすると、そうじゃなかったのかもしれない。そう考えて、慶太はドキリとした。彼女は、俺のことを言ってたんだろうか。
この仕事を始めてから、少しずつ変わっていった自分に、彼女は気づいていたんだろうか。純朴だった幼馴染みが、妙なバイトを通して毒されつつある―― そんなふうに感じていたのかもしれない。
確かに、普通のバイトしかしてこなかった自分が、繁華街に潜入したり、不倫カップルを尾行したりしていれば、そりゃ少なからず影響を受けるだろう。けど、それは成長過程にある人間としては当たり前の変化じゃないのか。もちろん、自分の考えすぎかもしれないが、本当に未都がそのことを心配しているのだとしたら、彼女のほうこそ考えすぎと言える。
やや混乱して、慶太は頭を掻き毟った。未都のことで、自分がこんなに心を乱されることになるとは、考えたこともなかった。
「ごめん、紅茶しかないんだけど」
背後から声がして、慶太は振り返った。いつの間にかそばに来ていた茂野が、テーブルに湯気の立つカップを置くところだった。
「どうも」慶太は頭を下げた。それから思い出して、「あ、郵便、何か来てましたか? 留守録とか――」
「ダイレクト・メールだけ」向かいのソファに腰を下ろしながら、茂野は短く答えた。
そうですか、と慶太は声を落とした。それから、意を決して尋ねた。「あの、いつから――」
茂野は苦笑いした。「いつから、合鍵を持ってたか?」
「は、はあ」
「蓮野がここを買った時から。何て言うか、腐れ縁なのよね、わたしたち」
何と応えていいかわからず、慶太は黙っていた。しかし、茂野はこちらの反応など気にしていなかったようだ。
窓の外の景色を見つめながら、彼女は続けた。「ここで一緒に暮らしたこともある。かなり前に出てったけど。色々あったの」
「そうなんですね」
「ここで見る夕日ってロマンチックだよね、って五万回くらい言ったなぁ」冗談めかした口調で言う。「まあ、結局、それ以上どうにもならなかったわけだけど。蓮野はずっと、わたしを事務所のパートナーにしたがってた。パートナー、ってのは共同経営者のことね。でも、何度その話をされても、わたしは断ってたの。だって、この関係が長続きするとはどうしても思えなかったから」
彼女は微笑を浮かべてこちらを見た。
「実際は、思ったより長く、ずるずる続いたわけだけど。そして、わたしは今、このまま蓮野が戻らなかったら、結局わたしが事務所を引き継ぐことになるのかなぁ、と頭の片隅で考えている」
茂野の顔がゆっくりと真顔に戻っていくのを、慶太は黙って、ただ見つめた。
「だったら、変な意地なんか張らずに、パートナーになっておけばよかったよね、って話」そう締め括り、肩をすくめた。
いや、そんなことはない。きっと、彼は帰ってきますよ―― 喉までせり上がったその言葉を、慶太は飲み込んだ。
茂野もまた、押し黙り、窓の外を眺め続けていた。その横顔は、相変わらず卵のようにつるりとして、しかし拭い切れない疲労の翳に覆われていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます