第4話
「すると、対象は離婚後も、奥さんに未練たらたらで、なんとかよりを戻そうとしてた、ってわけ?」
マンションを出て、次の目的地へ向かう途中で、未都がそう言った。
たぶんね、と慶太はそれに答える。「対象はストーカー気質だって話もあるし。ただ、実際によりを戻そうと元妻に対して何かしてたかどうかは、まだわからないけど」
その辺りのことは、PCの解析ではっきりするかもしれない。
「となると、次に向かうべきなのは――」
「ご明察。連絡はつかないけど、元妻に会いに行ってみようと思う」
早瀬麻耶の住所は、手帳に書き留められていた。鞠川祥子によると、彼女には同居人がいるらしい。男ですよ、とちょっと嫌悪を露わにして、鞠川祥子は言っていた。新しい男と暮らしてるんです。
どうやってそれを知ったのか、と尋ねると、肩をすくめてこう答えた。息子から聞いた、と。
「やっぱり、対象って変よね」
眼鏡をかけ直しながら、未都が言う。
「別れた奥さんの雑誌やスリッパをそのままにしてるなんてね。あの分じゃ、他の持ち物も残していそうだ」
慶太が言うと、未都は首を振った。「それもそうだけど、わたしが言ってるのは別のこと。外面と本当の顔があまりにも違うじゃない? 母親でさえ、息子の本当の姿がわかってない気がしたの」
確かにそうかもしれない。慶太は顔をしかめながら考えた。
早瀬麻耶の住処は、比較的新しいアパートの二階の一室だった。車の交通量の少ない通りに面しており、住宅街ということもあって、普段なら閑静な佇まいというところだろう。
現状は、それどころではない有り様だった。アパートの前には数台のパトカーが停まり、まばらにではあるが野次馬の群れが建物を取り囲んでいる。彼らの視線を辿ると、そこには二階の一室のドアがあった。廊下の手すり越しに、開け放たれたドアと、そこを出入りする警官らしき人影が見える。
慶太と未都はぽかんと、人混みの後ろからアパートを見上げた。
「何が起きたんだろう」ようやく、慶太は呟いた。
未都が手近な野次馬に駆け寄り、何の騒ぎかと尋ねている。と、ポケットの中のスマートフォンが振動した。
茂野から電話だ。「はい、もしもし」
「あ、広江君。よかった、連絡がついた」
「こっちも連絡しようと思ってたんです。大変なんですよ――」
こちらの話を遮るように、茂野が言った。「知ってる。対象の元妻の件でしょ。わたしも今、ニュースで知ったの」
ニュース? 嫌な予感に、すうっと背筋が冷たくなった。
「どういうことです?」
「詳しいことはまだわからないけど、元妻は何らかの事件に巻き込まれたみたい。同居人ともども行方知れずで、部屋には血痕が残ってたんですって」
血痕。まさか。
「――殺人事件かもしれない、ってことですか?」
「最悪、そうね。ニュースによると、血痕はかなり大量だったらしいから」
慶太は思わずたじろいだ。なんてこった。
「これからどうしたらいいでしょう。まだ着いたばかりで、何も聞けてないんですが」
「そう。一旦、事務所に帰ってきて。警察に捕まって身分がバレたら、面倒なことになるから」
「わかりました」
電話を切ると、不安げな顔をした未都が戻ってくるのが見えた。「何だか、大変なことが起きたみたい。みんな、誰かが殺された、って言ってる」
慶太は頷いてみせた。「茂野さんと電話で話した。とりあえず、戻って来い、って」
事務所に戻る途中、ネットであれこれ調べたところによると、事件の発覚は昨日の夕方のことだったらしい。
早瀬麻耶の知人が部屋を訪ね、中がもぬけの殻であることを知った。それだけならまだよかったが、大量の血液とおぼしいものが部屋じゅうに残されていたため、大家に知らせ、大家から警察に通報がいった。
知人が部屋を訪ねた理由は、早瀬が仕事をすっぽかし続け、連絡も取れなかったためらしい。血は誰のものかまだわかっていないようだが、警察は早瀬か、その同居人の男性のものだと考えていると思われる。
ネット・ニュースを漁って、わかったのはそれだけだった。昨夕、発覚したばかりというから、まだそれほど捜査が進んでいないのだろう。
「ねえ、慶太。これって、わたしたちが追ってる件と関係あるのかな」やや青褪めた顔で、未都がそう口にした。
気持ちはわかるが、返事のしようがない。慶太は、わからない、と呟いた。
「余計なことを考えるのはよそう。とりあえず、事務所に戻って茂野さんと相談だ」
そう言うと、未都は、そうだね、と頷いた。二人とも、それきり押し黙って電車に揺られていた。
「わかりました」慶太の報告を聞き終えると、茂野は眉を寄せたまま言った。
事務所に戻り、未都ともども、茂野にことのあらましを説明し終えたところだ。あらましといっても、調査を始めたのは昨日からなので、報告することなど大してありはしない。だが、もしかすると鞠川はストーカーなのでは、と疑いを抱いていることは茂野にも伝わったようだ。
「それで、ひょっとしたら、鞠川誠二は少しおかしな人なんじゃないか、と考えてるのね」
「ええと、はい」ためらいながらも、慶太は肯定した。「もちろん想像に過ぎないし、だからどう、というわけじゃないんですけど」
「そうねえ。――だけど、そうして足取りを追っていった先で、ああいう事件が起きてたわけでしょう? 色々、想像してしまいますよね」
そう言うと、茂野は足を汲んで考え込むように黙った。
このところ過労続きなのだろう。何気ない仕草にも、濃い疲労が滲み出ている。出先から戻ったところなのか、ソファにはコートが投げ出されており、茂野のしどけなく、ぐったりした印象を強めていた。
「それにしても、色々と妙よね」
「何がです?」
「早瀬さんが事件に巻き込まれたとして、一体彼女はどこへ行ったんだろう? 彼女の同居人は?」
「それは、犯人が事件の隠蔽を目論んで、遺体を隠したからでは?」
初対面の挨拶もそこそこに、話に加わっていた未都が口を開いた。
茂野がそれに、首を振る。「そんなことしても、血痕が残っていたら同じじゃない? ――まあ、犯罪を犯すような人間が考えることなんて、わからないけど」
確かに、そう考えると、被害者とおぼしき二人が忽然と消えているのは妙だ。
「とにかく、早瀬さんの件にこれ以上、首を突っ込むのはやめましょう。まだ、どういう事件なのかもよくわからないし、リスクが高すぎる」
慶太はそれに、曖昧に頷いた。「了解」
「警察の捜査については、わたしのほうで心当たりに当たっておく」
警察内に知り合いでもいるのだろうか。茂野はそんなことを言った。
「それより、例の鞠川のPCのロック解除が済んだの。そこに置いてあるから、開いてみて」
えっ、と慶太は、茂野が顎で示した先へ視線を向けた。蓮野のデスクの上に、ノートPCらしきものが置かれている。
「見ていいんですか?」
「もちろん。パスワードは付箋に書いて貼ってあるから。わたしはその間、ちょっと休憩させてもらいます」そう言って、両腕を上げ、伸びをする。「時間、大丈夫?」
「あ、僕は平気です」
わたしも、と答える未都に、茂野が視線を送る。「日比野さん、だっけ。あまり無理しないでね」それじゃ、と言ってコートを拾い、事務所を出て行った。
ふぅ、と未都がため息をつく。
「茂野さん、格好いいね。デキる女探偵って感じ!」などと、無邪気な感想を述べている。
「大変そうだよな。いきなり全部の仕事を押し付けられちゃって」
「そうだね。……ねえ、茂野さんって独身だよね? 蓮野さんとどういう関係なのかなぁ」
思わぬ質問に、慶太はどきりとした。「え? 何の話だよ」
「オトナの恋愛事情の話だよ! 慶太にはちょっと早かったかもねえ」
おい、ふざけんな、と言ってみたが、未都はからかうように笑うだけだ。
「いや、だって、ちょっと気になるじゃない? わたしも、普段そんなに人様の事情に首を突っ込むほうじゃないけど。茂野さんも蓮野さんも、お互い独身で、長い付き合いだって話でしょ。それで、何もないのかなぁ、って。気になるじゃない?」
未都のお喋りを無視して、慶太はデスクの前に行き、さっさとノートPCの電源を入れた。サインイン画面が表示されたので、付箋に書かれたパスワードを入力する。
「蓮野さんのそういう話、聞いたことないけどな」
起動したPCのディスプレイに向かいながら、仕方なくそう言う。
「蓮野さんには会ったことないけど、茂野さんは素敵だし、あの様子からして、相当思い悩んでるんじゃないかな、って気がする」
言われてみれば、茂野のあの疲弊した様子は尋常ではないかもしれない。多忙な仕事に対処しながら、行方を晦ました蓮野の身を恋人として案じている、ということなのだろうか?
「で、どういうことを調べるの?」
「メールとネットの閲覧履歴。それとアカウント。アカウントがSNSと紐づいてた場合、SNSでどういうやりとりをしてたかがわかる」
未都は驚いた様子だった。「SNSってスマホでするもんじゃない? それなのにPCで色々わかっちゃうの?」
慶太はちらっと彼女を見た。「アカウントで紐づいてればね。それに、未都はスマホでしかSNSを使ってないかもしれないけど、PCで使ってる人も大勢いる」鞠川がそうしたSNSの使い方をしていたなら、閲覧履歴からダイレクトに彼のSNSに飛べるだろう。
へえ、と声を上げながら、未都はデスクに手を突いてディスプレイを覗き込んだ。
「そういえば、鞠川さんのスマホは見つかってないの?」
「うん。着の身着のまま、スマホだけ持っていなくなったらしい」
そういえば、蓮野の失踪時もそうだったな、という考えが、ふと頭をよぎった。しかし、直後にメール・ソフトが起動したので、その考えは棚上げになった。
鞠川のメール・ソフトは、几帳面にカスタマイズされており、頻繁にメールのやりとりをする相手には専用のフォルダを作り、自動的にその相手のメールが仕分けされるようになっていた。麻耶、という名のフォルダがあったので、見てみると、中には膨大な数のメールが保存されており、期間は五年以上に渡った。ちらと内容を覗いた限りでは、元妻と付き合い始めた当初からのメールを保存し続けているらしい。
未都にそのことを告げると、彼女は、怖い、と呟いた。「やっぱり、ちょっと病的じゃない?」
病的ではあるが、それだけで犯罪者だと決めつけるわけにはいかない。
メールの数は、当然ながら最近になればなるほど少なくなっていた。しかし、離婚後も数回、鞠川は元妻にメールを送っていたようだ。さして重要な内容ではなかったが、どれも鞠川の元妻への執心を表していた。対して、元妻からの返信は、最低限の素っ気ないもので、二人の間の温度差は歴然としていた。
長くなりそうだし、窓の外を見ると日がとっぷりと暮れていたので、未都は先に帰らせることにした。帰る際、未都は上着を羽織りながら、気恥ずかしそうにこう聞いた。
「わたし、少しは役に立ってるかな? むしろ、足手纏いじゃない?」
「そんなことないよ。今日の早瀬さんのアパートでのことなんか、俺一人じゃ―― たぶん、おたおたして何もできなかった。未都がいたお陰で、少し冷静になれたところがある、と思うよ」
正直にそう述べると、未都は嬉しそうに顔を赤らめ、軽い足取りで事務所を出て行った。
未都がいたお陰で、か。自分たちには、お互いにそういうところがあるよな、と慶太は一人になってから考えた。
二人とも、深刻、というほどではないかもしれないが、家庭に問題を抱えており、一人ではそれに対処することも、向き合うことも難しいと感じている。子供の頃から、長らく付き合いを保ってこれたのは、二人が似た環境にいて、同じように支えを必要としていたからでもあるかもしれない。相談することも、剥き出しの感情を見せることも滅多にないが、未都がそばにいることが慶太にとっては心強いのだ。
さ、仕事仕事―― と頭を切り替えて、数分後。慶太は最近、鞠川が送信した元妻宛てのメールの中に、気になる内容のものを見つけた。
”麻耶。昨日、電話したのに出なかったな。どうしたんだ? これを読んだら連絡をくれ”
翌日、彼はまたメールを送っている。
”今日も電話したのに、どうしたんだ? 別に用はないが、心配なんだ。怒ったりしないから、これを読んだら返事をくれ”
その翌日。
”無視してるのか? そうじゃないなら、連絡をくれ。ただ、無事を確かめたいだけなんだ”
さらに、翌日。
”本当に読んでないのか? 無事なら連絡をくれ”
それ以降、メールは送信されていない。返信もまた、ないようだ。
病的―― という未都の言葉が、慶太の頭をよぎった。
だが、気になるのはそれだけではない。病的であると同時に、鞠川は本気で元妻の安否を気にかけているようだ。もしかすると、本当にこの時、早瀬麻耶は行方不明になっていたのかもしれない。
ということは、どういうことになるのだろう。元妻の失踪に鞠川は関与していない、ということになるのだろうか。
いや、早まるな。そう自分を諫めて、慶太は再び作業に取りかかった。
メールの調査は一旦やめ、次にインターネットの履歴を調べてみる。調べ始めてすぐ、鞠川が普段、どういうアカウントを使用しているかが判明した。さらには、PCブラウザからSNSに接続していることもわかったので、そこから芋づる式に幾つかの事実が引き出された。
それによると、鞠川は普段から、元妻のSNSでの書き込みを監視していたようだ。
彼はそのためにわざわざ裏アカウントを作成し、それで元妻に接触を図っていた。元妻のアカウントをフォローし、さりげなくやりとりもしていたらしい。その目的は不明だが、元妻は何の疑いもなく彼の裏アカウントに返事をしている。
それはそれで問題だが、わかったのはそれだけではなかった。その後、そのやりとりがふっつりと途切れるのだ。途切れた原因は、元妻がSNSに投稿しなくなったためらしい。
元妻の最後の投稿後、鞠川は彼女にSNS上でダイレクト・メッセージを送っている。
”昨日も今日も書き込みがないけど、どうしたの?”
”大丈夫? 病気かなんか?”
”返事してよ。心配するじゃん”
日付を見ると、最後のダイレクト・メッセージの二日後に、鞠川はPCから元妻にメールを送ったようだ。心配のあまり、電話をかけ、それにも元妻が出ないので、メールを送った、というところだろう。
慶太は腕組みをし、うーん、と唸った。
と、ドアが開く音がし、振り向くと休憩から戻ったらしい茂野の姿があった。「お疲れ。日比野さんはもう帰ったの?」
「あ、はい。もう遅いから」
「進捗はどう?」
そこで、わかったことを報告すると、茂野は、ちょっと代わって、と言った。慶太が立ち上がると、茂野は椅子に座り、ディスプレイを覗き込んだ。
「確かに、これで時系列がはっきりしたね」
「はい。鞠川がストーカー行為をしていたかはともかく、彼がメールを送った時には早瀬さんはもう、行方不明になっていた可能性が高いんです」
「だとすると、ますます妙よね。そうじゃない?」独白めいた口調で、茂野は言った。「鞠川が犯罪行為をしていないんだとしたら、彼はなんで姿を晦ましたんだろう?」
さあ。慶太にはそう言うしかなかった。
最初は、鞠川が元妻とその同棲相手に嫉妬して、殺害に及んだのかもしれない、と考えていたが、どうやらそうではなかったらしい。だとしたら、一体なぜ、鞠川は消えたのだ?
「ふうん、これが元妻のアカウントね」
茂野は手早く、慶太が見つけた早瀬のSNSにアクセスしながら言った。「――ん? これは……」
「どうしたんです?」
何か発見したのか、と思い、尋ねたが、茂野はにべもない調子で言った。「ううん、何でもない。というか、まだはっきりしたことはわからない。さあ、続きはわたしがやるから、広江君もそろそろ帰りなさい」
好奇心を刺激されたまま帰るのは嫌だったが、致し方ない。慶太は渋々、従った。「わかりました。では、また明日」
「うん、よろしくね」
ドアのところで振り返ると、茂野はそこだけぽつんと灯ったデスクの明かりの中、一心不乱にPC画面を睨んでいた。
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