第3話

 慶太も未都も、翌日の午前中は予定があるため、昼に落ち合うことにした。先に昼食を済ませ、構内を横切って待ち合わせのカフェテリアに向かうと、煉瓦の壁の窓の向こうに未都らしき姿が見えた。窓のそばまで行って、爪先立ちをして確かめる。間違いなく未都だ。

 慶太は爪先立ちしたまま、窓ガラスを手の甲で、コン、コン、と叩いた。

 向こうを向いて座っていた未都が、ぱっと振り向く。こちらを見ると、ガラス越しに、そこで待ってて、と口を動かし、立ち上がった。

 飲みかけの紙カップを手に現れた未都は、笑みを浮かべていた。「懐かしいね、そのサイン。中学の頃以来じゃない?」

 サイン、というのはさっき窓を二回叩いて送った合図のことだ。未都の両親は、昔から非常に気難しく、娘の外出にいい顔をしなかった。そこで、慶太が迎えに行く時はいつも同じ合図を送ることにしたのだ。独特と言えるほど素早い、二回のノック。

 それを聞くと、未都は親に言い訳をするか、裏口からこっそり、家を出る、というのが習わしだった。

「そうだね。最近はメッセージ・アプリばかり使ってるしな」それに、束縛の激しかった未都の両親も、近頃はさすがに鳴りをひそめているそうだ。

「で、今日はどこで何をするの?」

「ある人と会う約束をしてるんだ」

 そう言うと、慶太は時計を気にしつつ歩き出した。

 昨日、手帳を読み返しながら、元妻の早瀬麻耶に連絡してみたのだが、やはり相手は電話に出なかった。何かあったか、連絡が取れない状況なのだろうか、と考えたが、わからないことを幾ら考えてもしょうがない。代わりに、依頼者の鞠川祥子に連絡を入れてみた。こちらはすぐに電話に出て、会ってくれることになったばかりか、鞠川誠二の部屋も見せてもらえることになった。

「ここが、そのマンション?」

 ベランダに洗濯物のはためく、築三十年は経っていそうなマンションを見上げつつ、未都が聞いた。

「うん、そのはず」と、慶太は答えた。どう見ても、格安のファミリー向け物件だな、と考えながら。

 未都も同じことをよぎらせたのだろう。訝しそうにこう言った。

「鞠川―― じゃない、対象って、独身だよね? こういうところは、なんか不似合いじゃない?」

 頷き、「俺もそう思う。こういうところが似合うのは――」

「部屋数が必要な家族とか、これから子供を作る予定の新婚カップル、かな」

 二人はなんとなく押し黙って、エレベーターに乗り込んだ。

 目的の部屋のインターホンを鳴らすと、中から白髪交じりの髪の女性が現れた。「あ、どうも。調査してくださってる方?」

「はい、そうです」

「どうぞ、お入りください」

 鞠川祥子は、六十近くとおぼしい、骨張った体つきの人物だった。ぴったりしたセーターとスラックスという格好で、せかせかとこちらを室内へ案内する姿は、いかにも世話好きな女性といったところだ。

 自己紹介する前に、彼女は二人を居間に置いて、ちょっと待っててね、お茶を淹れてくるから、と奥へ消えていった。

 慶太は室内を見渡した。家具はそれほど多くない。テレビ、戸棚、こぢんまりしたソファとテーブル、百円均一で買ったような安っぽいマガジン・ラック。

 慶太はマガジン・ラックのところまで行って、そこに置かれた雑誌を見た。何冊かあるが、どれもレシピ雑誌だ。

 同じく辺りを見回していた未都が、小声で言った。「なんか、物は少ないのに雑然としてるね。殺風景、っていうか――」

「雑然としてるのは、蓮野さんが引っ搔き回したせいかもしれないけど」慶太も小声で返した。「気になるのは――」

「お待たせしました」その時、鞠川祥子が戻って来たので、慶太は口をつぐんだ。

 ソファに座り、熱いお茶の入った湯飲みがテーブルに並ぶのを待って、慶太は切り出した。

「自己紹介が遅れて申し訳ありません。僕は広江慶太といって、蓮野の後任になります」

 後任って、と鞠川祥子が戸惑った表情を浮かべる。

「事情があって、蓮野は調査を降りまして。その後を、僕が引き継ぐことになりました」

「でも、あなた、随分お若いようだけど」

「ご心配なのはわかりますが、精一杯やらせていただきますので」

 そう言って、頭を下げると、相手はため息をついた。

「そうですか。――まあいいわ。息子の件は、とても手がかりが少ないと聞いてます。それでもやってくださってるんだから、あまり文句は言いたくありません」

 ありがとうございます、と慶太はもう一度、頭を下げた。気づくと、隣で未都もそれに倣っている。

「それで、幾つかお話を伺って、再度部屋を調べさせてもらおうと思っているんですが」

「話をするのは構いませんよ。ただ、どうかしらねえ。部屋のほうは、幾ら調べても大したものは見つからないと思うわ。だって、あなたがたが来る前に、わたしも散々、調べたんだもの。でも、何もなかった。本当よ」

「探されたのは、例えば、どういうものですか?」ふと、気になって、慶太は尋ねた。

 すると、鞠川祥子は馬鹿にされたような顔をした。

「わたしだって、どういうことを疑えばいいか、ぐらいはわかります。女の影や借金、といったことでしょ。当然、そういったことは調べましたとも」

「失礼しました」目につくところにそういった痕跡があれば、蓮野が見つけ出しているはずなので、やはりこの部屋には目ぼしい手がかりはないのだろう。「それじゃ、離婚後、息子さんは別の方との付き合いはなかったんですか?」

「そう思いますよ。少なくとも、わたしは聞いてません」

「ここ最近で、離婚を除く大きな変化はありましたか? 転職、などといった」

 憮然とした顔のまま、鞠川祥子は首を振る。「いいえ。何にもなかったと思うわ。引っ越しすらしなかったのよ」

「というと、離婚前からこの部屋に?」

「ええ。それって、ちょっと変わってますでしょう? 普通は、離婚して独身に戻るとなったら、もっと狭い部屋に移るものですよね。でも、息子は、ここが気に入ってるんだ、と言って、頑として引っ越そうとしなかった」彼女はちょっと口をつぐんだ。「そうね、深く考えなかったけど、確かに変よね」

 慶太は未都と顔を見合わせた。何やら、話の雲行きが妙だ。

「変なことをお聞きしますが、そこのマガジン・ラックに入っている雑誌、レシピ雑誌ばかりですよね。息子さんは料理好きなんですか?」

「料理? いいえ。息子は料理なんて、滅多にしませんよ。冷蔵庫も空っぽだったし」

「すると、あの雑誌は――」

「麻耶さんが置いていったんじゃない? 知らないけど」

 雑誌はすべて、二年以上前のものだった。おそらく、その通りなのだろう。

「玄関脇には、使われた跡のある女性もののスリッパもありました」と、未都が口を挟んだ。

 鞠川祥子は驚いたようにそちらを見てから、ああ、そう、と呟いた。

 どうやら、目ぼしい手がかりはないが、一つわかったことがあるようだ、と慶太は考えた。

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