第9話『奇妙な果実』
学園祭前日。
放課後になり、衣装の調整や照明の確認、台詞のチェック等、最後の打ち合わせをした。
当日は、応援もお願いしているので、舞台裏はいつもと違って賑やかになる。
本番の公開もそうだが、私は終了後の打ち上げも楽しみにしていた。
糸のほつれのある衣装を修復しながら、私は期待と緊張で、胸が躍るのを感じた。
隣では、菜緒が熱心に、魔人の黒翼を修復している。
祈るように熱心に、黒い羽を縫いつけている菜緒の横顔は真剣で、私は自然な美しさを感じ
た。
帰りは遅くなった。
今日はすぐに寝て、明日に備えよう。
そう思いながら玄関を開けた。
家の中は、真っ暗だった。
ただ、カーテンの隙間から、わずかに街灯の光が差し込んでいた。
私は不審に思いながら、居間の電気をつけた。
父も母も、いなかった。
ただ、テーブルの上に小さな紙切れが置いてあった。
私は不安に駆られながら、その紙切れを手に取った。
その内容を確認した時、私はすでに走りだしていた。
今朝、何事もなく登校した弟。
その弟の机の上に遺書が置かれていたというのだ。
掃除のために弟の部屋に入った母が、綺麗に整頓された机の上に置かれている便箋を見つけた。
気がかりに思って中身を確認してみると、そこには弟の、家族に宛てた最期のメッセージが綴られていた。
弟へのいじめは、終わっていなかった。
暗い欲望とねじれて腐食した執着は、巧妙に隠されたまま、陰湿な連帯感を保って、弟をいたぶり続けていたのだ。
私はただ、懸命に走り続けた。
コートを着てこなかったために、薄地のブラウスが冷たい風に射抜かれて、神経が凍るようだったが、それでも私は走り続けた。
街は気の早いクリスマス気分で、鮮やかでまぶしい電飾が、私の足元をきらびやかに染めていた。
私は、その毒々しい聖夜の光を浴びながら、懸命に視線を動かし続けた。
私は、たなびく髪を後ろに追いやって走り続けた。
すでに呼吸もままならず、足元がふらついた。
煌々とライトに照らし出された大橋の手前まで、脚を引きずるように駆けていった。
嫌な胸騒ぎが、私の心の中で渦巻いていた。
と、橋の下に、奇妙な影が見えた。
何かが、まるで果実のようにぶら下げられていた。
私は土手を降りて橋の下へと向かった。
不吉な予感は、私の胸の中で、徐々にその鼓動を高鳴らせていった。
急な下り坂に脚をとられて、私は固いアスファルトの上に転んでしまった。
右肩に激痛が走った。
身を起こそうとしたが、腕が痺れて動かなかった。私は必死に身体をよじり、ようやく立ち上がった。
顎を上げて橋の下へ、ふらつきながら歩いていった。
ぶら下がっていた影は、首にロープを架けた人間だった。
顔は赤黒く、むくんで膨れ上がっている。
私は叫び声を上げた。
叫べば、目の前の光景が、消えてなくなってしまうのではないかと思って。
でも、そんなことはなかった。
激しいクラクションの音が、私の悲鳴をかき消した。
ああ、これが、私の弟だというのだから。
気づいたときには、私は懸命に、弟の身体にしがみついていた。
弟の身体は、どうしようもなく冷たかった。
私は限界まで手を伸ばして、弟の首に架かったロープを外しにかかった。
揺れる弟の身体を抱きとめた。
痛めた肩に、重みが加わる。
私は唇をかみ締めて、激痛に耐えた。
ロープの結び目に指をかけて、解こうとして爪を立てた。
冷たい風にさらされて、指先が引きつった。
私の額に、弟の顎が当たった。
と、急な重みに耐え切れず、私は背中から倒れた。
なんとかロープが解けたらしい。
私はゆっくりと、弟から身体をずらして起き上がった。
震える指先で携帯電話を取り出し、恐怖に浸されて、ろれつが回らない唇で必死に救命に電話を掛けた。
救助を待つ間に、呼吸が楽になるようにと、弟の上着のボタンを外した。
呼吸・・・。
目の前が暗転した。
弟の鼻先に、そっと指を近づけた。
何も、感じなかった。
シャツの隙間から覗く土気色の肌には、もう綺麗な箇所がないくらい、無数の痣が浮かんでいた。
何人もの手による、数え切れない暴力の痕。
どれだけ痛かっただろう。どれだけ苦しかっただろう。
弟の顎を上げさせて、気道を確保した。
両手を添えて、胸を押した。
何か、反応が欲しかった。
私が胸を押すたびに、弟のまぶたは痙攣した。
でも、私が動きを止めると、弟も動くのを止めた。
だから私は、弟の胸を押し続けた。
弟を、生かし続けるために。
未だに呼吸をしてくれない弟に、その口に、私は唇を合わせた。
ふっ、と力強く口の中に溜めた空気を、弟の肺へと送り出した。
何度も、何度も。
繰り返し、繰り返し。
いつの日以来だったろう。弟との口づけは。
願うように必死に、嘆くように絶望的に。
あなたが生きているかぎり、空は輝く。
あなたが生きているかぎり、風は甘く香る。
あなたが生きているかぎり、水は深く澄みわたる。
あなたが生きて、いるかぎり・・・。
祈りの言葉は、愛する気持ちは、胸の奥から湧き出るように、涸れることなく、果てしなく溢れ続けた。
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