第8話『翼』

 文化祭を1週間前に控え、『あなたが生きているかぎり』の舞台演習も大詰めとなった。

 

 捕らわれの王子を救い出し、敵国の領地から脱出する王女達。 

 

 しかし、衰弱した王子を抱いているために、思うように逃げられなかった。

 

 ついに王女たちは敵兵に囲まれてしまう。

 

 取り囲む大勢の兵士たちから、脱走を図った奴隷はその場で処刑と宣告される。 

 鋭い無数の剣先が、王女たちに向けられる。

 

 と、魔人は王女に言った。

 私の翼なら、貴女ひとりを抱えて逃げることができるだろう。 

 貴女ひとりだけなら。

 その男を、置いていくなら。

 魔人は、冷酷に微笑んで見せた。


 王女は傷ついた王子の身体を抱いてひざまずき、その手を握り締めた。

 そして静かに、しかし澄んだ声で決然と、魔人に答えた。

 

 王子とともに逝けるなら、私は本望です。

 

 魔人は後ずさりした。

 どうしてそんな簡単に、死を受け入れるのだ。 

 頬が引きつり、唇が歪む。

 魔人自身が、ようやく今になって気がついた。

 

 自分が望んでいたものが、王女の血などではなく、王女から愛されることであったことに。

 と同時に、それは永遠に手に入らないということも。

 

 魔人は自身の黒色の翼を、背中から引きちぎった。

 黒色の鮮血が、王女の胸を汚した。

 魔人は血のしたたる翼を、王女の背中に添えた。

 

 そして王女の顎を、震える指先でしゃくりあげ、耳元でささやいた。

 

 飛んでみせろ、王子を救いたいなら出来るはずだ。 王子と一緒に、空を飛んで逃げるんだ。

 貴女なら、私の翼で飛べるはずだ。

 

 王女はあまりの光景に、暫く動けないでいた。

 魔人は、王女の腕を優しく支え、そっと立ち上がらせた。

 王女は、魔人の背中から流れる、おびただしい流血に涙を浮かべた。

 魔人は人差し指で、その涙をすくいとった。


 あなたが還らなければ、悲しむ人がいるだろう。


 それは私も。


 しかし魔人の想いは声にならず、唇だけが震えるように動いていた。

 

 王女は決意し、自身の背中に備わった黒色の翼で羽ばたいてみせた。

 王女は、王子を抱えたまま浮かび上がった。  

 王女の身体は、魔人の腕から離れた。

 しかし王女は必死に腕を伸ばして、指先だけでふたりは未だに繋がっていた。

 王女が羽ばたく姿に、魔人は満足して笑みを浮かべた。

 王女は不器用に翼を動かし、血色を失った顔で、魔人のその微笑を見続けた。


 しかし、目の前の光景に唖然としていた兵士たちも、正気に戻って王女と魔人に襲いかかった。

 魔人の胸に、一斉に剣先が突き刺さった。

 魔人は膝をついて倒れた。

 

 王女と魔人の、繋がっていた指先が、離れた。

 兵士たちは、中空で泣き叫ぶ王女にも剣を向けた。


 その時、瀕死のはずの魔人が再び立ち上がって、周囲に鮮血を撒き散らした。

 黒い血は、兵士たちの目に入った。

 兵士たちは目くらましに遭い、地に伏して苦しみもだえた。


 魔人は王女に、今のうちに逃げるようにと、声にならない声で叫んだ。

 

 王女は、自身の涙と、魔人の血で濡れた頬を拭うと、顎を上げて空高く舞い上がった。


 魔人は最期の力を振り絞って、王女が飛び立った空を見上げた。

 そして王女達の姿が、太陽の光に溶けこむまで、目を細めて見続けた。


 冷たくなっていく自身の身体を感じながら、白く輝く雲の切れ間に、満足して頷いた。

 喉の奥に絡まる血を吐き出して、震える唇をゆっくりと動かした。 

 あなたが生きて、いるかぎり。


 魔人の衣装で黒い身体となった菜緒は、ゆっくりと膝をついて、そのまま倒れこんだ。

 王女を救えた安堵と、最期まで想いを伝え切れなかった後悔とを、その身に背負ったまま息絶えるところで幕は降りた。

 

 私は王女の衣装のまま、舞台の中央で身を横たえている菜緒に駆け寄った。私は菜緒のそばに膝をついて、眠るように目を瞑ったままの菜緒を抱き寄せた。

 すごいよ、菜緒。ううん、ありがとう。

 

 私の言葉に、菜緒はゆっくり目を開いた。

 舞台のためにコンタクトレンズを買った菜緒の顔は、いつも見慣れているはずなのに、どこかとても新鮮だった。

 

 菜緒は私の耳元に囁いた。

 文化祭にね、招待したい人がいるの。

 その人は、私のことは別に何とも思っていないけど、それでもこの舞台を観てもらいたいの。

 それが今の私の、一番の願い。

 

 私は菜緒の髪をそっと撫でた。

 菜緒の全身全霊の、迫真の演技は、その人のために捧げるのだろうか。

 私はまるで、自分のことのように嬉しくなった。

 

 この舞台を必ず成功させようと、固く心に誓った。

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