第7話『発露』

 翌朝、私は早く目を覚まし、そのまま着替えを済ませた。

 昨夜、強く打った腰に鈍い痛みが残っている。私は悔しさと怖さで、身体の芯が震えていた。

 朝食は要らないと母に伝えて、逃げるように家を出た。

 私は昨夜の光景を振り切るように、腰に手をあてて必死になって走った。


 その日はずっと、鬱屈した気持ちで授業をやり過ごし、暗澹とした心地で家に帰った。

 

 居間では両親が、深刻な顔で並んで座っていた。

 その視線の先には弟が、懺悔するように頭を垂らしていた。私は家の雰囲気の重苦しさに、普段は感じない息苦しさを感じた。

 私は行き場のない視線を、どうにかテーブルの上に定めた。

 そこには、真二つに折られた携帯電話が置かれていた。

 

 どうしてこんなことをしたんだ。

 父は静かに、しかし低く唸るように、うなだれている弟に問いかけた。

 しかし弟は、言葉を発せずに、いつまでもうつむいたままだった。

 無残に破壊されて、液晶がにじみ出ている携帯電話。

 その哀れな姿に、私は昨日のメールを思い出して、小さく叫んだ。

 

 私の声に、弟は振り返った。

 弟の瞳は、限界まで涙を溜めこんでいた。

 頬は痙攣していて、唇は厚くひび割れていた。その顔が、あまりに痛々しくて、私は目を背けた。

 

 弟は急に立ち上がり、私の脇を走り抜けて、そのまま自分の部屋に駆け込んだ。

 唖然とする両親の前に置かれていた、壊れて使えない携帯電話を、私は手に取った。


 誰かに、壊されたのか。

 それとも、自分で壊したのか。


 壊されたのは、携帯電話か。

 それとも、弟自身か。


 私は唇を引き締め、悄然としている父と、涙ぐんでいる母の前に、静かに座った。

 

 私たち、家族だよね。

 私の問いに、ふたりは顔を上げて小さく頷いた。

 

 私は父と母に、メールのことを話した。

 携帯電話は壊されて、もう証拠はないけれど、私はこれが、いじめなのだと確信している。

 代わる代わる、休む間も与えず、追い詰めて、笑いものにして、楽しんで。

 しかもそれは、ほんの軽い気持ちで。

 愉快なつもりなのだ、全員が。

 

 私は両親と話を終えて、自分の部屋に戻った。

 精神的なものなのか、激しい疲労感に襲われて、壁を背にしてしゃがみこんだ。

 菜緒は、おばあちゃんの死に立ち会って、生きていこうと決意した。

 でも弟は、菜緒のように強くはないから。

 私が、家族が、支えてあげなければ。

 私はゆっくりと立ち上がった。

 

 自分の部屋を出て、弟の部屋の前に立った。ゆっくりと深呼吸すると、腰に痛みを感じた。

 私は片手を差し出して、控えめにドアをノックした。

 暫く待っていたが、何の反応もなかった。

 いや、扉の向こうで、かすかに、こすれる様な声が聞こえる。

 弟の、嗚咽だった。

 私はノブに伸ばしかけた手を、静かに下ろした。

 泣いているところは、きっと誰にも、見られたくないだろう。

 私はドアに頬を当てて、弟の名前を呼んだ。

 

 お父さんも、お母さんも、何も怒っていないからね。

 ただ、あなたが心配なの。

 あなたが苦しんでいるのが、とてもつらいの。

 だから、話して欲しい。

 携帯電話のこととか。

 あと、昨日のお金のことも。


 と、わずかにドアが開いた。

 隙間から、目を腫らした弟の、赤い瞳が私を覗いていた。

 弟は、手で強引に目をこすり、鼻をすすった。

 そして、声にならない声で、懸命に喉を震わせて、私に言った。

 昨日は、ごめんなさい、と。

 弟は声が上ずり、まともに言葉にはならなかったが、それでも私には確かに伝わった。


 その晩に私たちは、夜遅くまで話し合った。

 一番にすることは、弟にとっては苦しくて、つらいことかも知れないけれど、いじめの実態を把握することだった。

 弟の話を聞き取り、母が内容をメモした。

 

 私は聞いているのがつらかったが、それでも席を立たなかった。

 

 皆から嘲笑の的にされ、抵抗する術もなく、誰にも助けを求められずに、次第に表情を失っていった弟。

 父や母の顔は、血色を失い青ざめていた。


 次の日、両親は、昨夜作成したメモを手にして弟の学校へ報告をした。

 担任の先生に渡して、クラスの指導をお願いした。

 

 私も家族も、これで弟へのいじめはなくなるものと思っていた。


 そう思っていた。

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