40 夜半の隅田川 6


 ……夜風が、私の前髪をくすぐった。

 潮の香り。


 ……目を覚ますと、私は薄暗い部屋の中にいるのがわかった。

 畳に、テーブル。これは……屋形船の中……?


「起きたか、レイ」

「サトル様……って、えええ!?」


 目の前にはサトル様がいる。

 しかも……横になられている。わ、私……彼と一緒に並んで寝転んでる!?


「も、も、申し訳ありま……きゃっ!」


 彼が私の腕を引っ張って、引き寄せる。

 彼が後ろから抱きしめてきたのだ。


 ……後ろから抱かれて、そして……横になる。こ、これじゃあまるで……その……あの……。


「レイが無事で何よりだ。もう目が覚めぬのではないかと、凄く……凄く心配したぞ」


 かぁ……と熱くなっていた体温が、一気に覚めていくのがわかった。

 彼の体が震えてる。……本当に心配してくださってるのが、わかったから。


「申し訳ありません……心配かけて」

「本当だぞ。全く悪い子だ」


 ああ、叱責される。


「悪い子にはお仕置きが必要だな」

「は、はい……お好きなように……」

「うむ。ではもうしばし、こうして俺の抱き枕になっておくれ」

「ええ……?」


 そ、それはお仕置きといえるのだろうか……。


「ああ、レイ。おまえは素晴らしいな。温かく、柔らかく、とても良い匂いがする。毎晩おまえを抱いて寝たいくらいだ」


「お、お戯れを……」


「戯れじゃあないさ。俺は本気だぞ?」


 ぎゅうう、と強く彼が抱きしめてくる。

 ……ああ、心地良い。


 彼が触れてくれてるだけで、私は……ほんとに幸せな気持ちになれる。


「落ち着いたところで、状況を伝えておこう」


 サトル様は二のとなった水虎すいこを討伐した後のことを、教えてくださった。


 あの後すぐに、私は気を失ったそうだ。

 サトル様は呪禁じゅごんで、壊れた屋形船を修復。


 私を畳の上に寝かせ、今に至るそうだ。


「レイの貸してくれた霊剣のおかげで、倒せたよ。ありがとう」


 ……ありがとう。彼は、私がこっちに来てから、何度も私に言ってくださった言葉。

 でも……今までは、その言葉が正しく伝わっていなかったように思えた。


 彼が優しいから、言ってくれるんだって、そう思っていた。

 ……でも、今彼は本当に、私に感謝してるんだってことが、わかる。


 さとりの能力があるからでは、ない。


「あの……」

「どうした?」


「……こんなことを、聞くのは、恥ずかしいのですが……」

「おお、そうか。大丈夫だぞ。しばらく海の上で二人きりだからな」


 へ……?


「ど、どういうことですか?」

「実はこの船、動かしかたがわからんのだ。屋形船を動かしていたのは、人間に化けていた水虎すいこだったからな」


 な、なるほど……。水虎すいこという船頭を失った今、船を動かせる人が居ない。


「まあ、式神を飛ばして、真紅郎に救難を出しておいたから、そのうち助けは来るだろう。が、来るまで俺とおまえの、二人きりだ。ここは海の上。秘密の会話を、だれかに聞かれることはない」


 ……な、なるほど。

 二人きり、なら……。


「さて、何か話があるんだったな。何でも言ってくれ。おまえの頼みなら何でも聞くぞ?」

「あの、その……い、一度……離れて」


「断る」

「まだ言い終わってないのにっ」


「はっはっは」

「もう……意地悪です……」


 そんな言葉が、自然と口をつく。


「すまんすまん、好きな子には意地悪したくなるんだよ、俺は」


 ……遅まきながら、私は大変失礼な口を、サトル様にきいてしまったのではないかっ、と気づく。

 でもサトル様は微笑んでいる。


 ……不敬だなんて、思ってない。

 だって……この人は……。


「あの……私のこと好きって、本当……ですか……?」


 なんて質問をしてるのだ、私は……。


「ああ。おまえにも、伝わったはずだぞ? 俺の死に際の言葉。そこに、嘘は無いとな」


 水虎すいこの攻撃を受けて、サトル様は死にかけた。

 その間際になって、彼は私を好きと、愛してると……おっしゃってくださったのだ。


 ……その言葉に偽りはないと、私は理解していた。


「おまえはどうだ? 俺のことが好きか?」


 ……好きか、なんて、野暮なことをお聞きになされる。

 そんなの……好きに決まってる。


 私を地獄から救ってくださったこの人のことを……。

 私に、ズッと優しくしてくださったこの人のことを……。


「…………」


 ぎゅっ、と口をつむぐ。ためらってしまう。

 言ったら、もう戻れない。投げた言葉のボールは、帰ってこない。

 ……好き。


 それを伝えるのは、簡単じゃあない。

 今までの、私だったら……多分言えなかった。相手に言うのが、拒まれるのが、怖いから。


 ……でも。

 彼は、私のこと好きだと、思ってくださっている。愛してくれてる。


 なら……。


「はい……私も、あなた様を、お慕い申しております」


 サトル様は晴れやかな笑顔を浮かべると、私を抱き起こして、ぎゅーっと抱きしめる。

 ……力強く、でも、優しい。


「レイ。何度でもおまえに言うよ。好きだ。愛してる」


 彼が愛の言葉をつむぐたび、私の中にあった……楔のようなものが、抜けていくのを感じる。

 親が、周りが、私にかけた……呪いの言葉。


 無能の、令嬢。

 でも……彼が私に愛を伝えてくれたおかげで、その呪いが……少しずつ解けくのがわかった。


 私は確かに、西の大陸では無能の令嬢だったかもしれない。

 あそこに私の居場所はなかったかもしれない。


 でも……。

 今は、ここがある。


 サトル様のお側である、ここが。

 私の……居場所になった。私を受け止めてくださる、素敵な殿方が……お側にいる。


「レイ。いいかい?」


 サトル様が私の顎を持ち上げる。

 ……私は、もう拒まなかった。


 目を閉じ、身を委ねる。

 彼が近づいてくるのがわかる。……すっ、と彼が優しく唇を重ねてくるのが、伝わってきた。


 ……頬を涙が伝う。

 この口づけには、儀式的な意味合いはなにいもない。


 でも……特別だ。

 彼の好きという気持ちが、私に流れ込んでくる。


 私のことを愛しているのだという、熱い気持ちが……伝わってくる。

 彼が顔を離す。


「サトル様……お顔が、真っ赤です」


 素直に、口をつく言葉。

 それを不敬だと……もう私は思わない。


 彼が喜んでくれるのが、わかるからだ。


「そりゃおまえ……好きな娘とキスをしたのだ。こうもなるさ。レイだって、耳まで真っ赤だぞ」

「私だって……好きな御方とキスをしたのですから」


 私たちは向かい合って、笑う。

 ……なんだか、こっちに来て、いや、生まれて初めて、笑った気がしたのだった。


 

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