第15話 水彩筆

 「わあ。」千紗が小さく感嘆の声を上げた。

 僕は教室の入り口で立ち止まった。本来なら自分の教室にいるはずの千紗が、なぜかここにいる。

 「おい、千紗。なんでここにいるんだ?」

 「あ、柊原くん。」千紗は振り返って、少し照れくさそうに笑った。「ちょっと授業をサボっちゃって。」

 「それはまず。」言いかけたとき、僕は息を呑んだ。教室の隅に佐藤先輩の姿を見つけたからだ。まさか先輩まで。

 「あら、柊原君も来たの?」佐藤先輩が優しく微笑んだ。「ちょうどよかった。一緒に描いてみない?」

 なぜ佐藤先輩がここにいるのか。

 「先輩こそ、どうしてここに?」思わず口にしてしまった。

 「私?」佐藤先輩は少し意地悪そうな笑みを浮かべた。「美術室の光の具合が絶妙だって千紗ちゃんから聞いて。それに、たまには違う場所で描くのも悪くないでしょ?」

 「でも、授業中じゃ。」

 「大丈夫だよ。」千紗が僕の言葉を遮った。「今日の先生、休みなんだ。自習だから。」

 思わずため息が出た。

 佐藤先輩が軽く笑う。「たまには息抜きも必要よ。ほら、座って。」

 断る理由も見つからず、気がつけば僕も画材を手にしていた。

 確かに美しい。光が花瓶を通過するときに屈折が起こり、白いテーブルクロスに虹のような光の輪が生まれていた。

 目の前の画用紙を見つめ、水彩筆を握ったが、どこから手をつけていいか全く分からなかった。隣に座っている千紗はすでに描き始めており、筆遣いは熟練とは言えないまでも、少なくとも花瓶だと分かった。

 「うーん。」試しに円を描いてみて、もう一つ描いてみたが、結果的に重なったドーナツのようになってしまった。

 「ぷっ!」佐藤先輩は思わず笑い出した。

 「柊原くん。」千紗は僕の絵を見て首をかしげた。「これ、花瓶?」

 「理論的にはね。」ため息をついた。「でも見た目はお弁当の卵焼きみたいだ。」

 前の席のクラスメートまでが思わず振り返って見てきた。

 「天才にも苦手な分野があるんだね。」誰かが笑いをこらえてつぶやいた。

 自分の作品を見て苦笑した。普段は分子構造図をきっちりと描けるのに、芸術的な創作になると、手がまるでいたずらな魔法にかかったように言うことを聞かなかった。

 「あ、大丈夫だよ!」千紗が突然言った。「これは、抽象派ってことにしよう!」

 佐藤先輩は画用紙を傾けて見ながら、「サインして記念に残そうか?」と言った後、千紗の方を見てウィンクした。「ねぇ、千紗ちゃん。ちょっと工芸室まで来てくれない?面白いものがあるの。」

 「え、今ですか?」千紗は少し驚いた様子だったが、すぐに立ち上がった。

 「柊原君も。」先輩が言いかけたが、僕は軽く手を振って断った。なぜか、この二人には邪魔をしない方がいいような気がした。

 千紗と佐藤先輩が教室を出ていく背中を見送りながら、僕は何か不思議な感覚に包まれていた。

 放課後、夕陽が廊下をオレンジ色に染めていた。

 「柊原くんの卵焼き、本当にリアルだったよね!」千紗はまだ笑いながら言った。「いっそのこと新商品のロゴにしない?」

 聞こえないふりをして、黙ってリュックを背負った。

 ちょうど教室を出ようとしたとき、クラス委員が駆け込んできた。「柊原、千紗!生徒会がお呼びだよ!」

 「え?今?」

 「白銀先輩がとても重要だって!」

 僕と千紗は顔を見合わせた。白銀先輩が呼ぶということは、工芸部に関係があるに違いない。でもこの時間に…。

 人が少なくなった廊下を歩きながら、夕陽が僕たちの影を長く伸ばしていた。生徒会室のドアを開けると、目に入ったのは白銀先輩だけでなく、見知らぬ生徒会のメンバーも数人いた。

 「ああ、ちょうどよかった。」白銀先輩は優雅に手元の紅茶を置き、「今、文化祭のことを話し合っていたの。」

 何か雰囲気が違う。白銀先輩は相変わらず微笑んでいるが、どこかしら妙な緊張感が漂っている。

 「あの。」千紗はおそるおそる尋ねた。「何か問題でも?」

 「問題というより。」と、眼鏡をかけた背の高い女生徒が口を開いた。「チャンスなの。」

 「チャンス?」

 「実はね。」白銀先輩が話を引き継いだ。「今年の文化祭に、市長が視察に来るの。」

 「そうなんです。」眼鏡の女生徒が続けた。「だから、何か特別な記念品が必要なんです。それに…。」

 「それに?」思わず尋ねた。

 「私たちの学校の特色をアピールできるものが必要なの。」白銀先輩は一瞬黙り、意味深な目で僕たちを見つめた。「藍染めなんてどうかしら?」

 生徒会室を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。街灯が次々と点灯し、校内の小道を照らしていた。

 「これは大変だね。」千紗は心配そうな表情を浮かべた。

 確かに。市長が来るというだけでも緊張するのに、こんな短期間で記念品を準備しなければならないなんて。僕たちにはすでにいくつかのデザインコンセプトがあるとはいえ、それらを実際に形にするとなると。

 「僕は別に怖くないけど。」と千紗の横顔を見ながら言った。「千紗も怖くないだろ?」

 「え。」

 「そもそも何かを証明したいんじゃなかったのか?」

 言い終わらないうちに、千紗の目が輝き始めた。「そうだね、これらのデザインはもともと実現するために考えたんだもん。」

 この子は本当に分かりやすいな、一瞬で元気になった。彼女の決意に満ちた眼差しを見て、そう思った。


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