第五章『日が沈む前に(Night Fall)』

「あの程度のことで二週間の停学とか信じられない! なんであたしがあいつらと同じ扱いなわけ⁉︎」

 日高は大変ご立腹であった。

 自分が真弥のことを好きなのと、真弥自身にはなんの関係もないことで、それに真弥が巻き込まれるというのは納得がいかない。

 だからこそ日高はあんなことを口にしたのだが、当の真弥には全くと言っていいほどその思惑は伝わっていなかった。

「むしろ退学にならなくてよかったじゃないか。あと、できればもう少し声を抑えてくれ」

「全然よくない! その間、あたしは真弥に会えないんだよ⁉︎」

 この世の終わりのような表情をしながら、日高はジタバタと暴れる。

 ただしそれは床や地面の上ではなく、真弥の自室にあるベッドの上だった。

「仕方ないだろ? というか、当たり前のように人の家に不法侵入した挙句にベッドを占領するのはやめてくれ」

「なんで? 自分のベッドでこんなに可愛い女の子がゴロゴロしてたら興奮しない?」

 ベッドから上体を起こした日高は、含みのある笑いを浮かべながら真弥に問いかける。

「するかっ! 仮にしたとしても、本人の前で言えるか!」

 胸の前で腕を組みながら顔を背ける真弥のその反応が、日高の対抗心に火をつけた。

「そこまで言われると、絶対に振り向かせたくなるのが乙女心だよね!」

 日高は右腕を丸太のような大きさの蛇に変えて真弥に巻きつけ、力いっぱい自分の元へ引き寄せた。

 抵抗する間もなく真弥の体はベッドの前まで連行され、日高は自身の腕を人のものに戻すと、今度は足を触手に変えて真弥の背中をトンと押した。

「うわっ⁉︎」

 予想していなかった方向から力が加えられ、前のめりに倒れ込んだ真弥は慌てて両手を前に突き出す。

 それは奇しくも、まるで日高を押し倒したかのような体勢だった。

「どう? あたし可愛い?」

「か……」

 真弥がその感想を言う直前でガチャッと部屋の扉が開く音がして、真弥は慌てて顔を上げて入口の方を見ると、そこには唯が心底軽蔑するような目をして立っていた。

「最低……」

「ち、違うんだ唯!」

 そっと扉を閉めようとする唯の誤解を解くべく、真弥は慌ててドアノブに手を伸ばした。

 真弥はドアノブを掴んで、どうにか扉を開けようとするが向こう側から唯も引っ張っているのか、扉は半開きの状態で不安定に揺れている。

「せめて話だけでも聞いてくれ!」

「嫌なのです! お兄ちゃんと日高さんの爛れた関係なんて知りたくないのです!」

「その誤解を招く言い方をやめなさいっ! 僕はまだ何もしていない!」

「まだ⁉ どうして未来完了形なのですか⁉︎」

「国語に未来完了形があるかァッ‼」

 相手が中学三年生とはいえ、自分より一回りも小柄な少女と力で拮抗しているという情けない少年の姿が、そこにはあった。

 その様子を日高はベッドの上にペタンと座り、火に油を注ぐように野次を飛ばしながら観戦していた。

「いいぞ〜もっとやれ〜!」

 だが口では茶化しつつも、日高はどうやって唯が音もなく階段を登ってきたかの方が気掛かりだった。

 前に家に来た時は、真弥も唯も登ってくる時は必ず足音がした。

 だが今日は唯が階段を登ってくる音もしなければ、扉の外にいることにも日高は全く気がつかなかったのだ。

 今までは真弥の附属物程度の認識しかなかった唯に、日高は興味を抱いていた。

 そんなことも知らずに、真弥は息を切らしながら声を荒げる。

「唯! お前、なんでこんなに力強いんだよ!」

 扉は押すも引くもできずに拮抗していて、中学生の妹に負けそうな真弥の筋力のなさが視覚化されているようだ。

「中学生の女の子としては平均的なのです! それは単に、お兄ちゃんが変態で貧弱な哀れで救いようのない生物界の恥晒しなだけなのです!」

「なんだとこの野郎⁉︎」

 綱引きならぬ、ドア引きを繰り広げている二人を他所に日高はその体を液状化させ扉の隙間から廊下へと出ていく。

「あのなぁ〜! お前も少しは誤解を解く努力ってものをだなぁ――」

 真弥が振り返った時には、既に日高の姿はない。

「まさか……」

 嫌な予感がして真弥が足元に目を向けると、黒い液体が部屋の向こうに流れていく最中だった。


                ※ ※ ※


 廊下の外に出た日高は、唯の右後ろで再び日高美知の姿に変わってから、話しかけた。

「やっぱり妹ちゃんもそう思うよね! 真弥ってあの状況でもあたしに手を出さないどころか、可愛いとさえ言ってくれないんだよ? そっちの方がよっぽど変態異常だし、生物界の恥晒しだよ!」

 バタンと勢いよく扉が閉まり、聞こえるはずのない方向から日高の声が聞こえてきたことに、唯はビクッと肩を震わせながら声が聞こえた方を見た。

 先ほどまで部屋の中にいて、唯一の出入り口が塞がれている状態で外に出られるはずがない。

 だが事実として、日高は扉を片手で押さえながら唯のすぐ右後ろに立っていた。

 日高は扉にもたれ掛かり、唯に向かってにこやかに微笑んでいる。

「いま……どうやって部屋の中から出たのです?」

「普通にドアを潜り抜けてかな……」

 日高は適当に返事をしながら、イルカや鯨などの水中に棲む大型の哺乳類や蝙蝠などの夜行性の生物が使う、エコロケーションの要領で周囲の様子を探る。

 錦織との戦闘時に離れた位置から潜伏場所を特定し、複数の糸を操るトリックを見破ったのもこの応用だ。

 だが今回の場合、音は確実に発しているはずなのに反射音が聞こえてこない。

 その扉を叩いている振動は感じるのに部屋の中の真弥の声や、唯の心音といった音も聞こえてこない。

 どれくらいの距離までかは分からないが、日高と唯の声以外の全ての音が遮断されていた。

「もしかしてだけど、妹ちゃんって音を消す能力とか持ってたりする?」

「……どうやって、唯の能力を推理したのです?」

 日高の推測が当たっていたのか、唯は隠すことなく、逆に日高へ質問する。

「ここの廊下、人が通ったら足音がするでしょ? なのにあたしは妹ちゃんが部屋に来た時に気づけなかった。それに今、あたしと妹ちゃんの声以外は聞こえないようにしてるんでしょ? そうじゃないと、エコロケーションに失敗した理由が説明できない」

 唯は慌てて日高から距離を取ったが、後ろに階段があるため、これ以上は下がることができない。

 その分、唯は威嚇するように日高のことを強く睨みつけた。

「日高さんは怪異……なのですか?」

 怪異の役割は、この世から超能力者を排除することである。

 自分も敵として排除される可能性を考えれば、唯が怯えるのも無理はない。

「まあね。けど妹ちゃんの能力はそこまで脅威じゃないし、真弥に嫌われるのは嫌だから別に何もしないよ」

 にこりと微笑みながら、日高は唯に右手を差し出した。

「だから、これからも仲良くしようね♪」

「はい……なのです」

 唯は恐る恐る日高の手を握る。

「それで、さっそく妹ちゃんに教えてほしいことがあるんだけどさ」

 何を聞かれるのかと身構えながら、唯は日高の言葉を待つ。

「もしよかったら――あたしに料理の作り方を教えてくれないかな?」

「……へ?」

 予想の斜め上をいく頼みに、唯は困惑した。

「真弥があたしを彼女として認めてくれないのは、あたしが彼女っぽいことをしてあげられてないからだと思うんだよ!」

 自分……というより、『日高美知』の容姿には怪異もかなり自信がある。

 実際『日高美知』の記憶では、他人の思考を模倣して客観的に見たとしても、彼女の容姿は中の上から上の下といった部類に属するらしい。

 だが真弥は『日高美知』の容姿を褒めてくれたことはおろか、好意を示してくれたことすらない。

 となると、よほど容姿が真弥の好みでないか、もしくは自分に人間としての魅力が足りていないということになる。

 真弥の容姿の好みは追々探るとしても、人間としての魅力が足りないというのは問題だ。

 しかし日高には、自分のどういう箇所で『人間らしさ』が不足しているのかということが分からない。

 そこで日高が考えたのが、自分と居ることにメリットがあると真弥に思ってもらうということだった。

 自分がいることで真弥に何かしらの恩恵があると思ってもらえれば、自分のことを好きになってくれるかもしれない。

 なにより日高美知に成り代わる前の一切の記憶がない怪異には、もう真弥以外の心の拠り所も居場所も残されていなかった。

「一つだけ答えて欲しいのです。どうして怪異である日高さんが、特殊な能力もなければ魔術も使えないお兄ちゃんの彼女になることに拘るのですか?」

 真剣な表情で唯に問いかけられた日高は、胸元でギュッと手を握りながら答えた。

「日高美知が真弥のことを好きだったから……最初はそれだけだったんだけどね。でも今は、出会った人間の中で真弥が一番あたしに優しかったからかな」

 唯はその説明で今になってようやく『日高美知』と目の前にいる日高が別人であること、登校時の真弥が好きだった理由が『日高美知』のものであることを知った。

 だがそれを知ったからといって、唯が『日高美知』にしてあげられることは、もう何も残されてはいない。

 恐らく、『日高美知』という人間はもうこの世のどこにも存在しないのだから。

「お兄ちゃんは……日高さんの正体を知っているのですか?」

「知ってるよ。けど真弥は全てを知った上で、あたしを許すかどうかと、あたしが『日高美知』の偽物であるかどうかは別の問題だって言ってくれたんだ」

 あの言葉が自虐的な意味を込めて真弥が言ったであろうことを、日高は知っていた。

 日高美知が『模倣』した思考の中でも、真弥の思考は悲観的で理想主義的な側面が強い。

 特に真弥の理想像が六川灯理という例外中の例外であったために、理想と現実のギャップも相まって極端に自己評価が低いのだ。

「とても……お兄ちゃんらしいのです」

 日高から目を逸らしながら、唯はそう言った。

「それで、結局妹ちゃんはあたしに料理を教えてくれるの? くれないの?」

 当初の目的をまだ聞いていなかった日高は、首を傾げながら改めて確認する。

「えっと……簡単なお弁当の作り方くらいでよければ教えてあげられるのです」

「ほんと⁉︎ ありがとう妹ちゃん!」

 日高は顔を輝かせながら感謝の意を述べる。

 怪異とは思えないほど人間らしい反応に戸惑いながら、唯は日高をキッチンへと案内した。

 真弥に料理の練習をしていることを知れたくなかったという理由で自室に閉じ込められていた真弥が解放されたのは、それから数時間近く後のことだった。



 日高が謹慎処分を受け、唯から料理を教えてもらった翌日――理科室の一席で真弥は頭を抱えていた。

「お兄ちゃん! お弁当、忘れていたのです!」

 唯の姿を模倣した日高は、今朝作ったお弁当を真弥の元に届けに来ていた。

 流石の真弥も、どこの学園ラブコメだと言ってやりたいところだったが、クラスメイト達の手前、そんなことを言うわけにもいかない。

「あ、あぁ〜! 悪いな唯、すっかり忘れてたよ!」

 真弥は慌てた様子で、ガタッと音を立てて椅子を蹴飛ばしながら立ち上がる。

「もう、お兄ちゃんはおっちょこちょいさんなのです♪」

 真弥もすぐにそれが唯ではなく、日高であることに気がついた。

 そして日高をこのまま放置すると、なんの躊躇もなくこの場所に居座りかねない。

「先生! 弁当を教室に置いてくるので、教室の鍵を借りてもいいですか⁉︎」

 その最悪の事態を防ぐべく、真弥は捲し立てるように要件を告げた。

「え? まぁ……いいでしょう、ついでに妹さんを帰らせておいてくださいね」

「はい! ありがとうございます!」

 ここ数日で一番の笑顔を浮かべながら、真弥は受け取った教室の鍵を片手に、唯に変身した日高を連れて廊下に出た。

 理科室からしばらく離れた辺りで日高は、真弥から小声で話しかけられた。

「お前、日高だろ?」

「正解なのです! 声も姿も違うのに見分けられるなんて、もしかしてお兄ちゃんはあたしのことが大好きなのですか?」

「それはない」

「おっ? 即答されると流石の日高さんでも傷ついちゃうぞ?」

「そう思うんなら、勝手に家の中に不法侵入したり、部屋の中に監禁したりするのはやめてくれ。話はそれからだ」

 自分の行動のどれがダメだったのか日高には今まで分からなかったが、少なくとも監禁と不法侵入は人間にとって忌避感を抱かれる行動であることは理解した。

「監禁と不法侵入はダメ、覚えておくのです!」

「そうしてくれ」

 本当に理解してくれたのかという不安から、真弥はため息を一つ吐いた。

「真弥ってほんとため息多いよね」

 周囲に誰もいないことを確認して、いつものように日高の姿を取る。

「その原因が自分であるというご自覚をしていらっしゃらない?」

 日高の言動が原因の心労であることに気づいていなかったことを尊敬語で追求しながら、真弥は教室の鍵を開けた。

「ところでこの弁当、日高が一人で作ったのか?」

「作ったのはあたし一人だけど、ちゃんと妹ちゃんが教えてくれたレシピ通りに作ったよ?」

 もしかして真弥は自分が作ったお弁当が気に入らなかったのだろうか? と、日高は少し不安になってきた。

 ここ数日、真弥以外の人間と会話して日高にも分かってきたことがある。

 人間というのは自分達と違う考え方の存在や、理解できない存在に対して極端に恐怖や嫌悪といった負の感情を抱くということだ。

 この場合、日高は教室という閉鎖的なコミュニティにおいて異端以外の何者でもなく、そしてそれは……きっと真弥にとっても例外ではない。

 なにより真弥は、日高のことを偽物ではないと認めてくれたが、許すとは一言も言っていない。

 それは好き嫌い以前の問題で、真弥にとって日高は、クラスメイトを殺した怪異以外の何者でもないということだ。

「……さてと、目的は達成したし。あたしもさっさと帰りましょうかね」

「思ったよりあっさり帰るんだな?」

 不満そうな顔で真弥が問い質す。

「……もしかして、あたしが帰ったら寂しかった?」

 本心を隠すように、日高は精一杯悪戯っぽく微笑んでみせる。

「まさか。けど……その笑顔が偽物ってことくらい、僕にだって分かる」

 今の一瞬でそんなことまで見抜かれると思っていなかった日高は、思わず口を噤んでしまう。

 真弥はおそらく、日高の内心を探るためにカマを掛けたのだろう。

 この場合、日高の沈黙がそのまま笑顔を偽ったことの証明に他ならなかった。

「僕には六川みたいに人の考えを理解することもできなければ、唯みたいに本気で人のために傷つくことだってできない」

 真弥は悲しそうに目を伏せながらそう言った。

「でも何かを隠してるってことだけは、何かに悩んでるんだってことだけは分かるんだ……なら、話を聞くしかないじゃないか――」

「それが自分のための偽善だとしても、たとえ相手が望んでいなかったとしても、にはそれしかできないんだから……」

 真弥の言葉の続きに被せるように話す日高に、真弥は口を開けたまま呆然と立ち尽くしていた。

「『日高美知』は、真弥のそういう所まで知った上で好きだって言ってた。もちろん、あたしもね」

 誰よりも真弥のことを理解し、それ以上に誰よりも真弥のことが好きなのは他でもない、日高自身だった。

 そこにはオリジナルも偽物も存在せず、ただ真弥のことが好きであるという事実だけがあった。

「だからさ、今日は帰るけど……今度会うときは『日高美知』じゃなくて、の話を聞いてほしいんだ」

 日高は弁当箱を真弥に押し付けるようにして渡すと、真弥の返事を待つことなく軽快な動作で教室から廊下の外に出た。

「約束だよ真弥、それじゃあまたね!」

 そう言い残して日高は、無人の廊下を駆け抜けて真弥の視界から消えていった。



 自宅廃ペンションに帰る途中で、日高は奇妙な違和感を覚え、ふと足を止めた。

 いくら平日昼間の住宅街といえど、まったく人の気配がしないというのは明らかに異常だからだ。

 それに、微量ではあるが肌に魔力が纏わりつくような気持ち悪い感覚は、結界などに入り込んだ時特有のそれである。

 嫌な予感がして、日高は周囲への警戒を強める。

 温度や気流の流れの変化、エコロケーションを利用した周囲の物体の探知、自分の五感全てを研ぎ澄ませて周囲の様子を探る。

 周辺温度の変化はない。

 だがエコーロケーションには三人分の人間の反応があり、左前方に一人、右側に一人、左後方に一人が布陣されている。

 ご丁寧に全員が遮蔽の裏側に隠れていて、日高からは全く姿が見えない。

 こちらから攻めるべきかどうか日高が悩んでいると、突然気流の流れが変わった。

 慌てて日高が後方に飛び退ると、先ほどまで日高のいた場所が人一人は優に巻き込めるであろう大きさの強い光を放つ高熱の塊によって焼き払われた。

「うぉっ⁉ 《火属性の魔力弾フランメ》⁉」

 火属性の魔術はただ炎を操るだけでなく、熱や破壊といった概念を内包するために術式に組み込まれることがある。

 この巨大な光線の場合は、後者の使い方が該当する。

 その証拠に家屋やアスファルトは高熱によって熔解し、二軒の家屋を挟んだ向こう側には、恐らく今の砲撃の主であろう、子供の背丈ほどの大きさもある杖を構えている青年がいた。

「今のを避けますか……すみません、仕留め損ねました」

 青年は多少驚いた様子ではあったが、冷静にその場から距離を取ろうとする。

「そう簡単に、はいそうですかって逃がす訳ないじゃん!」

 視覚外から何度もあの砲撃を続けられれば、日高といえどいつまでも避け続けてはいられない。

 日高は熔解していない安全な場所に着地した瞬間、距離を離される前に確実に青年を仕留めるべく、一気に地面を蹴って魔術の砲撃によって風穴の開いた家屋の中を飛ぶように駆けていく。

「こいつ、想像よりずっと速い!」

 日高が一軒目の家から出てきても、青年は最初の砲撃地点からまだ五十メートルも移動していなかった。

「これならすぐ追いついて――」

「とはいえ、作戦通り誘い込みましたよ。ハウンド・ドッグ」

 日高が二軒目の家から飛び出すのとほぼ同時に青年はくるりと身を翻すと、未だ姿を見せていない残り二人のうちの一人に呼びかけた。

「アンタはパンツばっかり見て、初撃を外してンじゃないわよイーグルアイ!」

 少女が言い終わるのと同時に、周囲の空気を震わせるほど騒々しいモーターの駆動音が日高の耳に届いた。

「ッ⁉」

 咄嗟に日高は自分の腕を蟷螂カマキリに変化させ、振り向きざま背後から近づいてくるその音の発生源へと叩きつける。

 ――瞬間、金属同士が激しく擦れ合う耳障りな高音と共に凄まじい勢いで火花が周囲に飛び散った。

 日高が鎌で迎撃したのは、崩れた家の二階から飛び降りてきた中学生くらいの見た目の少女が携行する、本来伐採に使われるであろう電動の工具。

 即ち、チェーンソーであった。

「アンタが学校で暴れてSNSに晒し上げられてたヤツね? 怪異の癖にケッコーやるじゃん。けど良いの? そのまま防御してたら、自慢の前脚が切断されちゃうよ!」

「ご忠告どうもッ!」

 日高は重心を前に傾けつつ、少女の腕ごと携行する工具を力任せに上方に弾いた。

 次の攻撃は絶対に防げないということを悟ったのか、武装した少女は驚愕に目を見開く。

 錦織と戦っていた時に真弥が言っていた『殺しちゃダメだ』という言葉が脳裏を過ぎる。

 しかしいくら日高といえど、数の不利を背負っている状況で相手を無力化する手段まで選んではいられない。

 一人ずつ確実に脅威を排除すべく、日高は少女の首筋目掛けて右腕を振るった。

「あ、これ死――ぬわけないじゃん!」

 少女は嗜虐的な笑みを浮かべながら工具から手を離すと、バク宙の要領で日高の鎌を紙一重で回避する。

 だがそれだけでは終わらず、先ほど手放したチェーンソーを空中で再び掴んでそのまま日高の前脚に叩きつける曲芸染みた離れ業をやってのけた。

「すごい戦い慣れてるみたいだけど、いきなり攻撃してくるってことは薔薇園ローゼンハイヴ放浪者ノーマッドじゃないよね? どこの所属?」

「本来は必要ないけど、敢えて名乗ってあげる。アタシは監視機構パノプティコン第六研究所所属の人造人間レプリカント。ハウンド・ドッグよ!」

 監視機構パノプティコンという名前を聞いて、先ほどまで余裕そうにしていた日高が僅かに表情を強張らせた。

 十九世紀半ばに作られた囚人達を最も効率よく監視することができる建物の名を冠したその組織は、監視機構パノプティコンという名前の通り、魔術や超能力といった特殊能力を持った人間。

 放浪者ノーマッドと呼ばれる、現代社会のどこにも居場所のない異端者と、怪異と呼ばれる人ならざるものを監視し、安全に管理できるようにすることを目的に設立された、研究機関の一種である。

 人造人間レプリカントは、監視機構パノプティコンの理念を実現するためだけに作られた人造人間レプリカント群の呼称である。

 単騎の戦闘力は決して日高よりも高い訳ではない。

 だが訓練によって培われた技術と連携力は、その実力差を覆して余りある。

 特にこの場合、日高を捕まえるために数人の人造人間レプリカントを投入したということは、向こうに高い勝算があることの裏返しである。

「真正面から受けるとかバカじゃないの? こっちはチェーンソーなのよ!」

 高速で回転する刃の群れが、円弧を描く日高の鎌状の前脚を着実に削り取っていき、数秒も経たないうちに日高の前脚はあっさりと切断され、宙を舞った。

 追撃しようと駆け寄ってくるハウンド・ドッグから一定の距離を保ちつつ、日高は切断されて宙を舞っている前脚目掛け腕から黒い液状の触手を伸ばす。

 宙空にある前足の断面に触手を繋げると、先ほどまで腕のあった部分に引き戻して再び接合させる。

「木を切り倒すくらいビーバーだってできるよ。人間なら人間らしく、もっと頭使ったら?」

 接合した腕を人間のものに戻した日高は、感覚を確かめるようにグッパーと開いたり閉じたりしながら、敢えて挑発する。

 ハウンド・ドッグが日高に肉薄している間は残りの二人は射撃できず、怒りに支配された人間の動きというのはとても単調で読みやすい。

 人間の感情を理解できるようになってきた日高だからこそできる、ハウンド・ドッグを孤立させるための計算された意図的な挑発であった。

「……なにそれ、アタシが頭を使ってないって言いたいわけ?」

 ハウンド・ドッグが露骨に嫌悪感を露わにする。

「頭を使ってる人間はそんな野蛮な武器使わないでしょ? あ、ごめん。キミは人造人間レプリカントだからそもそも人間じゃなかったね」

 日高がそう口にすると、少女はその瞳に強い憎しみを宿しながら日高の懐に飛び込んだ。

「ざっけんなッ! アタシたちはアンタと違って、命がけで命令に忠実な人形やらされてンだよッ!」

「いけない! 踏み込みすぎですハウンド!」

 先ほどイーグルアイと呼ばれていた青年の制止も聞かず、ハウンド・ドッグは日高に肉薄して首と胴を切り離すべくチェーンソーを振り下ろす。

「――そういうとこが、頭を使ってないって言ってるんだよ」

 日高は自らの左腕を厚手の布に変化させると、迷うことなくチェーンソーにその腕を突っ込んだ。

 布地はズタズタに引きちぎられ、勢いよくチェーンソーの内部に引き摺り込まれていく。

 切断された布が内部機材に絡まり、刃の回転を停止させる。

「――ッ!」

 日高は役目を果たした左腕を肩関節で自切し、残る右腕でハウンド・ドッグに掴みかかろうとする。

 このままでは死ぬと判断したハウンド・ドッグは、そのチェーンソーを手放して後方に跳躍した。

 だが跳んだということは、一瞬だけ身動きの取れない空中にいるということでもある。

「獲った」

 日高の背後から素早く黒い影が飛び出し、ハウンド・ドッグの肩口を貫いた。

 日高の背後から伸びるそれは幾つもの体節と堅牢な甲殻で覆われ、人間すら死に至らしめる猛毒を持った節足動物――蠍の尻尾であった。

「ハウンドッ!」

 空中で態勢を崩したハウンド・ドッグは、まるで死体のように地面に投げ出される。

 その間に日高は地面に転がっている焼け残っていた家屋を支える柱だった木材を取り込んで、先ほど自切した自分の左腕へと『変換』する。

 杖を構えて再び砲撃の構えに入ったイーグルアイに対して、日高はハウンド・ドッグの体を盾にしながら冷淡に言い放つ。

「あたしのことを撃ってもいいけど、この子はまだ生きてるよ?」

 神経毒の作用で、全身の筋肉が弛緩しきったハウンド・ドッグは、情けなく口を開けて虚ろな目で虚空を見つめている。

「卑劣な……」

「へぇ、三対一で襲ってくる人間がそんな言葉を使うとは思ってなかったよ!」

 あくまで砲撃を封じている間に、最後の一人を探す時間稼ぎ。

 そもそもこの状況において、日高は三つの不利を背負っている。

 一つは数の不利という戦術的な不利だが、残る二つは日高の精神的な理由だ。

 一つはあまり人型を崩して戦いたくない、真弥から可愛いと言ってもらえる自分でありたいという、見栄の問題。

 そしてもう一つは――人を殺してはいけないという真弥との約束を守るべきという律儀さである。

 このまま不利を背負いながら闇討ちを繰り返されれば、日高に勝ち目はない。

 しかし日高はレプリカント隊相手にかなり上手く立ち回っている。

 だが日高最大のミスは、相手が三人だと思い込んでいることにあった。

 パンッという短い炸裂音と共に、突然日高の右肘から先が弾け飛び、ハウンドと共に雑に地面に投げ出される。

 音の方向を見ると、隣の家の屋根にマスケット銃のような火器を構えた少年がいた。

「狙撃終了、目標への命中を確認。次弾の装填ができ次第、引き続き攻撃を続行する」

「リメンバーですか! すみません、助かりました!」

「礼など不要だ」

 盾にしていたハウンド・ドッグの腕を破壊され、その上で複数方向からの十字砲火クロス・ファイアを組まれたとなれば、日高にはもうアドバンテージなど何ひとつありはしない。

 一瞬でそう判断した日高は、射線を切るべく窓から隣の家屋に逃げ込もうとする。

 しかし塀の上を飛び越えた日高の足元に、スーツに身を包み、中折れ帽を被った三十センチメートルくらいの大きさの六体の人形が無言で散弾銃を構えながら立っていた。

 空中では回避機動を取る事ができない。

 ――それは、さきほど日高が自分で証明したばかりのことであった。

 人形たちはなんのためらいもなく引き金を引き、雨のように隙間のない銃弾が日高の体に叩きつけられる。

 しかし先ほどのように銃弾が体を貫いたりといったことはなく、代わりに日高の視界がグラッと揺らぎ、受け身も取れずに体が地面に投げ出される。

 肝臓への負荷や症状から推測するなら、それが高濃度のアルコール類による身体反応であることは明らかであった。

 だが日高が気にしていたのはそこではない。

 どうして、いまこの人形を探知する事ができなかったのか……突然狙撃手の少年から撃たれたのかが分からなかった。

 しかしすぐに日高はその理由に気がついた。

 何故なら、この建物の敷地全体でエコロケーションの反響音が一切聞こえなかったからだ。

 そんな芸当ができる能力などそうはない。

「あ~くそっ……妹ちゃんも中々やるじゃん」

 唯が特定の音だけを消すことができるということを日高は既に推理済みであり、唯がどこの組織とも関わっていない保証なもなかった。

 つまりこの場には、最初から日高が認識していた三人の人造人間レプリカントと音を消している唯の他にもう一人――つまりは五人がかりの作戦だったというわけだ

「あいよ、一丁あがりだ」

 日高の頭上から、やる気のない男の声が聞こえてくる。

 おそらくはその声の主が、先ほどの人形を操っていた人造人間レプリカントなのだろう。

「言うは易しだ。相手も頭を使っていることまでは考えられなかったのかい? 怪異さんよ」

「協力に感謝するスピークイージー。お前が管轄している《騒音のない世界ノイズ・サプレッサー》を借りてなければ、コイツは俺たちの手に余る怪異だった」

 先ほど日高を狙撃した少年が、社交辞令のように淡々と返答する。

「全くその通りだ! ったく……上層部はなんだってこんな厄介な怪異を野放しにしてたんだかな」

「それは監視機構パノプティコンのやり方に対する意見として、上層部へ報告すべきか?」

「勘弁してくれよリメンバー。俺たちが仕事を選べる立場じゃねえことくらい、ちゃんと分かってるさ」

「そうか、ならいい」

 そんな会話を聞いてる内に、日高の全身にアルコールが回ってきたのか徐々に意識が朦朧として、思考が纏まらなくなってくる。

 日高はその感覚が怖くて堪らなかった。

 我思う故に我在りというのなら、もし何も思えなくなれば――それは間違いなく今この瞬間も自分が存在していると言えるのだろうか?

 その考えを最後に、日高は自分が自分であるたった一つの証明である思考力を手放した。

 今度ばかりは、もう真弥のことを考える暇すらなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る