第四章『唯、仁を成す(Black Sheep)』
「この間の返事は、考えてきてくれましたか?」
隣の席に座る深山唯にそう問いかけたのは、腰まで伸びた綺麗な銀髪の少年だ。
そう、少女ではなく少年である。
とはいえ容姿は完全に少女のそれであり、むしろクラスの女子と比較したとしても、咄嗟に『どちらなのか』判別することは難しいだろう。
——そして彼、
「それは……」
唯は目を伏せながら言葉を濁す。
だがその反応で察することができないほど、成仁も鈍い訳でもなければ、唯と付き合いが短いわけでもない。
「あ~あ、これは完全にフラれちゃいましたね」
やれやれといったように成仁は肩をすくめる。
成仁も最初からこの告白が成功するだなんて微塵も思っていなかった。
心優しい唯のことだから、クラスでの自分の立場や周りの反応などを色々考えてしまうのだろう。
それでも成仁が唯に告白したのは、伝えなければ後悔すると思ったからだ。
自分たちももう中学三年生であり、高校に入ればいつまでもこの関係を維持していられるとも限らない。
いや——それすら方便だろう。
成仁はただ適当な理由を付けて、この想いに区切りをつけたかっただけなのだ。
唯に気を使って口では軽く溢したものの、やはり内心多少ショックではあった。
しかし後悔はない。
伝えるべきことは伝えたし、その結果が例え望む形でなかったとしても……それはそれで諦めが付くというものだ。
不思議なことに、唯との会話に茶々を入れてくるような人物はいない。
告白してフラれた、中学生にとってはそれだけで大騒ぎになりそうなものだが、不自然なほどに周囲のクラスメイトは二人の会話に反応を示さない。
初めて会った時から、唯のそばでは時折そういう不思議なことが起こるのだ。
※ ※ ※
それはもう、今から二年以上前の話である。
「お前さ、なんで女子の制服なんて着てるわけ?」
きっかけは三年の女子生徒からそう聞かれたことだった。
「どうしてと聞かれましても、好きだからとしか……」
その質問に答えるのは、成仁にとって難しいことであった。
何故それが嫌いかを説明することは容易い。
だが反対に、どうしてそれが好きなのかを説明するのはそう簡単な事ではない。
嫌いであることに理由はあるかもしれないが、最初から好きであったという以上の回答を、成仁は持ち合わせていなかった。
「あー違う違う。そういうことが聞きたいんじゃなくて、なんで私より男であるオマエの方がその制服が似合ってるのかって聞いてんの」
「え? えっと……そう言われましても」
「ほんとムカツく、そんなことないですよの一言くらい言えないわけ?」
「すみません……」
あまりにも理不尽な言いがかりに、成仁は咄嗟に頭を下げた。
「は? 許す訳ねぇだろ、馬鹿かお前は」
そのあまりにも短い一言をきっかけに、成仁の生活は一変してしまった。
最初はあたかも当然のことであるかのように成仁のことを無視したり、掃除当番を押し付けられたりする程度だったのが……。
気が付けば私物が無くなったり、給食に虫が混ぜられるようになったりと、行為は徐々にエスカレートしていった。
しかし誰がそんなことをしているのか分からない以上、成仁にはどうすることもできなかった。
――なにせクラス包みでの隠蔽だ。
民主制の悪い所というか……それ以前に教師でさえ本当の真実を知ることはできないから当然のことではあるのだが、仮にこのことを誰かに話したとして、証言の多い方を信じるのは当然のことである。
きっとこんな事を話しても誰も信じてくれないだろうし、無暗に『学級裁判』を開けば自分の立場は更に悪くなるだろう。
頼るべき味方もなく、今日はどんなことをされるのかと考えると、成仁はどんどん学校に行きたくなくなっていった。
それでも行かなくてはならないという、根拠のない使命感のようなものだけがあった。
成仁自身にも理由なんて分からないけれど、そうしなければもっと状況が悪くなるような気がしたのだ。
その辛さに比例するように、成仁はSNS上で自分が今日学校でどんな目にあったかを投稿するようになった。
それは誰かが助けてくれると思ったからなどではなく、この苦しみに誰かが共感してくれるかもしれないと思ったからだった。
その投稿はそれなりの人の目に留まり、多くの人からの同情と共感のコメントが寄せられた。
そんな生活が続くようになってしばらく経ったある日、それは起こった。
その日の成仁の班はトイレ掃除の当番だったのだが、その日も当然のように誰もおらず、成仁は一人だけで掃除をしていた。
だが……。
その途中で突然背後からなにかに弾き飛ばされ、成仁は個室の一つに無理やり押し込められた。
「わっ⁉︎」
その直後バンッと叩きつけるような音と共に個室の扉が閉じられ、ゴトッとなにか重たいものが床に置かれた音がする。
成仁は不思議に思いながら扉を開けようとするが、どれだけ押しても扉はびくともしない。
「え? なんで、なんでこの扉開かないんですか⁉」
個室が狭いため、開けやすくするという意図でその扉は外開きになっている。
だがこの場合はその設計が逆に仇となった。
扉の外には空き教室から持ってきたであろう机と椅子が置いてあり、それが扉を開かないように邪魔している。
もちろん中から成仁がそれを知ることはできない。ただ扉が開かないという事実があるだけだ。
そして扉の向こうからガタッという音が聞こえたのと同時に、上から大量の水を浴びせられる。
手入れのよく行き届いた長い髪も、可愛らしいデザインの制服も、学年別に分けられたなんの面白味もない上履きも、全て例外なく――等しく均等に、余すことなく冷たくて重い液体を吸い込んだ。
慌てて成仁が上を見たが、そこにはもう誰もいない。
誰が実行したのかすら分からないようにするための、あまりにも手の込んだ巧妙で陰湿なやり口だった。
そうなると内側からできることはもう何もない。
できるのはただ扉を叩くことと、外に助けを求めることだけだった。
「やだ! 開けて! ここから出して!」
体中に張り付く布や、足に力を入れる度にぐじゅっと溢れてくる水の気持ち悪さを気にする余裕もなく、成仁は誰かいるのかどうかも分からない外に向けて叫んだ。
だがそんな抵抗も長くは続かない、次第に体力を消耗して、扉を叩く気力も声を出す気力も削がれていく。
最初はすぐに誰かが気づいて出してもらえるはずだと思った。
だがだんだんと時間が経つにつれて、このまま誰にも見つけてもらえないんじゃないだろうかと思うようになってくる。
その頃には成仁は、どうして自分がこんな目に合わなくてならないのかと思うようになっていた。
それから数時間、下校時間を告げるチャイムが鳴っても誰一人として救助に現れるものはいなかった。
——寒い。
長時間に渡って体の熱が水に奪われたことで、低体温症を起こしかけている。
体の震えが止まらない。
この震えは体を温めるために筋肉が痙攣して起きる現象だと成仁は何かの本で読んだことがあるが……それも長く続くものではない。
バケツ一杯の水がこんなに恐ろしいものだなんて、成仁は思ったこともなかった。
完全下校時間を告げるチャイムが聞こえてきてもまだ誰も助けには来ない。
個室の中は既にかなり薄暗く、僅かに窓から差し込む灯りだけが唯一の光源だった。
その頃には自分の事を助けてくれるのならもはや人じゃなくても構わないとさえ思うほど、成仁は憔悴しきっていた。
だが突然、プツッと下校時刻を告げるチャイムが聞こえなくなった。
(スピーカーの故障ですか? いきなり聞こえなくなって……)
そう言葉にしようと思ったのに、口は動かしているのに、成仁の喉からはなんの音も発されていない。
いや——それどころかむしろ、他のどんな音も聞こえない。
もう耳が聞こえない程に自分は衰弱してしまったのだろうか?
そう思った直後、ゆっくりと個室の扉が開いた。
外に立っていたのは辛そうに俯いている小柄な女子生徒で——この時の成仁には知る由もないが、それが深山唯だった。
「あの、あり……」
「ごめんなさい」
開口一番、その小柄な少女は謝りながら成仁から視線を逸らした。
「え?」
「あなたのことを助けたこと、正直後悔してるのです。次は自分がイジメられるんじゃないかって……今も怖くて、膝が震えてるのです」
少女の膝、いや膝どころではない。
全身が震えている。
顔も恐怖で引き攣っていて、とても人を助けられてよかったというような顔ではない。
「なんで……そんなになってまでボクを助けたんですか?」
「あまり褒められた理由ではないのです。唯はただ、これ以上自分が酷い人間だって……思いたくなかっただけで……」
成仁はそれが酷い理由だとは思わなかった。
むしろ今まで成仁がどんな目に遭っていたのか知った上で行動したのなら、それはよほどの世間知らずか度を越したお人好しだ。
だから自分のためという理由の方が腑に落ちるというか、自分のために人を助けたという一見して奇妙な言葉に、成仁はなんとなく納得してしまった。
「けど、やっぱりダメだったのです……」
「ダメ?」
それのどこがダメなのか、成仁には全く分からなかった。
これ以上自分を嫌いになりたくないから人を助けた。
それも十分立派な理由のはずだ。
そんなこと、誰にでも言えるようなことではない。
だからこの少女がその理由のどこがダメだと言っているのか、成仁には分からなかった。
「本当はもっと早く助けに来ることもできたのに……それで今度は自分がイジメられるかもしれないと思うと、出来なかった……だから誰もいない完全下校時間まで待ってから来たのです……でもそれって卑怯、ですよね」
その考え方はあまりにも自罰的で、少女がとても卑屈な性格をしていることが窺える。
いったいこの少女がどこを目指しているのかなど、成仁には知る由もない。
だがやはり、それが悪い考えだとは成仁は微塵も思わなかった。
たとえそれが偽善であろうと、成仁にとってはそれで十分だった。
だって、こうして人が来てくれたことが、少女がこの辛さに共感してくれたことが……こんなにも嬉しかったのだから。
※ ※ ※
それで何かが変わるほど現実はそう単純な問題でもなく、その翌日には誰が成仁を逃がしたのかという犯人探しが始まり、疑心暗鬼で互いに罪を擦り付け合う不毛な言い争いにまで発展した。
それで一番心を痛めたのは、他でもない唯自身だった。
自分が成仁を助けなければここまで事態は悪化しなかったのではないのだろうか?
電気の点いたリビングのソファーでクッションを抱きしめたまま、唯は学校から帰宅したばかりの兄を横目にそんなことを考えていた。
「もし一人を生贄にすることで救われる村があったとして……でも本人の意思に関係なく生贄になった人がいるなら、お兄ちゃんならどっちを助けますか?」
荷物を整理している最中の真弥に、唯はそんな例え話をしてみる。
自分がした行動は正しかったのか、それとも間違っていたのか……頭の良い真弥なら忖度なく答えてくれる気がしたのだ。
「一人を犠牲にすれば村が助かる、ね。規模がデカいし……一人の生贄で村が救えるなんて非科学的な状況だけど、要は『トロッコ問題』だろ?」
「『トロッコ問題』……なのです?」
真弥は頷いて、その概要を説明し始める。
「『トロッコ問題』っていう、有名な倫理学の思考実験がある。線路の上に二人の人間がいて、暴走したトロッコはその内一人を轢き殺してしまう。ただし、自分はレバーを切り替えて、どちらか片方だけを救うことができるっていう趣味の悪い思考実験だ……実際にはもう少し細かいルールがあるんだが、とりあえずそれだけ理解してれば問題ない」
そう言って真弥はカバンからルーズリーフを取り出し、何も書いていないページを開いて丸い円の中に人という文字を二十個描いた図を作ってみせる。
「唯が想定している規模が分からないから、二十人の人間が住んでいる村があって、その内一人から無作為に生贄を捧げれば十九人の人間が救えると仮定しよう……あとは問題を単純化するために村人の役職や人柄、関係性などは考えないものとするぞ?」
二十個ある人という文字の内の一つを真弥は赤い線で丸く囲み、その上に短く生贄とだけ書いた。
その無機質な表現の仕方に、唯の背筋にゾクリとうすら寒いものが走った。
「そしてこの場合、村の部外者である唯だけがこの生贄の人間を助けられる。さて、ここからが本題なんだが……唯は一人の生贄のために他の十九人の村人を犠牲にすることが出来るか?」
言葉を濁すことなく、真剣な表情で真弥は唯に問いかけた。
「それは……」
「出来ないだろ? もちろん、俺にもできない」
悩むことなく、真弥はあっさりとそう言った。
やはり自分が間違っていたのだろうかと思って俯いた唯に対して、慌てて真弥は付け加えた。
「でもそれはあくまでも理屈の上での正しさでしかなくて、現実には一人が生贄になれば救われるような村なんて存在するはずがないし……感情的には一人を生贄にするなんて行為が正しいはずがない」
あまりにも身も蓋もない真弥の理屈に、唯は呆気に取られた。
「それだと、まるでなにも正しくないと言っているように聞こえるのです」
「そう『トロッコ問題』には正解がない」
唐突にバッサリと今までの話を放り投げるような発言をされて、唯は更に困惑した。
「この問題は、どれだけ理屈を連ねようと感情的になろうと……結局は観測者の主観でしかないんだ」
「意味がよく分からないのです……」
難しい顔をしている唯に対して、真弥は優しく微笑みかけた。
「一つだけ確かなのは、唯が大切にしたいこと以上の正解は存在しないってことだよ」
「唯の大切にしたいこと……」
その言葉はとても暖かくて、優しい言葉であるはずなのに……どうしようもなく唯は胸の辺りが締め付けられるように感じる。
しかしそれがどうしてなのか、唯にはすぐに分かった。
——こんなにも胸が苦しいのは、自分が真弥のようにはなれないということが分かってしまうからだ。
唯が他人から非難されるのが怖いから他人に優しくしているのだとしたら、真弥のそれはどこまでも憧れに近づくための手段でしかない。
しかしその動機を知らない唯からすれば、それは誰にでも分け隔てなく優しいということで……理屈と感情の正当性を持って正しさを図る真弥の在り方は、唯にとって正しく『正義の味方』だったのだ。
自分もそうなりたかった――いつかそうなれると、ずっと信じていた。
しかし改めて唯と真弥の差を突きつけられ、自分は決してそんな『正義の味方』になり得ないことが分かってしまう。
唯にはそんな自分が、兄と比べた時にどこまでも卑怯で、小動物のように臆病な……どうしようもない人間であるように思えて仕方がなかったのだ。
※ ※ ※
「そこの可愛らしいお嬢ちゃん、魔法を使ってみたいと思った事はないっスか?」
下校している最中だった成仁は、その奇妙な問いに足を止めた。
声の方を向くと、フード付きの黄色いローブを身に纏った軽薄そうな声の男が、路地裏と街道の境界線上に立っていた。
目深にフードを被っているため目元は分からないが、辛うじてニヤついた笑みを浮かべた口元だけは見る事ができた。
あまりにも胡散臭いので無視してその場を離れようとした成仁のことを、男は慌てて引き止める。
「おっとと、まあ話だけでも聞いてくださいよ!」
「魔法なんて……そんなの今どき小学生でも騙されませんよ」
そう吐き捨て家路を急ごうとする成仁の前に、いつの間にかその男は移動していた。
歩いたとか、走ったとか、『普通』の移動方法ではない。
どうやってかは分からないが、その男はなんの痕跡もなく成仁の前に突然現れたのだ。
「見ての通り種も仕掛けもございません、ってね! どうっスか? ちょっとは魔法信じてみる気になっちゃったりして?」
相変わらずやけに高いテンションで魔法という胡散臭いものを信じさせようとしてくる男を訝しむように、成仁は眉を顰める。
「どういうトリックかは知りませんが、手品ならまた今度にしてください……今はそういう気分じゃないので」
「トリック? 参ったな……認識阻害の礼装じゃ目立たなさすぎるか。かといって街中で派手に魔術を使うわけにもいかないしな~」
男は困ったように唸っていたが、しばらくして何か思いついたのかふと顔を上げた。
やはりローブで目元が隠れていて見えないが、男の口元は横一文字に引き結ばれていて、真剣な表情をしているのだろうなということが伺える。
「かつてとある天才科学者がこう言ったらしいっス、『神はサイコロを振らない』ってね……」
先ほどまで魔法がどうのと言っていたとは思えないような、先ほどのやり取りを前提から覆すような発言を男は始める。
「天才科学者曰く、観測結果の不確実性は未だ解明されていない未知の物理法則があるからなんだとか……もちろんそれが本当かどうかは正直知らないっス。自分、あまり頭良くないんで」
その奇抜な服装と相まって、その男は本当に頭が悪いのではなく、自ら道化を演じているのではないかという印象を成仁に与える。
「けどもし、この世界にまだ現代の科学で解明できないような未知の法則があるとするのなら……それは魔法といえるとは思わないっスか?」
様々な人の行き交うこの現代的な街道で、成仁の前に立つ黄色いローブを着た胡散臭い男は饒舌にそう語った。
「今では薬草から薬が作れるのは当たり前かもしれないっスけど、当時はそれも立派な魔術だった……何故ならどうしてその薬草が有効なのかを科学的に説明することができないからっス……ってまあ、全部うちの師匠からの受け売りなんスけどね」
一瞬納得しそうになってしまったが、大きく頭を振って成仁はその理屈を否定する。
「そんなのただの言葉遊びです! 魔術なんて存在するはずがない、あったとしてもそれはその人の中だけの話でしかない!」
奇跡は起こらないから奇跡なのだ。
誰も自分を救わないし救えない。
成仁にとってあの日、一人の少女に出会えたことは、それだけで十分過ぎるほどの奇跡だった。
――それで十分だ。
これ以上、どうにもならないことを、どうにかなるかもしれないなんて思うのは沢山だ。
「……その人の中だけの話、ねぇ。別にそれでいいんじゃないっスか? 正直人間って自分のことを救ってくれるなら、ぶっちゃけそれが科学だろうが魔術だろうがどっちでもいいんスよ。というかもういっそのこと、神だろうが人だろうが怪異だろうが……自分のことを救ってくれるならなんでもいいんっス」
「——ッ!」
実際男の言葉は正しかった。
成仁は狭くて冷たい個室の中で確かに願った、誰でもいいから……なんでもいいから自分を助けて欲しいと。
だからこそ男の上から目線で無責任な物言いが癪に触ったし、その一言は今まで限界まで抱え込んでいた成仁が抱えていた想いが溢れ出すきっかけとなった。
「なら実際に救ってみてくださいよ! 生きてて良かったって……明日が来て欲しいって心の底から思えるような奇跡を、今ここで起こしてみてくださいよ‼」
今まで押さえ込んでいた感情が溢れるように、成仁は周囲の人々の視線も気にせず、その場で泣き崩れる。
「……そっちが本音っスか? 最初からそう言っておけば良かったのに」
フード越しに頭を掻きながら、男は成仁の視線に合わせてしゃがみ込む。
「けど、奇跡の代償はそう安くないっスよ? 魔術の歴史とは迫害の歴史……人と違うということはその社会で孤立することを意味する。それでも奇跡を望むというのなら、
男はそう語ると、成仁に向けてあくまで対等だとでもいうように右手を差し出す。
先ほどまで見えなかったフードから覗く男の目は、成仁に優しく微笑みかけるように温かな眼差しをしていた。
それは成仁のこれからの人生を大きく左右する分岐路となるだろう。
だが答えなど最初から決まっていた。
「なにを今更……最初から居場所のないボクには、なんの関係もない話じゃないですか」
手の甲で涙を拭いながら、成仁は男の手を取った。
「いい返事っス」
男は成仁の手を引きながら一緒に立ち上がる。
「自分らの使う力は、魔術だろうが超能力だろうが、纏めて
「どうしてそんな名前に? どうせならスキルホルダーとか、もっとカッコいい名前をつければいいのに……」
成仁の素朴な疑問に対し、男は苦虫を噛み潰したように唇を歪めながら肩をすくめた。
「それはこの能力の名前の由来が、現代社会のどこにも居場所がないから……或いはこの能力で自らの心の空白を埋めようとする姿が彷徨っているように見えることから、それを揶揄して
魔術師になる人間が最初に理解すべきことは、魔法と魔術は違うということである。
魔法は正式名称を魔導法則と呼び、特定の条件下で起こる異常現象の総称である。
魔法がなんなのかという問いには諸説あって、それがなんなのかは誰も知らないし、分からない。
だがもし成仁に魔法がなんなのかと聞けば、無機質なシステムそのものだと答えるだろう。
ただそこにあるという事実だけのある一定の法則。
それを魔術師達は魔法と呼ぶ。
一方魔術は、その魔法を研究する過程で生まれた『副産物』であり、生命力や精神力といったものから生み出した魔力という
具体的には、儀式や呪術などの手順を踏んで、運勢や病などの概念に作用するオカルト色の強い方が魔法。
魔法陣や呪文などで、火を操ったり空を飛んだりなどの物理現象に作用するファンタジー色の強い方が魔術である。
魔術を構成する要素は大きく分けて二つ。
先ほど説明した魔力と、術式と呼ばれる魔術の設計図である。
例えば成仁の魔術は、祭壇を用意して然るべき日時に正しい手順で行うことで生贄の体を相手の体に見立てることで、生贄が受けたダメージを対象に与えるという魔法を元にしている。
では何故、魔術は魔法に則って面倒な手順を踏まなくてはならないのか? という問いが発生する。
その解答は単純に、人間の魔力量で再現できる奇跡に限界があるからである。
魔術とはあくまでも、魔力という
魔法の再現度が下がれば、それだけ魔力の消費が増えていく。
故に魔術師は術式を作る際に、なんらかの魔法から引用しなくてはならない。
それは成仁も例外ではなく、自分に危害を加えた人間への報復に術式の対象を限定することで、『共感魔術』の法則に則って魔力消費を軽減している。
まず元となる魔法をよく理解し、自分の想定する用途に合わせて術式として再解釈する。
その結果、自身の望む術式となっているかどうかを実際に魔術を行使して確認する。
その流れを繰り返すことが、魔術師になるということだ。
そういう意味では、魔術師は一種の研究者であると言える。
そうして成仁がどうにか完成させたのは、《
『目には目を、歯には歯を』という原初の法を強制的に適用し、加害者に同じだけの災厄を招来させる最も初歩的な呪詛返しの呪い。
それが成仁が初めて使えるようになった魔術だった。
夢も希望もないような魔術だが、それこそ成仁が心の底から望んだ奇跡そのものだった。
誰に対しても平等に、悪意に対して悪意無き暴力で返す自動報復システム。
その効果は成仁の予想以上の成果を上げた。
成仁の給食に虫を混ぜればそれと同じ虫が実行者の給食の中に現れ、成仁のものを奪えばそれと同じだけの価値を持つ物品が相手の元から消える。
流石に掃除当番といった概念にまでは作用しないが、物理的に害を及ぼそうとすればそれと同じだけ相手に呪いの被害が降りかかる。
あまりにも連続して起こるその現象の犯人が成仁だと周囲が思うようになるのは、時間の問題だった。
「成仁、お前最近調子に乗ってるよな? 毎回給食に虫を混ぜたり、人ものを奪ったり姑息な真似ばかりしやがってよぉ!」
「それは、ボクが何かしたって証拠があるんですか?」
「とぼけるな! こんなことして喜ぶ奴が、お前以外に誰がいるんだよ!」
酷い言葉だった。
それは逆説的に、成仁をイジメて喜ぶ人間がいるということではないか。
「知らないものは知りません。それじゃあ、ボクはこれで……」
「待ちやがれ! まだ話は……」
踵を返して教室を後にしようとした成仁の肩を強く掴んだ男子生徒の肩に、それと同じだけの圧力がかかる。
驚いてその男子生徒が自分の肩を見るも、そこには誰かの手が置かれている形跡はない。
「痛いですよ? 離してください」
男子生徒が慌てて手を離すと、ふっと肩の圧力も消え去る。
まるで魔法のような現象に驚きつつも、男子生徒はついこの間まで縮こまっていた成仁の毅然とした態度に苛立ちを覚え、無理やりにその手を引っ張った。
「お前、ちょっと来い!」
だが自分の手が突っ張るばかりで、成仁の体は少しも動かない。
「くそっ、なんでこんなに力が強いんだよ! 悪ぃお前ら、力を貸してくれ!」
何やってんだよとか、しょうがないなとか……各々口にしながら三人掛りで成仁の手首を掴んでいる男子生徒の手を引っ張った。
次の瞬間、ゴキっという鈍い音が教室中に響き渡った。
「痛ッ⁉ なん、ええっ⁉ これ腕、オレの⁉」
支離滅裂な言葉を叫びながら、男子生徒は自身の肩を強く押さえる。
肩の先から力なくだらんとたれ下げられている腕は、どう見ても脱臼していた。
「——ッ!」
その男子生徒に引っ張られた成仁の腕も、全く同じように脱臼していた。
《
自分が受けたダメージを相手にもフィードバックする魔術だ。
先ほどまで拮抗していたのは、あくまでも成仁の腕を引っ張った分だけ向こうの腕が引っ張られていたからであって、仮に成仁の腕が脱臼するほどの力で引っ張られれば、成仁の腕ももちろん脱臼することになる。
本当はここまで大怪我をするつもりは成仁にもなかったが、こうなってしまった以上は言わなくてはならない。
これからの自分の未来の為に――痛みで覚悟が揺らいでしまう前に。
「人に暴力を振るうことができるのは、他人の痛みを理解できないからだと……ボクは思うんです」
「お前、こんな時になに言ってるんだよ……その腕、お前も脱臼してるんだろ⁉ 人に説教してる場合かよ!」
苦痛に顔を歪めなら男子生徒は喚いた。
「そうですよね……けど、これでようやく『同じ条件』だ」
肩の関節が外れた痛みに耐えながら、成仁はそう言った。
「……は?」
「思ったんです……他人を傷つける度に自分が傷つけば、簡単に他人を傷つけることなんか出来なくなるんじゃないかって……」
「お前、なに言って……」
「暴力には報復が! 痛みには憎悪が、罪には罰が必ず待っている……この中にそこまで考えていた人が、明日は自分の番になるかもしれないと本気で考えていた人が、どれだけいますか?」
その問いに答えたのは、成仁と同じだけの傷を負っている男子生徒だった。
「お前の事情なんて知らねぇよ……別に俺だけのせいじゃねぇ! そんなに復讐がしたけりゃ、勝手に主犯のやつとやりあってればいいんだッ!」
それは痛みのせいで取り繕う余裕がないからこそ出た、あまりにも無責任な本音だった。
だがある意味でそれは、この教室の総意であるとも言える。
だからこそ成仁はこう答えるのだ。
「――別に復讐がしたかった訳ではないんです。ただボクは……この痛みを誰かに理解してもらえるなら、それでよかった」
それが、成仁が数ある奇跡の中から呪詛返しを選んだ理由だった。
復讐のためではない。
成仁が本当に欲しかったのは、他者からの『共感』だったのだ。
この境遇に、この痛みに、この声に『共感』してくれるなら……誰でもよかった。
自分の内から溢れる想いと、肩に走る激痛から成仁はその場で小さくうずくまると、静かに涙を流した。
それ以降、成仁に対する嫌がらせの数々は徐々に鳴りを潜め……原因となった三年生の卒業と共に完全に終わりを迎えた。
それは成仁の魔術が呼んだ奇跡だったのか……それとも脱臼して尚、訴えかける覚悟が功を奏したのか……はたまたその両方なのか……今となってはそれを知る術はない。
ただ一年というあまりにも長い時間は成仁を人間不信に陥らせるには十分過ぎる時間で、魔術という存在を知ってしまった成仁はもう二度と平穏な暮らしに戻ることはできないという事実だけがあった。
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