第三章『真とは弥々ほど遠く(Femme Fatale)』

 教室のそこかしこから、クラスメイト達の楽しげな談笑が聞こえてくる。

 その多くは昨日見た動画とか、テレビとか……好きなアイドルや俳優の話。

 そのどれもが――ここにはいない誰かの話。

 自分のことを話している人間もいなければ、熱心に他人の話を聞いている人間なんて一人もいない。

 誰も本当の自分を表に出そうとしていなくて、誰もそれをなんとも思っていなくて……でもそれはどうしようもなく『普通』のことで、自分の身を守るためには必要なことだというのもわかる。

 しかし誰一人信用できないこの教室が、この今にも窒息してしまいそうなほど息の詰まるような感覚が、真弥は嫌で仕方なかった。

 周りの大人たちは『そういうものだから』もしくは『いずれ慣れる』といった無責任なことを言う。

 真弥自身、自分がそのことについてどう思っているのかを上手く言葉にすることはできないし、そのことについてどう思えばいいのかも分からない。

 ただそれでも一つだけ思うことがあるとするのなら――自分はなんのために、いつまでこんなことを続けるのだろうという……漠然とした不安だけだった。


                ※ ※ ※


 夢と現の境を彷徨っていた真弥の意識を、騒々しいアラーム音が無理やり浮上させる。

 夢の内容の半分も人は覚えていないというが、少なくとも真弥が覚えている部分はひどく懐かしく、それでいてあまり思い出したくない記憶だった。

 あの時からもう五年近く経つにも関わらず、未だに真弥はその漠然とした悩みに対する答えを持ち合わせていない。

 ただ一つだけその時から変わったことがあるとするのなら、今のままで本当にいいのかと考えるようになったことだろう。

 もっとも昨日はいろんなことがあり過ぎて、真弥も考えることをすっかり忘れてしまっていた。

 だがそれは考えていなかったというより、そもそも考えることが難しくなったと表現すべきだろう。

 真弥の信じていた常識は、日高というたった一人の少女によって、僅か一日で消し飛んでしまった。

 真弥には信頼している社会制度もなければ、信仰すべき教えもない。

 あるのはただ『普通』であるべきという、誰が言い出したのかもわからない同調圧力だ。

 だがその常識すら正しくなくて信じられないというのなら、いったい自分は何を信じていけばいいのだろうか。

 だがどれだけ考えたとしても、結局のところ真弥には何が正しいのかなんてことは分からない。

 だが分からないことを分からないと言わないことが哲学であり、それを立証して理解できるようにすることこそ科学なのだ。

 だとしたら考えることを分からないからという理由で放棄してしまうのは、科学技術に頼る現代人として失格ではないだろうか。

 そんな物思いにふける真弥の部屋の扉を、優しくノックする音が聞こえてきた。

「お兄ちゃん、もう起きてるのですか?」

「起きてるけど、そんなに畏まってどうしたんだ?」

「それが……その――」

 言い難そうに唯が口籠るのを不思議に思いながら、真弥はカーテンを開けてベッドから起き上がると、扉の前まで向かう。

 その直後にバンッと勢いよく扉が開いて、驚きのあまり真弥は、軽く飛び上がった。

 しかし何よりも真弥が驚いたのは、扉の前に立っていた人物の姿だ。

「おはよう真弥、ちょっとお邪魔してるよ」

 屈託のない笑顔を浮かべた日高が、そこには立っていた。

「邪魔するなら帰ってくれ……」

「あいよ〜ってなんで⁉ おかしいよ真弥!」

 日高は一旦階段を降りようとしてから、慌てて真弥の方に向き直った。

「おかしいのはお前だ。なんでこんな時間から人の家に来る?」

 昨日の夜は明日も学校で会えるからと説得してどうにか帰ってもらったが、逆に言えば学校に行くまでの間は会わなくても済むはずだったのだ。

「ほら、ヒロインが男の子を起こしにくるのって定番じゃん?」

 理解はできるが、納得しがたい理由を供述する日高に真弥は深いため息を吐いた。

 こうなった日高はきっと、どんなことを言っても聞いてくれないだろう。

「準備するから、その間ちょっと待ってろ」

 そう言って真弥は勢いよく部屋の扉を閉めた。



 前略、日高美知は怪異である。

 当然のことながら、真弥の短い人生の中でそのような存在に出会うのは初めてのことであり、なんならつい昨日まで魔法や妖怪といった存在を迷信、ないし空想上の産物と定義していた。

 しかし実際に目の前に現われてしまった以上、認めないというわけにもいかない。

 どうして存在するのかとか、いつからいるのかとか……そういったことは一切分からない。

 だけどそこに怪異がいるという事実だけは、往々おうおうとして存在している。

 ――何故なら真弥はいま、そんな怪異と学校に登校しているという不思議な状況にいるのだから。

「ふと思ったんだけどさ、日本の家庭料理って海外の家庭料理に比べて調理時間が物凄く短いと思うんだよ……なんで?」

 物凄く真面目な顔で、物凄くどうでもいいことを聞いてくる日高に呆れながら、真弥はなんの確証もない適当な解答をする。

「……そもそも出汁を取る手間を考えたらどこの国も調理時間はあまり変わらないんじゃないか? とはいえ、強いてそう感じる理由を挙げるなら……日本の気候が高温多湿で、他の国より食べ物が腐りやすいからだ。だから刺身みたいなその場で食べるとか、長期保存できる発酵食品みたいな方向に料理が進化していくんだよ」

 実際のところ、それっぽく聞こえるような理屈を並べただけで、それが正解なのかどうかは真弥も知らない。

 だが日高はその答えに納得したのか、軽くポンと手を叩いてみせる。

「あ~言われてみれば……ん? でもそれだと高温多湿じゃない国で発酵食品が発達するのはおかしくない?」

 前言撤回、やはりまったく納得していなかった。

 一度疑問を持つと自分が納得できるようになるまで考える。

 日高は初めて会った時からそういうやつだったことを、真弥は今になって思いだした。

「昨日からずっと思ってたんだが、お前は何か考えてないと死ぬ呪いでも掛かってるのか?」

「別にそういうわけじゃないけどさ……ほら、よく我思う故に我在りって言うでしょ?」

「言っとくがそれ、使い方間違ってるからな?」

「うそ⁉ これって考えることができるから自分が存在するって意味じゃないの⁉」

「違う、それは考えている自分だけは間違いなく存在しているって意味だ」

 日高の間違いを訂正しながら真弥が振り返ると、不思議そうな顔で見つめてくる唯と目が合った。

「悪いな唯、日高はこういうやつなんだ……あまり気にしないでやってくれ」

「なんだよぅ、人を変なやつみたいに説明しちゃってさ!」

「いや、お前はもう十分変なやつだよ」

 そもそもお前は人間ですらないだろう、という言葉を飲み込みながら、真弥は今日が始まってから、もう何度目かも分からないため息をついた。

「もしかして、昨日お兄ちゃんに告白したっていうのは……」

「ん? それはあたしだけど、もしかして詳しい経緯が聞きたい感じ?」

「その……お兄ちゃんが普段ここまで人のことを悪く言うことなんて滅多にないのです。いったいなんて告白したのですか?」

「そりゃもちろん――はぁ〜♡ そういう曖昧なものを綺麗に言語化されるのたまんない♡ その上で理解できないギリギリのラインを責められたらっ! はぁ……もうダメ、しゅきぴ♡ かな?」

 昨日と全く同じテンションで熱演する日高に対して、唯は今まで見たことないような複雑な表情を浮かべていた。

 引いてるといってしまえばそこまでだろうが、それを顔に出さないようにしたいという思いと、心の底から気持ち悪いという思いが、胸の内で複雑に渦巻いているであろうことは誰の目にも明らかだった。

「そ、それに対してお兄ちゃんはなんて答えたのです?」

「なにも答えてない。なんなら昨日話したのが二回目だ」

 唯の顔がますます引き攣っていく。

 というか、そもそも真弥自身もどうしてここまで日高から好意を抱かれているのか未だに知らないのだ。

「人を好きになるのに会話した回数は関係ないでしょ? 重要なのは話してて楽しかったり、安心できるかどうかじゃないの?」

 日高の言っていることは真っ当なはずなのに、いきなり人の頬にキスしたり、人の家に不法侵入したりといった行動がノイズになって、ちっとも正しく聞こえない。

 誰が話しているかが重要とはよくいうが……ここまで『お前が言うな』と思うようなこともそうはないだろう。

「それに――あたしが虐待されてるってことに気づいて話しかけてくれたのは、真弥だけだったんだよね」

 日高は頭の上で手を組みながら他人事のように――実際他人事なのだろうけれど、そう呟いた。

「あたしって昔から友達とか全然いなかったからさ、そのことに気づく人なんて誰もいなかったんだ……実際には気づいてくれる人は居たんだけど、でもあたしに声をかけてくれたのは真弥だけだった」

 『日高美知』と会話した最初で最後のことは真弥もよく覚えている。

 彼女は大きな音が鳴ったり、他人が急に動こうとする時に酷く怯えるような反応を示すことがあった。

 極め付けとして頬にガーゼが貼ってあったり、夏服であれば腕に痣が出来ていることから『日高美知』が虐待されているのではないかと真弥は推測したわけだ。

 当時は『そんなことはない』なんて言っていたものだから、単に自分が考えすぎなのかと、こうして日高の口から聞かされるまでずっとそう思っていた。

 それで助けてほしいと言える人間がほとんどいないことを真弥は誰よりも知っていたにも関わらず、だ。

「だからあたしは……真弥のことが好きだったんだよ」

 もっと早く知りたかった。

 そう思うのは結果論的で傲慢な考え方かもしれないが、今になってそんなことを聞かされたところで真弥にはどうすることもできないし、いまさら目の前にいる日高の姿をした怪異のことを責めようとも思えなかった。

 ただ、少しだけ胸の辺りが苦しかった。

「過去形……なのですか?」

「あれ、あたしそんなふうに言ったっけ? まぁいいじゃん。なんでも」

 飄々とした態度で日高は唯の質問をかわす。

「そっかそっか、とうとう美知ちゃんにもわたし以外の友達ができたんだね! わたしも自分のことのように嬉しいよ〜!」

 まるで最初から話の輪の中にいたのかと錯覚するほど、六川はなんの違和感もなく会話に参加してくる。

「違うよ六川ちゃん、友達じゃなくて彼氏だってば〜」

 日高のことを真弥はまだ許していないし、その上自分の知らないうちに彼氏にされていることに恐怖を感じながら、慌ててその間違いを訂正する。

「六川、真に受けるなよ? その言葉を」

「さぁ、どっちの言ってることが本当かな〜? というわけで、デーン‼ 人間嘘発見器の出番だ〜っ!」

 無邪気な笑みを浮かべながら六川は真弥の方に右手を差し出す。

「魔法使いになったり占い師になったり人間嘘発見器になったり……ほんとお前は忙しいな」

 真弥は苦笑しながら、差し出された六川の手を取る。

 その手を取った六川は先ほどまでの楽しそうな表情から一転して、沈痛な面持ちで目を逸らしながら真弥の肩を左手でポンと叩いた。

「昨日は、すごく大変だったんだね」

「……大変だったのは別に僕じゃないさ」

 僕は何もしていないという言葉を真弥が飲み込むと、六川は寂しそうに微笑んだ。

「深山くんは優しいね。けどダメだよ? もっと自分のことも大事にしてあげないと!」

 やはり六川との会話は周囲から見れば言葉の足りない歪で不自然な会話に見えるのだろう。

 真弥には六川が何をどこまで知っているのかは分からない……それでも、その言葉だけでどこか心が軽くなったような気がしてくる。

 真弥が憧れたのは、やはりその才能だった。

「ちょっと! 真弥はあたしの彼氏なんだから取ろうとしないでよ!」

 頬を膨らませながら、日高は六川から奪い取るように真弥の腕を力任せに抱き寄せた。

 二の腕の部分に柔らかいモノが当たるが、自分の理性を保つために真弥はそれが何なのか深く考えないことにした。

 そうでもしないと、健全な男子高校生は相手が怪異であると分かっていても、理性が耐えられずに溶解してしまうからだ。

「深山くんの理性が溶解しそうなのは、美知ちゃんの愛情のPHペーハー値が酸性だから?」

 まるで知っていて当然かのように真弥の心の声で大喜利を始める六川のせいで、一周回って真弥は冷静さを取り戻す。

「それは多分、僕の理性が三十六度前後の体温で液状化するほど融点が低いだけだ……あと最近の高校生はPHペーハーって言わないぞ?」

「ねぇねぇ、真弥の理性って水銀製? それともガリウム製?」

「日高、頼むからこれ以上話をややこしくしないでくれ……」

 先ほどから、唯がやけに静かであることを不思議に思って真弥が振り向くと、唯は不安そうに俯いていた。

「唯?」

「ちょっぴり寂しいけれど、日高さん達とはここでお別れなのです」

 そう言われて初めて、真弥は自分たちがいつの間にか普段なら唯と分かれる交差点についてしまっていたことに気がついた。

「そっか〜じゃあ唯ちゃん、またね」

「またね、妹ちゃん」

 二人に手を振られて見送られる唯の表情は、どこか辛そうに見えた。



 真弥は子供が迷子にならないようにするかのように日高の手を引きながら、六川と同じくらい長い付き合いの友人に会うために学校の廊下を歩いていた。

「真弥~手を握ってくれるのは嬉しいんだけどさ、これどこに向かってるの?」

 昨日の一件もあるため、こんな誤解を招きそうなことは真弥も出来ればしたくない。

 本来なら学校で話すのはもちろん、手を繋ぐのなんてもってのほかだ。

「どこでもいいだろ……というか、子供じゃないんだから学校の中で迷子になるな」

「だって学校って面白いものが沢山あるんだよ? 図書室とか、理科室とか……そうそう、あたしピアノっていうのも触ってみたいな~」

 この調子で日高が興味を持ったものにフラフラと引き寄せられていくため、いつまで経っても目的の教室に辿り着けずにいたのだ。

 そんな日高を引きずってどうにかこうにか目的の教室に辿り着いた真弥は、教室の中に目当ての人物がいることを確認して足を踏み入れた。

 廊下側の一番前の席に座っている、制服を着ていなければ小学生と見間違えそうなほど背の低い少年の隣に立つ。

 その少年はイヤフォンを付けながらスマホを横向きにしながらゲームをしていた。

 普段ゲームに馴染みのない真弥にはそれが何のゲームか分からないし、スマホで一昔前のゲーム以上のクオリティのゲームが無料でいくらでもできるということには驚きを隠せない。

「よっ灰塚はいづか

「思ったより早かったな。すぐクエ終わるから、ちょっと待ってろ」

「よく分からないけど、待ってればいいんだろ? こっちは別に問題ないよ」

 真弥が適当に近くの空いていた席に座ると、それに合わせたようにその机の上に日高が腰掛ける。

「ねぇ真弥、この人は?」

 日高は別に人見知りをするタイプというわけではないだろうが、やはり初めて会う人物には興味があるようだった。

灰塚圭はいづかけい、昔はよく一緒にゲームをしたりして遊んでたんだ」

「へぇ、圭はゲームが上手いの?」

 日高が灰塚の名前を呼び捨てにした瞬間、真弥は慌てて周囲を見回して確認した後に、心の底から安堵のため息を吐いた。

「真弥がそんなに慌てるところ初めて見た、なになに? 今なに確認したの?」

「いいか日高、長生きしたいなら灰塚の名前を呼び捨てにしたり、さん以外の敬称をつけるのだけはやめておけ」

「ほう? なんでなんで? この日高さんがそんじょそこらのパンピーに負けるとは思えないんだけど?」

「パンピーはもう死語だ。あと日高が死ななくても、次の日には僕が電線とかアンテナとかに宙吊りにされた死体として発見されかねない」

「なんと⁉」

 あまりにも猟奇的な殺され方を提示したため、さすがの日高も驚いたように目を見開いた。

錦織にしごおりは生徒会の仕事があるから、ここら辺にはいねぇよ。つーかお前の中で錦織のイメージはどうなってんだよ?」

 真弥は少し考えると、こう答えた。

「最高のメインヒロインと他害型のヤンデレを反復横跳びしてる妖怪」

 そんな真弥の比喩に、灰塚はスマホを机の上に置いて頭を抱えた。

「わけわかんねぇ。あーくそ……頭痛くなってきた」

「それじゃあ、あたしは?」

キラキラと眼を輝かせながら聞いてくる日高に対して、間髪入れずに真弥は答える。

「騒々しいマスコットと倫理観の欠片もない獣を反復横跳びしてる粘塊」

 おそらく錦織よりはマシな評価がもらえると思ったのだろうが、日高と錦織を比べるのは怨霊VS悪霊、宇宙生物VS宇宙人のどっちの方がより凶悪かを質問するようなものだ。

 正直いきなり他人の家に不法侵入してくるスライムと、いきなり後ろから刺してきかねないヤンデレのどちらの方がマシかと聞かれたとして……それでも日高の方がマシなのは、一種のバグであるように真弥には思えてならない。

「お前はいつから美少女を言葉責めする趣味に目覚めたんだ?」

「真弥は初めて会った時からあたしに対して辛辣だよ? あたしのことを普通じゃないって変人扱いしたり、本物の日高はどうした? っていきなり偽物扱いしたり……でもあたしが泣くと、ちゃんと優しくしてくれるんだ〜」

「どう聞いてもDV彼氏じゃねぇか⁉」

 灰塚はギャグシーンとして百点満点のリアクションを見せる。

 しかし面白さのために、そんな風評被害を許容できるほどの芸人魂は真弥にはない。

「違う! これは日高の巧妙な叙述トリックだ!」

「はいはい、とりあえずそういうことにしといてやるよ」

 せっかくこの話を中断してくれた隙を逃さずに、真弥は今のうちに本来の目的である質問を口にした。

「ところでここからが本題なんだが、灰塚ってファンタジーとかオカルトとか得意か?」

「オカルトは専門外だが、ファンタジーならそこら辺のやつよりは知ってるだろうな……けどお前、幽霊とか宇宙人とか信じてないんじゃなかったのか?」

 真弥はゆっくりと首を振り、机の上で退屈そうに足をぶらぶらと動かしている日高を手で指し示した。

「いや、そういう話に興味があるのは僕じゃなくて、日高の方なんだ。灰塚さえよければいろいろ教えてやってくれよ」

 真弥が灰塚と日高を引き合わせたのは、彼女がなんの怪異なのかを調べるのを手伝ってもらうためだった。

 それは、本来なら日高の正体を知っている真弥が一人でやるべきことなのだろうけれど、生憎とその手の知識はまったくの専門外だ。

 それにどうするのかというのは日高次第で、真弥にできるのは探しやすい環境を用意してやることまでだ。

 それを卑怯だと思わないわけではないが、他にいい方法が思いつかなかったのもまた事実である。

「もしかしてあたしのために紹介してくれたの⁉ キャ〜! 本当に真弥大好き!」

 言うやいなや、日高は真弥目掛けて飛びついてきた。

 抱きつくというよりも突撃と表現する方が適切なほどの威力があったため、真弥も倒れないようになんとか踏ん張るが、敢えなく二人分の体重を抱えて背中から床面に叩きつけられる。

 机と机の間に倒れ込み、真弥は頭の左右を占拠している机の足に頭をぶつけなくてよかったと心の底から思った。

「いきなり飛びついたら危ないだろ!」

 真弥の体をクッション代わりにした姫、もとい日高は悪びれることなく微笑みながら真正面から真弥の顔を見据えている。

「どう? ドキドキした?」

「お前のおかげで心臓が止まりそうだよ、このノンデリスライムめっ!」

 ――タイミングが良いのか、悪いのか、側から見れば痴話喧嘩のようなやりとりは、黒板の上に設置されているスピーカーから流れる校内放送によって中断される。

「二年B組の深山真弥さん、日高美知さん、担任の先生がお呼びです。至急、進路相談室までお越しください」

 校内放送で担任から呼び出されるというのも珍しい話だが……日高が一緒にいるとなると話が変わってくる。

 むしろ呼び出される心当たりがありすぎて不安しかない。

 かといって教師からの呼び出しを無視するわけにもいかない。

「……何か言われたら大体日高のせいだからな」

 日高から顔を背けつつ、真弥は自分の上から日高を退かして立ち上がる。

 口ではそう言ったが、困ったことに真弥も前ほど本気で言っているわけじゃない。

 どちらかと聞かれれば、照れ隠しという側面が強かった。

「えぇっ⁉ 流石の日高さんでもスケープゴート扱いは嫌だよぅ!」

「悪い灰塚、この話の続きはまた今度させてくれ」

「それは構わないが、お前はもう少し付き合う相手を選んだ方がいいと思うぞ?」

 苦言を呈する灰塚に手を振りながら、真弥は教室を後にした。



 授業が始まったことを告げるチャイムが鳴っている。

 真弥は呼び出された生徒指導室に向かいながら、横を歩いている日高を見やる。

 日高の動きというのは子供のように脈絡がないが、感情というものを全身を使って表す節がある。

 今だってタイルの縁を踏まないようにフラフラと歩いている。

 まっすぐ歩かないのも、日高なりのルールがあるのだろう。

「うちの学校って校内恋愛禁止なんだよな、これで退学になったらどうすんだよ……」

「大丈夫、その時はあたしも一緒だから!」

 なにが大丈夫なのかは全く分からないが、そのガッツポーズからは根拠のない自信をひしひしと感じる。

 しかし直前までの勢いが嘘のように、唐突に日高は階段の前で足を止めた。

「……ごめん真弥、やっぱりあたしダメかもしれない」

「何がダメなんだよ? もしかして光合成だけじゃなくて、ちゃんと栄養がいるのか?」

 階段を二段ほど降りた位置から真弥は日高の方に問いかける。

「それはそうなんだけど……でもあたしが言いたいのはそうじゃないんだよ!」

 珍しく強い口調で否定するのを不思議に思いながら、後ろを振り返って真弥は上の段に足を掛けた。

「動かないで!」

 今まで見たことないほど焦った表情をしながら、日高が真弥の方へと手を伸ばした――瞬間、ヒュンとなにかが空を切る音がして、日高の袖と手首が切り裂かれ、傷口から真紅の体液が流れ始める。

「――は?」

 一瞬、いや……数秒経った今でも日高の身に何が起きたのか分からない。

 状況からは、日高の手首に突然切創が出来ていたこと以外、真弥にはまったく説明できなかった。

「あ〜ヤダヤダ! こういうの、ほんとやめてほしいよね」

 面倒そうに吐き捨てながら、日高は血の代わりに手首の傷口から黒い粘液を伸ばし、地面に落ちた血液を舐めとるようにして回収する。

「お前はなんでそんなに落ち着いてるんだよ! 手首を切られたんだぞ⁉」

「あたしだってびっくりしてるよ? まさか魔術を使わずに糸を操って攻撃してくるとか全然予想してなかったもん。今の攻撃でも、普通の人間なら死んでたんじゃない?」

「糸?」

 振り返ってよく目を凝らしてみると、空中に漂う何かが僅かに光を反射していた。

 その糸の群れは突然振動し始め、音楽のようなものを奏で始める。

 まるでピアノのような音色をしているそれは、確かベートーヴェンのピアノソナタ――

「悲愴の第一楽章……これも、またお前みたいな新手の怪異なのか?」

「いや、怪異はこんな回りくどい真似しない……というより、する必要がない」

 怪異の強さの基準は真弥には分からないが、確かにわざわざ手首を切って失血死を狙うというのはあまりにも科学的で、人間でなければ思いつかない発想だ。

 日高の能力が不条理であるならば、この糸の能力は理不尽と表現するべきだろう。

「この感じはたぶん、超能力の類だろうね」

「ちょっと待て! この世界はそんなものまであるのか⁉」

「言ってなかったっけ?」

「そんなの全く説明されてねぇぞ⁉」

 そんな会話をしていると、突如として音楽が止み、代わりに張り巡らされた糸が振動して人の声のようなものを発した。

『驚いたわね……放っておけば、今ので失血死すると思ったのだけど』

 女性の声のようではあるが、音が歪んでいて誰の声かまでは判別できない。

「面白い冗談だね。よくもまあ、失血死するスライムなんて二律背反する矛盾した概念を作り出せるものだと、感心しちゃうよ」

 日高はまるで見えもしない相手を煽るように肩をすくめる。

『あら、スライム風情には私の高度なユーモアのセンスが理解できなかったかしら?』

「うん。宇宙人のユーモアのセンスは難しくて、あたしには理解できないや」

『……どの口がっ!』

 怪異から人外だと言われたことが癪に障ったのか、再びヒュンと空を切る音がして、光を反射する細い線が日高目掛けて薙ぎ払われる。

 しかし踊り場付近で漂っていた糸が横薙ぎに振り回されたということは、その射線上に立っている真弥も巻き添えを受けるということだ。

 目にも留まらぬ速さで迫る糸は、とても人間に避けられるような速度ではない。

 避けるためにしゃがもうにも、足場が不安定な上に、この至近距離では不可能だ。

 真弥は目の前に迫る脅威から反射的に目を逸らした。

「ほいっと」

 そんな不可避の糸は、突如として地面から現れたかにはさみによって縦断される。

 断ち切られたことで狙いが狂ったのか、糸は頸動脈の代わりに勢いよく真弥の頬を切り裂いた。

 斬られた箇所が熱を帯び、ゆっくりと血が滲んでくる。

 急いで階段を駆け降りてきた日高は、真弥の頬が少し切れたくらいの傷で済んでいることに安堵のため息をつくと、傷口にそっと触れた。

 どういうわけか、日高が触れた部分からあっという間に熱感と痛みが引いていく。

 日高が手を離してから触れてみると、何事もなかったかのように傷口が塞がっていた。

 しかし真弥が注目していたのは自分の傷よりも日高の顔、正確には目だ。

 昨日の教室でしていた、まるで興味のない物を見るような無機質な目。

 あの時もそうだったが、真弥にはその視線がどことなく不気味なもののように感じられる。

「あたし的には、免疫機構としての怪異の役割とか結構どうでもいいんだけどさ……真弥を傷つけたってことは、怪異あたしを敵に回す覚悟はしてるんだよね?」

『なによ? スライムのくせに人間みたいなこと言って……それ以上生意気な態度をとるなら、二度とそんなこと考えられないようにその首を刎ね飛ばすわよ』

 それは思考することに執着している日高にとって、地雷ともいえる発言だった。

 案の定、日高は宙を舞う糸の群れを睨みつけながら、威嚇するような低い声を出す。

「――言ったな?」

 真弥は思わず、全身に寒気を感じた。

 その短い言葉には、今まで日高から聞いたことがないほど憎悪の念が込められていたからだ。

 例え日高の能力と正体を知っていなかったとしても、その声と表情だけで真弥は本能的に脅威を感じていただろう。

「怪異を敵に回した以上、まともな死に方ができるとは思わない方がいいよ。これから現代社会っていうぬるま湯に慣れきった人間が忘れた、自然界の厳しさと未知への恐怖ってヤツを思い出させてやるからさ」

 そう言った直後、日高の肩甲骨付近から約一・五メートルの長さを持つ八つの細長い棒状の物体が伸びてくる。

 だがよく見ればそれは棒ではない。

 関節のような幾つかの節があり、先端には鋭い刃が付いている。

 馴染みのある生物でいえば、もっとも近い形状は蟷螂かまきりの前脚だろう。

「カマ……キリ?」

 真弥は思わず呟いた。

『何をするつもりか知らないけど、手数では私の方が上よ!』

 無数の糸が日高に殺到する。

 だが日高の肩から伸びる無数の腕が閃くのとほぼ同時に、それらは空中でバラバラに寸断された。

「なっ⁉」

 見ることも避けることも困難な糸を、日高が一息で切断したことに真弥は驚愕の声を上げる。

「複数の腕を操るために九つの脳を持つたこと、時速八十キロで飛行する虫すら捕まえることができる蟷螂かまきりの前脚……これほど凶悪な組み合わせはそうないよ。特にその能力に対しては、天敵になるだろうね」

 日高はまるで嵐のように激しい斬撃を繰り出しながら、ゆっくりと階段を降りていく。

 周囲に張り巡らされていた糸が、その乱舞によって次々と切断されていく。

『なんなのよ、この化け物はっ!』

 口に出す暇こそなかったが、それは真弥も同感だった。

 先ほどまで強気だった糸使いも、この斬撃の前に為す術なく防衛網を突破されてしまう。

 あらかた糸を排除した日高は、攻撃と共に足を止め、どこにいるかも分からない糸使いに問いかける。

「まだこっちの位置はバレていないはずだ、今そう考えたでしょ?」

『……なら、あなたに私の位置が分かるのかしら?』

「階段下りてから右側二つ目の教室の中でしょ? それもさっきから切断されてる糸を操らないのを見る限り、直接糸に触れていないと能力が発動できないって弱点を抱えてるとみたね」

 ここから日高がそんなことが分かるはずがないと思う一方で、先ほどのように別の生き物に変身できるなら糸使いの位置を探知する方法はいくらでもある。

 エコロケーションや赤外線探知……仮にそんなものに頼らなくても、単純に人間以上の嗅覚や聴覚があれば理論上探すことは不可能じゃない。

 だが恐ろしいのはその能力よりも、短時間でそこまでやってのける日高の判断力とこの無数の糸に襲われているという状況に対する適応力だ。

 見ないで攻撃する糸使いもこの位置から糸使いを見つけた日高も、真弥からすればどちらも人間業とは思えなかった。

『そんなハッタリ!』

 先ほどまで張り巡らされ宙を漂っていた糸が、バツンという……文字通り張りつめた糸が千切れたような音と共に、全て床へと落ちた。

「一つの糸を起点に複数の糸を操るなんてよく考えたね。でも能力を一つしか持たない超能力者にとって、相手に能力を知られることはこうして対策されるってことを意味してる」

 高速で地面に落ちた糸が日高の推理した能力者のいるであろう部屋の中まで逃げ帰るように引き戻される。

 もう他に糸がないことを確認して、日高は階段を下っていった。

 一歩、一歩、まるで死神のように、確実に一つ下の階にある教室――本来の目的地だった生徒指導室に向かう。

 このままだと日高は、確実にこの糸使いを殺す。

 日高の足を引っ張らないよう、かつ能力者を殺す前に必ず止められるように、二歩ほど離れて真弥も後を追う。

 もし日高が人を殺すことを躊躇わないのなら……その時は、真弥でも日高のことをもう人間として認めることはできない。

 部屋の前に立った日高は、警戒しながら扉に手をかける。

 その瞬間、扉の向こうからヒュンと風を切るような音が聞こえてきて――

「あ……」

 それとほぼ同時に真弥の目の前を何かが駆け抜け、日高の体が教室の扉と共に一瞬で両断された。

「油断したわね? さっきまでのワイヤーと違って、ピアノ線も使いようによっては……大抵の物質を瞬時に切断することが可能なのよ」

 上半身と切り離された日高の下半身は液状化して人の形を失い、残された上半身は支えを失ったことで宙を舞った。

 そんな状態でも日高は焦ることなく、文字通り相手に噛み付くべく右腕を蛇に変えて教室の中に向けて伸ばす。

 獲物に向かって直進する蛇に対して、先ほど振り抜いたピアノ線が瞬時に跳ね戻ってくる。

 日高の肩から伸びるの前脚が、そのピアノ線を迎撃しようと自動的に動いた。

「馬鹿ね……そっちはフェイクよ」

 一瞬だけ空中が煌めき、突然蟷螂かまきりの前脚の第一関節がクンッと何かに引っかかって動きが止まった。

 真弥には何が起きたか見えなかったが、おそらくはピアノ線という分かりやすい囮を用意し、先ほどの踊り場で使っていた視認しずらい細いワイヤーを仕掛けていたのだろう。

 蟷螂かまきりの前脚での迎撃に失敗した日高が右手を変形して作った蛇は、縦横無尽に動き回るピアノ線によってあっという間に解体され、同時に前脚が突然縛られたように上方に引っ張り上げられ、日高の上半身が吊るされたように空中で静止した。

「日高ッ⁉」

 一瞬であまりにも多くのことがあったせいで、真弥がその名前を呼んだ時には既に日高は上半身と片腕だけの満身創痍……いや、普通の人間なら即死するほどの致命傷を負っていた。

「確かに、えぇ……私の能力はあなたの言う通り触れた糸を操るだけの能力よ。でもね、私の《運命の糸ストリングス・フェイト》は糸を操るという一点に於いて、他の能力の追随を許さないわ」

 扉から離れていた真弥は辛うじて無傷だったが、今の攻撃を受けていればひとたまりもなかっただろう。

 しかし真弥はその声、その姿に覚えがあった。

 世間話程度の会話ならしたこともあるし、聞きたくなくても学校生活を送っていれば嫌でもその声を聞くタイミングがある。

 なぜなら彼女は生徒会長であり、学園二位の成績を誇る優等生であり――しかしそれらを差し置いて、なによりも自分の恋心を優先する最高のメインヒロインと他害型のヤンデレを反復横跳びしてる妖怪。

 錦織麻衣だからである。

「……錦織か」

「えぇ、久しぶり深山くん。こんなに離れた距離でごめんなさいね? これ以上前に出るとそのスライム女の射程距離内に入るから、これ以上は入り口に近づけないの」

 いつもと変わらない調子で錦織は語りかけてくる。

 錦織といえばクラスで一、二を争うほど恵まれた容姿の持ち主であり、その人当たりの良さと学年トップの成績から彼女は常に皆の憧れの的である。

 いやクラスどころではない、間違いなくこの学園の中心的な人物だ。

 しかしそんな錦織のことが、真弥は中学生の頃からずっと苦手だった。

 それは単純に、いつも貼りつけたかのような微笑みを浮かべて、一切本当の感情を表に出さない感じが不気味に感じたのだ。

 だが真弥が不気味だと思うのはそれだけではなく、灰塚のことになると急に手段を選ばなくなるその性格にある。

 理由は分からないし、いつからそうなったのかも知らない。

 ただ、灰塚と関わった女子生徒が大怪我をしたり、退学になったりといった例は後を絶たない。

 そしてその直前に、必ずといっていいほど錦織はその女子生徒と接触していたのだそうだ。

 もっとも……そう話してるのは六川だけで、他でそんな話は聞いたことがない。

 だが『危ないからなるべく関わらないように』、なんて六川が言うのは初めてのことだったし、誰にも話さないようにと釘を刺されていたので口外したことはない。

 しかしこうして実際に蓋を開けてみれば、あの六川がそこまで言うのも納得の異常者である。

「へぇ……コイツが錦織麻衣なんだ。確かに人を電柱とかアンテナに吊るしそうって真弥がいうのも納得だよ。実際、あたし今宙吊りにされてるし」

「言ってる場合か!」

 そんな会話を打ち切るようにピアノ線が縦に振り下ろされ、残っていた方の日高の腕を切り落とした。

「能力を相手に知られることは対策されることを意味する、いい教訓になったわ。最初から変だと思っていたのよ、どんな生物にでも変身できる能力を持っていながら、どうして再生力の高い生物に変身しないのか……しないんじゃなくて、できないのね?」

「どういう意味だよ、それ……」

 真弥は眉を顰め訝しむように言う。

「そのスライム女はどういうわけか、自分の体の体積より大きな生物には変身しない。それは逆説的に、細胞分裂や新陳代謝によって自分の体の体積を増やすことができないから……そう推察するのはそこまで難しくないわ」

 確かに日高は、今まで一度たりとも巨大化をしたことがない。

 一見して質量を無視した変身も、脂肪のような余分な有機物を使っていると考えれば説明はつく。

 ということは、先ほど真弥の傷を塞いだのも有機物との同化能力の応用だろう。

 そうなると錦織の仮説は、ますます現実味を帯びてくる。

「……だとしたら、あなたは有機物を取り込むことができるんじゃなくて、体を修復するために有機物を取り込まざるを得ないのね。知れば知るほど生物学の常識を覆すような存在だわ……私の知る限り、もっとも完璧な生物に近いわね」

 吊るされた状態で日高は大きくため息をついた。

「バレちゃったか……そうだよ。あたしは取り込んだ有機物以下の体積の生物にしか変身できないし、仮に変身しても基本的にその生物が人間と同サイズの時の性能しか発揮できない」

 糸に吊るされ、今にもバラバラにされそうな状態であるにも関わらず、日高は不適な笑みを浮かべながらあっさりと白状した。

「何その顔……随分と余裕そうじゃない」

 の前脚に絡みついた糸の拘束がさらに強まり、限界まで縛りつけられた前脚がギチギチと悲鳴をあげる。

「っ! まぁ。あたしはこの地球上で最強の生物だよ? もしお前が言うようにあたしが完璧な生物なら――そもそも『死』って概念を恐れるはずないじゃん」

 そう言った直後、吊り下げられていた日高の上半身と、糸に雁字搦めにされていた蟷螂かまきりの前脚が分離し、上半身だけがドチャッと音を立てて日高の下半身だったものの上に落ちた。

「なっ⁉」

 錦織の驚愕で彩られた表情を見て日高はニヤリと笑うと、地面から粘塊を触手のように伸ばして再び蟷螂かまきりの前脚と接続した。

「知ってた? そのワイヤーを構成するポリエチレンも有機物だぜ?」

 蟷螂かまきりの前脚が溶解して黒い粘液に変わると、瞬時に糸を侵食し、錦織の方に殺到していく。

「冗談じゃない!」

 錦織はまだ取り込まれてない部分だけを残すようにピアノ線でワイヤーを切断して対処するが、その判断は真弥の目から見ても分かるほど、精細さに欠けていた。

 何故なら錦織は、ワイヤーとピアノ線の双方を使った手数の多さという自分の持っている最大の利点を、自ら手放したのだ。

 錦織が慌ててピアノ線を呼び戻した時にはもう遅かった。

 日高は液状化した状態で扉の下を滑るように潜り抜けて錦織の後ろまで回り込むと、数秒以下の短時間で人型に戻り、そのまま後ろから首を掴んだ。

「はい残念、あたしの勝ち!」

「あっ……な」

 最初の頃の態度が嘘のように錦織は恐怖で顔を引きつらせ、浅い呼吸を繰り返している。

「知ってた? 怪異は理解できないから怪異なんだよ。一つ勉強になったね」

 日高が錦織の首を握る指に力を籠める。

「やっ……私、まだ……」

 先程までの余裕が嘘のように、錦織がか細い声を漏らした。

 このままだと、間違いなく日高は錦織を殺す。

 その最悪の展開を阻止すべく、真弥は慌てて生徒指導室の中に駆け込んだ。

「そこまでだ日高! 錦織を殺しちゃダメだ!」

 そう叫びながら部屋に入ったものの、錦織は日高に首を掴まれてこそいるが、それ以外は全くの無傷だ。

 日高は真弥と目が合った瞬間、錦織を放した。

 全身の力が抜けたように、錦織は呆然とした表情でその場に崩れ落ちる。

「よかった……そこは分かってくれてたんだな――」

 真弥が言い切るよりも早く、日高はまっすぐに真弥の元に駆け寄ってその体を抱きしめた。

「えっ……」

「ごめん真弥。あたし、嘘ついた」

 突然の出来事に困惑する真弥の胸に顔を埋めたまま、日高はそう言う。

 そんな日高を抱きしめ返すことを、真弥は躊躇ってしまった。

「……どんな嘘をついたんだ?」

 それでも日高の話を聞こうとする態度だけは崩さない。

 日高は真弥が傷つけられたから、錦織と戦うことを選んだ。

 未だに日高をどう考えるべきかは、真弥にはまだ分からない。

 だがもしここで日高を拒絶してしまったら、自分を命懸けで守ろうとした存在を認めなかったら――何か人として、致命的に踏み外してしまうような気がするのだ。

 しばらくしてようやく落ち着いたのか、日高はゆっくりと語り始める。

「あたしが『死』を恐れるはずがないって話……あれ嘘。さっきまでは脳内麻薬とかで感覚が麻痺してたんだろうけどさ、今は……すごく怖い 」

 僅かに湿り気を帯びた声で日高はそう呟く。

 それでも真弥には、日高を抱きしめ返したり、頭を撫でたりといったことができなかった。

 それは許せるとか許せないとかの問題ではなく、単純に怖かったからだ。

「なにが……怖いんだ?」

 それは真弥が自分自身に向けた問いでもあった。

 日高のことが怖いのは、変身能力を持っているからか、それとも常識や倫理観が欠けているからなのか……それとも、その両方か。

 理解できないなら理解できるように考えればいいと、ずっとそう思っていた。

 ただ変身できるだけだ、ただ人と価値観が違うだけだ。

 そう言ってしまうのは、くらい簡単だ。

 ただ今ここに、どうしようもなく人間と違う存在を受け入れられない自分がいる。

 そんな真弥の心情を知ってから知らずか、日高は真弥の問いに答えた。

「別に死ぬのが怖いわけじゃなくて……あたしは自分で考えられなくなるのが――もう二度と真弥のことを想うことができなくなるのが……怖い」

 真弥の体を抱きしめる腕に、日高はより一層力を込める。

 それ自体は怖くてたまらない。

 日高はいつでも真弥の命を奪える状況にあるのだから、当然だ。

 なのに、どうしようもなく人間らしいその言葉に納得してしまった。

 初めて日高の感情と理屈が合致していて、『正しい』と思ってしまったのだ。

「でもそれだけじゃなくてね。不思議な話なんだけどさ、あたしいま……本当に生きてて良かったって思ってる。だって……この体温が、こんなにも愛おしくて仕方ないんだよ?」

 その言葉に全く嘘偽りもないことが真弥には――いや、きっと真弥でなくとも分かるだろう。

 真弥がいま問われているのは、クラスメイトを殺した怪異を受け入れるのと、自分を守って戦ってくれた人物を拒絶するのと、どっちの方がマシな選択かを選ぶことだった。

「……お取り込み中悪いんだけど、そろそろそこを退いてもらえるかしら?」

 先ほどまで呆然と座り込んでいた錦織は、いつの間にか毅然とした態度でそこに立っていた。

「ヤダ、もうちょっとこのままがいい!」

 子供のように駄々を捏ねる日高に対して、錦織は怒るでも咎めるでもなく、まるで焦っているかのような様子だった。

「気持ちは分かるけど……これ以上ここにいるのはマズいのよ」

 錦織は余所余所しく周囲を見回している。

 まるで何かを警戒しているようだ。

 なにより気になるのは、普段ならどんなことでも予定調和であると言わんばかりに完璧にこなす錦織が、一体どうして焦っているのかということだ。

「ここにいると、何がマズいんだ?」

「これだけ派手に暴れたんですもの、すぐにでもどこかの『組織』が調査に来るわ」

 だから早く退いてくれとでもいうように、錦織は真弥達を強く睨みつける。

「『組織』って、なんだよ?」

「私たちみたいな異能者を取り締まる『組織』があるのよ。分かったら、詳しい話は次の機会にしてくれる」

「もし……その『組織』に見つかったらどうなるんだ?」

 恐る恐る聞いた真弥に対して、錦織は短くこう答えた。

「さあ? ただ、どの『組織』であったとしても、見つかったら今まで通りの日常は送れなくなると思った方がいいわよ」



 真弥の一つ後ろの席に座る日高は、相変わらず独り言を呟きながら何やらノートに書き込んでいる。

 先ほどまで命を賭けて戦っていたとは思えないほど冷静に、淡々とノートに文字を綴っていく。

「……どうして日高はずっとノートを取り続けてるんだ?」

 先ほどの戦闘や『組織』といった存在から目を逸らすために――日高をどの程度受け入れられるかという自問自答から目を逸らすために、真弥は日高の方に向きながら昨日から疑問に思っていたことを聞いてみた。

 日高は真顔でノートに向かい続けながら答える。

「自分が考えていたことを忘れないようにするためだよ……あっ、字間違えてる」

 二重線を引いてその横に正しい文章を書き直し、日高はその続きを口にする。

「仮に全く同じ情報を見聞きしたとして、あたしはたぶん二度と同じ思考をすることができない」

 日高は何かを考え込みながら、何度もボールペンをカチカチと鳴らしてペン先を出し入れする。

 しばらくその動作を繰り返すと、日高は何かを思いついたように再びノートに向かい始めた。

「確かに全く同じ理屈を展開することはできるかもしれないよ? けど絶対にその時の感情までは再現できない――もしそんなことができる人間がいるとしたら、それはそういう能力を持っているか……そうじゃないならそれは感情じゃない。ただの記憶だよ」

 同じ思考を二度もできるはずがないというのは至極当然のことではあるが、当たり前であるが故に、誰もが見落としているものの見方であろう。

 それを誰よりも実感していたのは、他でもない真弥自身だった。

 昨日初めて日高と会話した時、真弥は日高のことが好きではないどころか変なヤツとさえ思った。

 だが今はどうだろう?

 日高のその理屈は『普通』という概念に囚われている現代人よりも、ずっと合理的で、人間らしい考え方であるように感じられる。

 感情の再現性など皆無であるという日高の主張は、真弥が日高に抱いていた印象の変換を持って証明されたと言っても、過言ではなかった。

「もちろん理由はそれだけじゃないけどね」

「まだ何か理由があるのか?」

 真弥が問いかけると、日高はノートを書く手を止めてようやく真弥の方に顔を向けた。

「あまり大した理由じゃないよ。あたしの思考過程が書かれたこのノートは、この世界で唯一〝あたし〟が〝あたし〟であることを証明することができる存在ってだけ」

 日高が『思考』に執着する理由が、ようやく真弥にも理解できた。

 自分が『日高美知』の偽物でないことの証明――それは記憶から遺伝子情報に至るまで全く同一である『日高美知』と自分の差異を探す作業であり、日高は自分とオリジナルの差は『思考』能力の有無であると考えた。

 そこで日高は思考の過程をノートに残すことで、自らの存在を確立しようとしたのだろう。

 そう考えるなら、やはり日高は真弥が考えてるよりもずっと人間らしい思考回路をしている。

「随分日高さんと仲良くなったみたいですね?」

 声がした方を向くと、いつの間にか不機嫌そうな顔をした辻上が立っていた。

「別に日高と仲がいい訳じゃない。他の人と会話する機会がないだけだ」

 その返答が気に食わなかったのか、辻上は不機嫌そうに目を細めた。

「ならもっと、自分から他の人に話しかけに行けばいいじゃないですか」

「それって必要か?」

「むしろ今まで必要か不必要かで人と会話してたんですか⁉」

 らしくもなく叫んだ辻上は、すぐにハッとしたような顔をして勢いよく机を叩く。

 他人の机なのに……と真弥は思ったが、口には出さない。

「やっぱりおかしいですって! どうしてよりにもよって会話の相手が日高さんなんですか⁉」

 それはどうしてわざわざ、会話の相手に非常識な人間を選ぶのか、という問いなのだろう。

 確かに辻上の意見は正しい。

 周りに合わせられない人間に、わざわざ合わせる必要はないという考え方は理解できる。

 だがその考え方は、周りに合わせられないというだけで、他人を排除するような世界は……きっと誰もが生き難いだろう。

「日高が非常識だっていうなら、この間みたいにならないように誰かが常識を教えてあげないとダメだろ? 人との距離の保ち方とか、倫理観とか……」

 まだ具体的にどうしたらいいかという答えを、真弥は持っていない。

 しかし考えることをやめてしまったら、もしそういうものだと認めてしまったら……。

 それはいよいよ、真弥の自分に対する偽善者という評価はただの自虐から客観的な事実へと変わってしまう。

 そんなことを認めるわけにはいかなかった。

「いや、それはそうなんですけど……深山さんがそこまでしてあげる必要はないんじゃないですか?」

 辻上にしては珍しく消極的な意見だが、無理もない。

 昨日の一件で、日高はこのクラスの中でもう『頭のおかしなヤツ』という評価を与えられている。

 流石の辻上でも、日高とはあまり関わりたくないのだろう。

「……もしかして梓って真弥のこと好きなの?」

 その様子を後ろから観察していた日高は、いつものように不思議そうな顔で辻上に問いかけた。

「ど、どうしてそうなるんですか⁉ 私はクラス委員として当然のことをしているだけで……!」

「じゃあなに? クラス委員だったら他人の交友関係に文句を言っていいんだ? それなら来年はあたしもクラス委員に立候補しようかな!」

「いい加減にしてください! 毎回そんな不謹慎な屁理屈ばかり言って、人を不快にさせて!」

 昨日と違って靴を鳴らさないところを見るに、今日は昨日ほど本気で怒っていないことが伺える。

 そんな辻上に対して、日高は真剣な表情で言い返した。

「昨日も言ったけど、あたしはずっと本気だよ。本気で梓の理屈が間違ってると思ってるし、本気で真弥のことが好きだよ」

 日高は他にも多くの生徒がいる教室で、恥ずかしげもなくそう言い切ってみせる。

 あまりにも直球な言い方に、真弥は思わず右手で目元を覆った。

 日高が明確に真弥のことを好きだと明言したことで、昨日の比ではないほど周囲の人間が騒つく。

 何を話しているかまでは聞こえないし、聞きたくもないが、ヒソヒソと小声で何かを話している声や、クスクスという笑い声くらいは聞こえてくる。

 そしてその内容が良くないものであることは、想像に難くなかった。

「……あたしにはよく分からないんだけど、人を好きになるのってそんなにおかしなことかな?」

 どうして周囲の人間がそんな反応をするのか理解できないといった様子で、日高は首を傾げた。

「それともあたしの認識が間違ってて、ここにいるのは人間じゃなくて、本能で交尾する相手を決める人間未満の畜生しかいないって認識でいいのかな?」

 この教室にいる人間全てに対する宣戦布告とも取れるような発言に、周囲の生徒達は困惑と憎悪の入り混じった視線を日高に向ける。

「日高さんっ!」

 あまりにも過激な発言をする日高を諌めるように、辻上は激しく詰め寄った。

「あたしは間違ったことを言ってないし、訂正するつもりもないよ。というか、どうしてあたしが人間以下の畜生供に頭を下げなくちゃいけないわけ?」

 謝るどころか、態度を改めもしない日高を、辻上は強く睨みつけた。

「同じ人間なのに、どうして平然とそんなことが言えるんですか!」

「仮に百歩譲って同じ人間だとしても、人間は社会性動物なんだよ? 他人の尊厳を尊重しないような人間の尊厳を、どうしてあたしが尊重しなくちゃならないのさ」

 日高の展開した論理に対して、辻上はそれ以上言い返すことができずに黙り込んでしまった。

「教室の外まで声が響いてますよ? これはなんの騒ぎですか?」

 中年の男性教師は、この奇妙な状況を把握しようと教室に入るや否やそう聞いた。

「聞いてくださいよ先生! さっきから日高さんがオレ達のことを人間以下の畜生だとか言うんですよ」

 ギョッとした表情で教師は日高の方を見やる。

「日高さん、それは本当ですか?」

「本当だけど、それがなに?」

 あまりにもあっけらかんと言う日高に、教師は不愉快そうに顔をしかめた。

「少しお話があります、生徒指導室まで一緒に来てください」

「いいよ」

 軽い二つ返事で日高は席から立ち上がり、名残惜しそうに真弥を横目に通り過ぎて、教師と共に教室の外に行ってしまった。

「誰か、今の日高の動画撮ったか?」

「自分撮ってましたよ、SNSに上げますか?」

「ありゃ死んだな、社会的に」

 悪辣な笑みを浮かべながら話している男子生徒に対し、今度の辻上は先ほどの日高以上に切羽詰まる表情で詰め寄る。

「どうしてそんな酷いことができるんですか、確かに日高さんの言い方はあんまりですよ……でも同じ人間じゃないですか!」

「なんだよ委員長、の肩を持つのか?」

 男子生徒の一人がニヤニヤとした笑みを辻上に向ける。

「それは……けど、だからってそんなやり方!」

「オレ達は文明人だぜ? あんな風に言われちゃ文明の利器で対抗しないとなァ!」

 そう言って、男子生徒たちは自らの手を汚すことも、なんのリスクを背負うこともなく、他人に罵声を浴びせることのできる電子の海にその動画を放流した。

 それは論理を潰すための論理、暴力を伴わない報復。

 やられたからやり返すというのは理屈として筋が通っているのに、それが正しいと思えないのはどうしてなのだろう?

 なにかがおかしいことは分かっているのに、真弥にはそれが具体的にどうおかしいのかを言葉にする事ができなかった。



「誰も日高のことを何も知らないのにな……」

「逆に、相手のことを何も知らないからじゃないですか?」

 中庭のベンチで一人呟いた真弥に反論するように、勉強道具を抱えた中性的な容姿の女子生徒が真弥に話しかけてきた。

「えっと……誰?」

「失礼、自己紹介もせずにぶしつけでしたね。私は浅木彩香、見ての通り転校生です」

 それは見ても分からないだろうという言葉を飲み込みながら、真弥は苦笑を返す。

「ああ……深山真弥だ。それで、その転校生がどうしてこんなところに?」

「はい。次の授業は実習棟にある理科室なんですが、この学校って地図が何処にもないんですよ。敷地内には必ずあるのでいずれは辿り着くでしょうけど……転校早々、授業に遅刻するなんてことは避けたいです」

 困った顔であまりにも周りくどい説明をする彩香に、真弥は思わずため息をついた。

「ようするに、迷ったから道を教えてほしいってことだな……」

「端的に説明するならそうです。助けてください」

 真弥はベンチから立ち上がり、大きく伸びをする。

「いいよ、それくらないなら。理科室でいいんだろ?」

「はい、ありがとうございます!」

 彩香ははにかみながら礼を言うが、それ以降の彩香はひたすら無言だった。

 それが気まずくて、何とはなしに真弥は最初に彩香が言っていたことについて聞いてみることにした。

「さっきの相手のことを何も知らないからじゃないかって……どういう意味だったんだ?」

 彩香は全く真弥の方を見ることなく、こう答える。

「人は有史以来、自分達の理解できないものを淘汰することで社会や文明を築いてきました。森を切り拓き、獣を駆逐し、災害や疫病すら神の意向から単なる物理現象へと成り下がった……。しかしそれでもまだ分からないこともある――その筆頭が、何よりも身近でありながら、どんなものよりも理解の及ばない存在、つまりは他人というわけです。だから人は、価値観が違うというだけで争うことができるんですよ」

 彩香の語る論理は決して間違っていない、理解できないから争いが起こるというのは一種の真理だ。

 詭弁でもなければ暴論でもない。

 それを否定できるような言葉もなければ、否定する必要性すらない。

 だがその主張は――どれだけ理屈が正しかったとしても人を救わない。

 濃い原液をそのまま飲むことができないように、人は正しすぎる理屈をそのまま飲み込むことなんてできやしない。

「そんな寂しい世界、僕は嫌だ……」

 真弥がそう思ったところで、何かが変わるわけではない。

 それでも、この世界がそんな寂しいものであるとはあまり思いたくなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る