第4話

 私は駆け回った。二年間で得た取引の成果の全てを賭けて。


 故郷を友に、いや、悪魔に魂を売った男の手に渡しはしない!


 ジョバンナの話だと、市内ではジロラモとその情婦ビアンカが外部勢力と協力してまちを制圧済みで、人々が混乱に陥っているとのこと。


「ロベルトさん、お願い! あなただけが頼りなの! ビーチェを……彼女の遺体を辱めないためにも、どうか!」


 ビーチェは数日前にこの世から旅立った。しかも、友人である彼女以外の誰にも看取られずに、体中を黒くしながら逝ってしまったのだ。

 

「おい、商人様! 指示を!」


 雇い入れた傭兵団の団長の野太い声があった。続いて、トレヴィッツォからの亡命貴族――彼らは私と同じ胸当てと兜を纏い、故郷奪還に燃えていた――が私に指示を待っているのが分かった。


 しかし、私は彼らに答えなかった。いや、答えられなかった。

 ビーチェを失ったという事実が、私に底知れぬ喪失感を味わわせていたから。

 

(駄目だよ、そんなんじゃ)


 そんな時だったと思う。私の耳に最愛の人の声が響いてきたのは。


「ビーチェ……死んだはずじゃ?」


(肉体はね。でも、霊魂はまだここにあるの)


「そうなのか?」


(あ、その顔。信じてないんでしょ!)


「違う! 私は……君が言うことならどんなことだって信じる。信じられる」


 気が付けば、私の周りに先ほどまでいたはずの男達の姿は消えていた。どうやら、私は――使と二人きりになったらしい。


(私ね、知ってたよ)


「何を?」


(あなたが、あたしをどう思ってたか)


「うっ……」


(ほら! やっぱり、あたしのことが好きだったんじゃん!)


「あ、ああ、そうだった」


(だった?)


「いや――」


 沈黙というヴェールが私と彼女を包み込む。いつもそうだった。


 自分の思いを伝えられなくて、煮え切らない態度を取る私。

 そんな私を馬鹿にはせず、事あるごとに「じゃあ、あたしが代弁してあげる!」と言ってくれた彼女。


 二十年も生きてきた中で何百回も繰り返されてきた、二人だけの歴史。


 けど、それは今日をもって終わりにしよう。

 今日から私は変わる。

 沈黙のヴェールを脱ぎ捨てて、私は告白するのだ。


 これまでに書き止めた最愛の人に向けた一四行詩ソネット

 軽く千は書き上げたと思う。

 私はその中で最も新しくて、書きかけだった一作を完成させて読み上げたい。


 『美人番付』の一件で書き損じたままの作品に、今の私が乗せられる想いを、持てる限りの力を出して紡いだ六行を加えて、私は彼女のために詠みあげた。



 私が求めたのはプリマヴェーラ。それは近くて遠いものだった。

 毎年訪れる春ではない、いつも私の側で心を温かくしてくれるプリマヴェーラ

 どれほど想っていても掴めないあなたは、さながら空高く舞う白鳥だった。

 この世でただ一つ、私を優しく包んでくれるあなたは、まるで滑らかな絹。

 

 長い詩作の旅路を経ても、あなたは向こう岸に立っていた。

 姿は見えていても、触れることはできても、私の心はずっと冬模様。

 想いは口を凍らせ、いつしか私は震える手で想いを紡いでいた。

 完成したらあなたに見せようと思い定めて、私は想いを縦糸と横糸に交差させ続けて今に至る。

 

 だが今ここで、私は詩作という長い旅路を終えたい。

 今の私には、それを記す目的は失われつつある。

 私はもう迷わない。


 私の想いは終点に到着したのだ。プリマヴェーラを届けてくれた一人の女性という終着点に。

 だから今、ここに愛を叫ぼう。

 ビーチェ! あなたこそが私のプリマヴェーラ。私の心の庭園に咲き誇る白い薔薇ばら。世界を照らす程のまばゆい光!



 読み終えた直後、私の背後からもどよめきと嘲笑があった。男達のあざけり。きっと私がいきなり詩をぎんじたことが狂気に映ったのかもしれない。


 だけど、そんなことはどうでもよかった。


 私が一途に愛したビーチェが、今は私の天使となってくれた愛しの女性マドンナが赤く頬を染めていることの方が、何よりも嬉しかったから。


(いってらっしゃい)


 天使の呼びかけに勇気を貰った私に、もう迷いはなかった。


「いってくるよ! 私の天使!」

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