第十章:2030年11月3日 日曜日 瀬川ユリ
現実パート
カフェ・セレンディピティの扉を開けると、柔らかな光とコーヒーの香りが私を包み込んだ。落ち着いた空間に心が少し和らぐ一方、緊張感が胸の奥をぎゅっと締め付けていた。
(カナ、「誰にも会わない」って言ってたよね……?)
その言葉を思い出しながら、自分を落ち着けるように深呼吸を一つ。カウンターに近づき、店員さんに声をかける。
「すみません、V Rゲームのコラボイベントで個室を予約した瀬川です。」
笑顔で応じた店員さん――沙耶さんが手元のリストを確認し、頷いた。
「瀬川様ですね。お待ちしておりました。個室はこちらになります。どうぞご案内いたしますね。」
沙耶さんに続いてカフェの奥へ進むと、個室のドアの前で足が一瞬止まった。なぜか胸がざわついて、言葉が喉の奥に引っかかるような感覚。
(……大丈夫。カナの言う通りなら、何も問題ないはず。)
けれど、沙耶さんがドアを開けようとした瞬間、思わず口が動いた。
「あの……この部屋、私だけの予約じゃないですか?」
沙耶さんは不思議そうに首を傾げながら微笑む。
「いえ、お先に代理の方がいらしてますよ。カナ様のご指示と伺っています。」
その言葉に、胸がざわつく。先客――? 聞いていない話に戸惑いながらも、沙耶さんは慣れた手つきでドアをそっと開けた。
「こちらです。」
温かい雰囲気の個室が現れた。軽く会釈をして一歩踏み出す。けれど、その瞬間、目の前の光景に動きが止まった。
中にいたのは、私服姿の男性――黒髪に端正な顔立ち。大きな瞳にはどこか不安げな色が浮かんでいる。
(どうして……宮下さん?)
思わず心の中で名前を呟く。仕事で顔を合わせたことがある彼が、どうしてここに? カナさんは確かに「誰にも会わない」って言っていたのに。
「……宮下さん?」
私の声に、彼は驚いたように目を見開き、すぐに戸惑いの表情を浮かべた。
「瀬川さん……?」
その声に、胸が高鳴る。どうしてここに宮下さんがいるの? 頭の中で疑問がぐるぐると渦巻く。
彼は少し困ったように眉を下げ、視線を逸らしながら言った。
「あの……VRの友人から、『どうしても都合が悪くなったから代わりに代理人をお願い』って頼まれて……。」
その言葉に、私は息を飲んだ。
(VRの友人……まさか……?)
頭の中で不安と疑念が膨らむ中、私のポケットの中でスマホが振動した。カナからのメッセージだ。
「タカコさんに会えた?」
その一文を見た瞬間、息が止まったような感覚に陥った。同時に、彼もスマホを確認しているのが視界に入る。その顔がみるみる赤く染まり、次の瞬間、二人の視線が交錯した。
「……宮下さん……タカコさんだったんですか?」
私が恐る恐る尋ねると、彼は目を見開いて息を呑む。
「瀬川さんが……ユウキさん……だったんですね。」
その言葉が胸に響き、VRでの記憶が一気に蘇る。あのタカコが、目の前の宮下だなんて――。
沈黙が流れる中、彼は視線を俯けたままぽつりと呟いた。
「……なんか、すみません。僕……気持ち悪いですよね。」
その言葉を聞いた瞬間、胸が締め付けられるような痛みが走った。
「気持ち悪いなんて思いません!」
彼が驚いたように顔を上げる。その目に映る戸惑いと少しの不安に、私は強く言葉を続けた。
「それなら私だって同じです。女なのに男性アバターを使っていましたから。」
「現実の自分とは違う自分でいたくて、ユウキを使っていました。でも、そんなことどうでもよくなるくらい……タカコさん――タカヤさんに会えて嬉しいです。」
その言葉に、彼は息を呑み、じっと私を見つめた。
また沈黙が訪れたその瞬間、軽やかなノック音とともに扉が開いた。
「お待たせしました!コラボ限定のラテです!」
沙耶さんが明るい声で飲み物を運んできた。その声に、部屋に漂っていた張り詰めた空気が一気に和らぐ。
「どうぞ、ラテです。お二人、何か特別なご縁があるんですか?」
「え……」
戸惑いながら宮下さんに視線を向ける。彼も困ったように苦笑した。
「偶然です、たぶん。」
沙耶さんは満足そうに微笑むと、壁の詩を指差した。
“どんな道も交わる時がある――その瞬間は未来を紡ぐ始まり”
その詩を目で追いながら、胸の中に不思議な感覚が広がる。そして沙耶さんは、ふとにっこり笑ってこう言った。
「偶然なんかじゃないと思いますよ。」
そう言い残して軽やかに部屋を出ていくと、再び静寂が訪れた。
「……タカヤさん。」
ようやく私は口を開いた。彼は顔を上げ、視線を合わせてくる。その目にはまだ戸惑いが残っていた。
「現実のタカヤさんも、VRのタカコさんも……私にとっては同じです。どちらも大切な、私の大好きな人です。」
その言葉に、彼はまた息を呑んだように目を見開いた。そして少しずつその瞳の中に、微かな希望の光が灯っていくのが見えた。
「これから……ゆっくり話していきませんか?」
私の声は静かな約束だった。彼は少しの間黙っていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「……はい。」
この瞬間が、私たちの新しい始まりだという確信が胸に広がっていく。
VRパート
ログインした瞬間、ギルドハウス特有の柔らかな光景が目に入った。木目調の床や暖かな光の差し込む天井、メンバーたちの声が行き交う穏やかな空間――。けれど、今日はその空気を十分に感じる余裕がない。現実での出来事が頭の中でぐるぐると渦を巻いていた。
目を向けると、カナがテーブルの端に腰掛けているのが見えた。その隣にはハルの姿もある。どちらも普段通りの落ち着いた様子だが、私の中にはどうにも整理のつかない感情が広がっていた。
(一言いっておかないと。)
決意を固めて一歩一歩近づく。けれど胸がざわざわとするのを止めることができない。
「カナ、少し話があるんだけど……時間いい?」
私が声をかけると、カナは振り返り、ばつが悪そうな顔を浮かべた。けれど、すぐにその表情を崩し、両手を合わせて深々と頭を下げた。
「ごめん!」
その行動に一瞬驚く。
「……カナ?」
カナは顔を上げて、少し困ったような笑みを浮かべながら続けた。
「もうさ、我慢できなかったの!ユウキとタカコ、絶対現実で会った方がいいって思ってたから……つい!」
「……カナ。」
驚きと怒りの入り混じった声が自然と出てしまう。けれど、彼女の目には嘘や悪意がないことが伝わってきた。
ハルが静かに立ち上がり、私の方を向いて口を開く。
「すまない。俺も止められなかった。むしろ、俺も我慢できなかった。」
その言葉に胸が締め付けられる。ハルの落ち着いた声には、カナと同じように純粋な気持ちが込められていた。
「……どうしてそんな風に勝手なことを。」
私がそう呟くと、カナが申し訳なさそうに手を振る。
「本当にごめんね。でも、ユウキだって、タカコのこと好きなんでしょ?だったらさ、悪い結果にはならないって信じてたの!」
その無邪気な言葉に、怒りは湧きながらも、完全に否定しきれない自分がいた。カナの行動が強引であることは間違いないけれど、彼女の言葉は核心をついていたからだ。
「カナのやり方は雑だったが、結果として悪い判断ではなかったと思う。」
ハルが低い声でそう言った。その言葉に、胸がざわめく。
「……ハルも、私たちのこと知ってたの?」
問いかけると、彼は静かに頷いた。
「ああ。カナが嬉しそうに話してきたからな。お前らの現実での姿も、しっかり見せてもらった。」
その言葉に、全身を驚きが駆け巡る。
「……え……見てたの?」
すると、カナがすかさず声を上げた。
「そうだよ~!だって、ユウキも可愛かったし、タカコも素敵だったしさ~。見ない方が損じゃん!」
ハルは微かに笑みを浮かべながら静かに頷いた。
「ユウキは、いい雰囲気だったな。……一緒に仕事しても良さそうなくらいには。」
その言葉に、思わず首をかしげて苦笑する。
「それって……褒めてるの?」
私が少し戸惑いながら尋ねると、カナがすかさず茶々を入れる。
「褒めてるに決まってるじゃん!だって、ハルって気難しいんだよ!」
その軽いやり取りに、少しずつ怒りが和らいでいくのを感じた。
「はぁ、わかった。もういいよ。」
私が溜息交じりにそう言うと、カナは目を輝かせて手を広げながら叫んだ。
「わー、やったー!ユウキ大好き!」
そう言って、カナが勢いよく抱きついてきた。
「ちょ、やめろ!」私は慌てて彼女を軽く押し返す。そんな様子を見ていたハルは目を細めて静かに一言。
「すまん。」
その一言が妙に真剣で、私の胸の中に少しだけ温かいものを残した。けれど、言いたいことはまだ残っている。
「ただ、リアルで見てたって話はタカコさんにはしないで。傷つくかもしれないから。」
私が真剣にそう言うと、カナとハルは顔を見合わせ、声を揃えて元気よく敬礼した。
「了解!」
その動作が妙に息ぴったりで、つい吹き出してしまった。
「本当に……お前たちには敵わないな。」
私が呆れたように笑うと、カナは満足げにニヤリと笑い、ハルは肩を軽くすくめた。
「それって……褒めてるの?」
カナがわざとらしく、さっきの私の言葉を真似しておどけて見せる。
「こら!」
私はカナの頭をがしっと掴むと、そのまま頭を拳で、ぐりぐりとお仕置きを始めた。
「い、痛い痛い痛ーい!ハル、助けてよー!」
カナが大袈裟にジタバタしながら助けを求めるが、ハルは腕を組んで静かに一言。
「……南無。」
その冷静な返事に、つい吹き出してしまう。
「まったく……!」
私は手を離しながら、もう一度深く息を吐いた。カナは頭を押さえながら私を睨むふりをしているが、その顔には少し悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。
なんだかんだで、この二人には振り回されっぱなしだ。それでも――どこか温かい気持ちが胸に広がるのを感じた。
その時、ギルドハウスに響く明るい声。
「ねえ、なんか楽しそうな話してるじゃん!なになに~?」
振り返ると、リオがこちらに駆け寄ってきていた。カナが慌てた様子で制止しようとする。
「リオには関係ない話だから!ほら、あっち行ってて!」
リオは不満げに唇を尖らせる。
「えー、何それ!ギルドの秘密?もしかして、ユウキさんとタカコさんの話~?」
私はできるだけ落ち着いた声で答える。
「リオ、これはちょっと個人的な話なんだ。あまり気にしないでくれると助かるよ。」
リオは渋々とその場を離れ、ギルドチャットの方へ戻っていった。
リオが去った直後、ギルドチャットに見慣れた名前が表示された。
「タカコがログインしました。」
その瞬間、胸が跳ねる。自然と振り返ると、タカコがそこに立っていた。
「みなさん、こんばんは。」
その声に、少し緊張しながら私は応じた。
「タカコさん、こんばんは。」
彼女は控えめに手を挙げ、少しぎこちない笑みを浮かべていた。
「あの……リアルではすみません、驚かせてしまって……」
その申し訳なさそうな声に、私はそっと首を横に振る。
「そんなことないです。むしろタカコさんに会えて、嬉しかったです。」
彼女の頬が赤く染まり、その控えめな表情を見ていると、胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
背後から、カナの満足げな声が聞こえる。
「はぁ~、あの空気感……見てるだけで幸せになるね。」
ハルが静かに言葉を添える。
「そうだな。だが、これからが本番だ。」
その言葉が静かに響き、ギルドハウスに再び穏やかな空気が戻っていった。
ログアウトパート
ヘッドセットを外した瞬間、部屋を包む静寂が耳を支配した。ほんの数秒前まで、ギルドハウスの明るい光景や笑い声があったというのに――現実の世界は、こんなにも冷たく、静かだ。
私はそっとヘッドセットを膝の上に置き、ベッドに腰を下ろした。柔らかな灯りがぼんやりと照らす天井を見上げると、心の奥にざわつくような違和感が広がる。
(タカコさんと話せたけど……これで良かったのかな。)
胸の中に浮かぶのは、タカコ――いや、タカヤの不安そうな顔。VRの中で、ぎこちなく交わした会話を思い返すたび、心臓が小さく跳ねる。その感覚が心地よくもあり、切なくもあった。
けれど、同時に思う。自分は本当にあれでよかったのかと。もっと伝えたいことがあったはずなのに、結局また言葉を飲み込んでしまった。
「……私って、いつもこう。」
苦笑しながら自分に呟いた。相手を気遣うことばかりで、自分の気持ちを押し殺してしまう。そうして後悔ばかり積み重ねるのに、また同じことを繰り返す。
スマホの振動音が、そんな思考を断ち切った。画面を開くと、カナからのメッセージが目に飛び込んできた。
カナ:ユウキ、この前のことは改めて、ごめんね。でも、タカコさんには、もっと積極的にいってね!じゃないと、私がタカコさん口説いちゃうからね。正直、タイプなんだもん!
「……はぁ!?ちょっと、口説いちゃうってどういうこと?」
思わず声が漏れた。カナらしい軽い調子の文面に、怒りよりも困惑が先に立つ。スマホを持つ手に力が入り、画面を見つめたまま深く息を吐いた。
(なんでそんなこと言うかな……タカコさん――いや、タカヤさんは……渡したくない。)
胸の奥に熱いものがこみ上げてきた。だって――。
(私の妄想が現実だったんだよ?こうだったらいいのにって、悩んで、考えて、それでも現実じゃないって諦めてた。でも、こんな偶然があって、こんな嘘みたいなことが起きて……あまりにも――。)
気づくと、視界がぼんやりと滲んでいた。頬を伝う涙が、自分の胸に抱えていた思いを代弁しているようだった。
「ああ……私、苦しかったんだ。」
ぽつりと呟いた声が静かな部屋に響く。タカヤさんへの好意も、タカコさんから感じた優しさも、どうしたらいいのか分からなくて。けれど、タカヤさんがタカコさんなら――。
(もう何も悩むことも、迷うこともない。あの人が、私にとって唯一無二なんだ。)
自分の心の奥底にある答えに気づいてしまった。その瞬間、胸が締め付けられるような苦しさから、ふっと解放された気がした。
そんな時、スマホがまた震えた。今度はハルからのメッセージだ。
ハル:正直、済まなかった。カナと自分自身がどうにもならなくてな。それと、あんまりモタモタしてると俺がタカコを口説いてしまうかもしれん。
「……はぁ!?もう……二人して何なの……!」
怒りとも呆れともつかない感情が込み上げた。ハルの文面には彼なりの冗談が混じっているのは分かるけれど、それでも放っておけない。
(というか、ハルって男だよね?いや、もしかして……ハルって女性?)
自分の中で勝手に疑問が膨らみ、考えれば考えるほど頭が混乱してくる。勢いで返信しようかと思ったけれど、深呼吸して気持ちを落ち着けた。
「……もう、いいや。」
短い文面に込められた謝罪の意図を感じ取ると、怒りも不思議と失せてしまった。ハルもカナも、確かにやりすぎなところはあるけれど――それでも、二人の優しさを否定することはできない。
(でも、タカヤさんには、あの時、見てたってことを絶対に話さないでほしい。)
タカヤが知ればきっと傷つくかもしれない――そんな思いが、自然と頭をよぎる。
窓の外を見上げると、夜空にはひとつ、星がぽつりと輝いていた。その小さな光を見つめながら、私は胸の中に湧き上がる決意を静かに噛み締める。
「タカヤさん……次は、ちゃんと伝えたい。」
声に出してみると、胸の奥が少しだけ軽くなった。彼の存在が、私をこんなにも変えようとしている――そんな予感が、心をそっと温めてくれる。
(次に会える時は、きっと。)
小さく微笑みながら、私は窓の外に広がる夜空をじっと見つめた。
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