第9章:2030年10月31日 木曜日 宮下タカヤ

現実パート


朝から心が重かった。オフィスに着き、いつものようにパソコンを立ち上げる。モニターに映る数字やデータを眺めるものの、頭には何も入ってこない。キーボードを叩く手もどこか鈍く、思考は別の場所を漂っていた。


胸の中で絡まる感情が、消えずに渦を巻いている。


昼休み、僕は意を決して悠真さんに声をかけた。


「悠真さん、お昼……ご一緒してもいいですか?」


「お?珍しいな、どうした?」


悠真さんの軽い調子に、少しだけ救われる気がした。二人でオフィス近くの定食屋に向かい、窓際の席に座る。注文を済ませると、彼は肘をついて、じっと僕を見つめてきた。


「で、何だ?今日は何かあるんだろ?」


「えっ、何もないですよ?」


とぼけてみせたけど、悠真さんはニヤリと笑う。


「お前が俺を誘うなんて珍しいだろ。何か話したいことがあるんじゃねえの?」


その一言に、胸がズキリと痛んだ。見透かされた気がして、言葉が詰まる。


しばらく黙っている僕を見て、悠真さんはふっと真顔になった。


「まあ、いいけどな。話したいときに話せばいいさ。」


その声に背中を押されるように、僕は小さく息を吐いた。


「実は……ちょっと悩んでることがあって……」


「悩みねえ。お前にしては珍しいな。で、どんなことだ?」


言葉を探しながら、ゆっくりと切り出した。


「前に、悠真さんが言ってたこと……多分、その通りだと思うんです。」


「俺が言ったこと?何だっけ?」


「その……好きなんじゃないかって……」


最後の方は、声がほとんど聞こえないくらい小さかった。でも、悠真さんはちゃんと聞き取ったようで、目を丸くしたあと、ニヤリと笑った。


「やっぱりか。で、相手はどんな感じなんだ?」


「優しくて、明るくて、みんなに頼られてて……でも、僕なんかがそばにいる資格なんてない気がして……」


口にするたびに、自分の言葉がどこか空虚に響いた。その裏には、「本当の僕」を知られたくないという不安が渦巻いていた。


悠真さんは少し眉をひそめて、じっと僕を見つめた。


「お前さ、それ、勝手に壁作ってるだけじゃねえの?」


突きつけられた言葉に、心がざわつく。壁なんて作っているつもりはない。でも、気づけば自分の中で無意識に境界線を引いている。


「でも……」


そう反論しようとする僕に、悠真さんは少し体を乗り出しながら真剣な声で続けた。


「でもじゃねえよ。相手がどう思ってるかなんて、考えても分からねえだろ?お前がどう思ってるか、それが一番大事なんじゃねえの?」


その言葉が胸に鋭く突き刺さった。彼が言っていることは間違っていない。でも、僕にはその気持ちに正面から向き合う勇気がなかった。


視線を落とし、小さな声で呟いた。


「でも……僕は、本当の僕じゃないんです……」


その言葉に、悠真さんの表情が一瞬だけ曇った。


「……どういうことだ?」


曖昧な言葉に、彼がどう捉えたのかは分からない。でも、それ以上言葉を続けることはできなかった。VRの中で「タカコ」として振る舞う自分の存在、そして、その仮面の下にいる「タカヤ」という本当の自分。その矛盾を、どう説明すればいいのか分からなかった。


「ふさわしいかどうかなんてのは、お前が決めることじゃねえよ。」


悠真さんは少しだけ声を柔らかくして、そう言葉を続けた。その言葉に、胸の奥で小さな波紋が広がる。


「自分が勝手に決めつけて、勝手に諦めてんじゃねえの?相手のことを考える前に、まず自分の気持ちに向き合えよ。」


オフィスに戻る道すがら、悠真さんの言葉が頭の中で何度も繰り返される。


「逃げるのだけは、やめとけよ。」


僕はその言葉を噛みしめながら、心の中にある矛盾と向き合おうとした。


でも――


「……でも、僕には無理だ。」


小さな声で呟いた言葉は、空気に吸い込まれて消えた。


タカコとしてユウキと向き合うことも、本当の僕を知ってもらうことも――どちらも怖くてたまらない。勇気が出せない自分が情けなく、またその情けなさから逃げ出したくなる。


帰り道、冷たい風が顔を撫でる中、ふと足を止めた。


「本当に……逃げないでいられるだろうか。」


そう自問しながら、再び歩き始めた。僕の心の中にはまだ、答えの見えない問いが渦を巻いていた。





VRパート


ギルドハウスにログインすると、すぐに仲間たちの賑やかな声が耳に飛び込んできた。足音や話し声が混じり合い、ギルド全体が活気に溢れている。自然と目線が動き、彼の姿を探してしまう。


そして、すぐに見つけた。


「タカコさん、待ってたよ。」


ユウキが優しい笑顔を浮かべながら近づいてくる。その穏やかな声が胸に響くたび、心臓が早鐘を打つ。顔が熱くなるのを感じながら、なんとか平静を装って答えた。


「ユウキさん……こんばんは。」


その一言を返すだけで精一杯だった。彼がいるだけで胸のざわつきが止まらない。この感情が何なのか、もう分かっている。でも、それをどうすればいいのか、私には分からなかった。


「次のクエスト、どうしようか?」


ユウキがギルドのメンバーに声をかけ始める。その流れで私に目を向けた。


「タカコさん、次のクエストでは一緒に行こう。」


その言葉に、思わず目を見開いた。胸の奥で温かさが広がるのを感じながらも、どこか戸惑いを隠せない。


「えっ……私と?」


「タカコさんがいると心強いからね。」


何気ないその一言に、心が深く揺れる。嬉しさと切なさが入り混じり、息苦しさすら覚えた。


その瞬間、明るい声が割り込んできた。


「じゃあ、私も一緒に行こうかな!」


リオが楽しげに話しかけ、ユウキが「もちろんだよ」と優しく応じる。そのやり取りを見ながら、私は何も言えず俯いてしまった。胸の中でざわめく感情が、言葉を塞いでしまう。


クエストが始まっても、リオはユウキのそばを離れない。弾むような声で話しかけ続けるリオに、ユウキも自然な笑顔を返している。その光景を見るたび、胸が軋むような痛みが走った。


「タカコさん、大丈夫?」


ふとユウキの声が届いた。その優しさが、胸をさらに締め付ける。


「ええ、大丈夫です。」


ぎこちなく返事をする。私の中にあるこの感情――彼に伝えることなどできない。クエストの間もずっと、リオの声とユウキの笑顔が私の耳に残り続けた。


クエストが無事に終わり、ギルドハウスに戻った。メンバーたちは達成感に包まれ、笑顔で話し合っている。私は一歩引いた場所からその様子を見ていた。


「ねえ、ユウキ。この後少し時間ある?」


リオの声が聞こえた。振り返ると、リオがユウキに向かって軽やかに話しかけていた。ユウキは少し迷うように私を振り返ったが、リオに応じて軽く頷いた。


その光景を見て、僕は静かにギルドハウスの端へと歩き出した。足音を聞かれないように、そっと離れる。背中にユウキの視線を感じた気がしたけれど、振り返ることはできなかった。


「これでいいの。」


小さく呟いた言葉は、自分に言い聞かせるためのものだった。僕には彼の隣にいる資格などない。それでも――それでも、本当は。


ログアウトの準備をしながら、頭の中でユウキの声が何度も繰り返される。


「タカコさんがいると心強いからね。」


その言葉が胸に残り、何かがじんわりと広がっていく。それが嬉しいのか、苦しいのか、自分でも分からない。ただひとつ分かるのは、彼に向けるこの思いが、日に日に大きくなっていることだった。


最後に、ログアウトの直前、ユウキがこちらをじっと見ているのを感じた。その視線が切なくて、思わず目を逸らす。


「逃げるのだけは、やめとけよ。」


悠真さんの言葉が頭をよぎった。でも――。





ログアウトパート


ヘッドセットを外した瞬間、静寂が耳を満たした。ギルドハウスの賑やかな声や温かな空気は消え、目の前には現実の薄暗い部屋が広がっている。明かりをつける気にもなれず、僕はただ椅子にもたれかかり、深く息を吐いた。


胸の奥が重い。ギルドで過ごした時間の余韻が、現実の冷たい空気の中でじわじわと消えていく感覚があった。


「僕は、僕は……ただ気持ち悪いだけだ。」


呟いた言葉が部屋の静寂に吸い込まれていく。目を閉じて思い浮かぶのは、ユウキの笑顔だった。あの優しげな瞳、柔らかな声。すべてが僕の中に温かさを残していく――いや、残していくからこそ苦しい。


「僕は……男にも、女にもなれなくて……。」


つぶやきながら、胸の奥がさらに苦しくなる。タカコとして振る舞う自分と、現実の宮下タカヤ。どちらも自分なのに、どちらでもない気がする。この中途半端な自分がユウキに好意を抱いているなんて――。


「僕の好意なんて、ただ気持ち悪いだけだよ……。」


口に出した言葉は重く、部屋の空気に張り付くように留まった。思えば、ユウキと過ごした時間のすべてが僕にとってかけがえのないものだった。でも、それが偽りの上に成り立っていると考えるたび、胸が痛くなる。


椅子に深く座り込み、天井を見上げる。悠真さんの言葉が頭を巡った。


「逃げるのだけは、やめとけよ。」


逃げている。分かっている。でも、どうしても踏み出せない。僕には、それだけの勇気がないのだ。


「少し……距離を置こう……。」


思い立ち、机の上にあるキーボードに手を伸ばした。VRのメッセージアプリを開き、ギルドのグループチャットを立ち上げる。キーボードを叩きながら、言葉を慎重に選んだ。


「訳あって、しばらくログインできません。」


打ち終えた指が止まる。送信ボタンを押すべきか迷った。文章を何度も読み返し、別の言葉に変えようかとも思ったが、結局そのまま送信ボタンを押した。


通知音がすぐに鳴り始める。グループチャットには次々とメンバーたちの返信が表示された。


「タカコ、大丈夫?何かあったの?」


「無理しないでね!」


「困ったことがあったら話してね。」


心配してくれる言葉たち。それに胸が少しだけ温かくなる。でも、同時に、彼らを騙しているような罪悪感が押し寄せてくる。


僕は返事をすることなく、メッセージアプリを閉じた。


窓の外を見ると、夜の街が静かに広がっていた。冷たい風が窓越しに伝わってくる。僕は深く息を吐いた。


「僕がいなくても、みんなは大丈夫だよね……。」


心の中で呟いたその言葉に、虚しさが広がる。ギルドは僕がいなくても回る。それは分かっている。それでも、胸にぽっかりと穴が開いたような気がした。


「少しだけ……少しだけ、休ませてほしい。」


心の中でそうつぶやいた。僕はユウキと向き合う勇気を持てなかった。そして、「タカコ」という仮面をかぶった自分と彼の間にある矛盾に、これ以上耐えられなかった。


現実とVRの間に立つ僕の中で、絡み合った感情が静かに絡み続けていた。


「逃げるのだけは、やめとけよ……。」


悠真の言葉が再び頭をよぎる。でも、僕はその言葉を受け止めることができないまま、ただ椅子にもたれかかり、静かに目を閉じた。

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