第八章:2030年10月28日 月曜日 瀬川ユリ
現実パート
ERPシステムの不具合が発生したという知らせが届いたのは、昼前のことだった。朝から詰め込まれた打ち合わせを終え、ようやく席に戻ったタイミングで、システム管理部から急ぎの連絡が入る。
「瀬川さん、午後のクライアントミーティングに影響が出る可能性があります。シンフォニックテクノロジーズの担当者が直接来て対応するそうです。」
その会社名を聞いた瞬間、かすかに既視感が走る。どこかで聞いたような名前――でも具体的な記憶には結びつかない。
「了解しました。会議室を用意します。」
システムエラーについての詳細を聞きながら、私は会議室に向かった。不具合はERPのデータ同期に関連しているようで、すぐにでも対応が必要とのことだった。
会議室のドアを開けた瞬間、そこにいたのは――タカヤだった。
私は一瞬息を呑む。机に向かい資料を広げる彼の姿は、控えめで真面目そのもの。けれど、その姿が頭の中に鮮明に浮かぶVRの中のタカコさんと重なる。
「失礼します。」
彼が顔を上げ、軽く一礼する。その丁寧な仕草に心がざわついた。
「こちらが今回のエラーに関連するログです。」
タカヤが資料を私に手渡した。落ち着いた声、控えめな仕草――それは現実世界での彼そのものなのに、どうしてもタカコさんの姿が重なってしまう。
「あ、ありがとう。」
声がわずかに震えた気がした。私は動揺を隠すために資料に目を落とす。
打ち合わせが始まり、タカヤはPCを開き、不具合の原因を調査し始めた。その手際はスムーズで、私たちの質問に一つずつ丁寧に答えていく。画面上に表示されるデータや設定項目を確認するたび、彼の指が正確に動いていく。
「これなら安心して進められると思います。ただし、一部の設定にはまだ確認が必要です。もし別の問題が起きたら、その時にまた対応しましょう。」
控えめながらもどこか自信を持ったその声。その一言に、私はハッとした。
――この言い回し、どこかで……。
VRの中で、タカコが言っていた言葉とそっくりだった。慎重で冷静、でもどこか優しさを感じさせる語り口。そして、「安心して進められる」という独特の表現。タカコが、ギルドでメンバーに状況を説明する時に何度も使っていたフレーズ。
「なるほど……。」
私は努めて平静を装いながら相槌を打ったが、胸の奥がざわついていた。
――まさか……でも、そんなことが……?
彼の仕草、言葉遣い、そして今のセリフ。そのすべてが、あのタカコさんと不思議なほど重なっていた。
さらに、彼が作業中にふと眉を寄せた仕草。それは、タカコがギルドの作戦を考える時に見せる、あの表情そのものだった。眉間に小さく刻まれた線まで、記憶の中の姿と一致している。
「瀬川さん?」
名前を呼ばれ、私ははっと我に返った。
「あ、はい。すみません、少し考え事をしていました。」
ぎこちなく微笑みながら応じると、タカヤは「いえ、大丈夫です」と軽く首を振り、また作業に集中する。その仕草さえも、私の記憶の中に刻まれたタカコと重なって見えた。
――偶然?それとも、何か……?
私の視線が知らず彼の手元や横顔を追っていたのを悟られないよう、そっと目を逸らした。
ERPのトラブル対応が終わり、オフィスに戻る途中で私はふと時計を見た。18時過ぎ――今日の仕事はこれで終わり。ここしばらく、ずっと忙しくて夜遅くまでの残業が続いていたが、やっと一息つける。
「これで……戻れる。」
自然と呟いたその言葉に、自分で驚く。戻る――それは、VRの中の世界。私にとって現実の喧騒から解放される、唯一の場所。
――みんなどうしているかな。
カナ、ハル、リオ、そして……タカコさん。最後にログインしたのは10月7日。あれから20日以上が経っている。その間、ギルドはどうなっただろう。新しいメンバーが増えているのか、それとも……。
考えるだけで胸がじんわりと温かくなる反面、少し緊張も走る。私がいない間に何か変わってしまっただろうか。
「早く帰ろう。」
自然と足が速まる。冷たい風が頬を撫でるけれど、今はそれが心地よい。自宅でヘッドセットを装着し、再びあの世界に戻れることを思うと、少しずつ心が浮き立っていく。
「もし、彼がタカコさんだったら、私はどうするだろう。」
その問いが何度も浮かび上がる。歩きながら、自然と彼の仕草や声を思いだしてしまう。
タカヤが話しているときに、少し眉を寄せる癖。
それは、タカコが迷ったときに見せた、あの考え込むような表情とどうしても重なってしまう。
そして、何かに集中するときにふと首を傾ける仕草。
それも、タカコがクエストの作戦を練っていたときの姿勢と、驚くほど似ている。
頭の中でつながる二人の存在。その重なりが、胸の奥に温かいものを広げていく。
「これは妄想。でも、もし……。」
もし彼がタカコだったら、私はどうするだろう。
どんな気持ちになるだろう。
「……嬉しい。」
その感情が自然に湧き上がる。私は驚いたけれど、否定することはできなかった。ただ彼がタカコさんであるかもしれない――そう考えるだけで、胸がふわりと軽くなった。
帰り道、ふと足が止まった。周りは薄暗くなり始め、街灯の光が柔らかく辺りを照らしている。私は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
「……好き。」
その言葉が、不意に口をついて出た。思わず自分で驚き、口元を手で覆ったけれど、心の中の声は否定しない。
――あの世界で、また彼に会える。そう思うと胸が高鳴る。
小さな光が胸に灯り、それがこれからの行動を導いてくれる気がした。私はその光を頼りに歩き始めた。家へ、そして新しい日常へ――再びVRの世界に戻る準備をしながら。
VRパート
久しぶりにVRにログインすると、目の前に広がるギルドハウスの光景が一瞬まぶしく感じられた。温かい木目調の壁、天井から吊るされたシャンデリア風のランプ。そして賑やかに話す仲間たちの声が耳に飛び込んできた。けれど、その中に少しだけ硬い空気を感じ取る。
「ユウキさーん!おかえり!」
カナの明るい声が一番に響き渡り、彼女が勢いよく駆け寄ってくる。
「久しぶりじゃん!忙しかったの?」
「ちょっと仕事が立て込んでてね。」
そう返すと、彼女は頷きながら微笑んだ。
「タカコさん、ユウキが来たよ!」
カナがそう呼びかけると、ギルドの奥で作業をしていたタカコがこちらに顔を向けた。彼女の表情はいつも通り穏やかだったが、その瞳がわずかに揺れたように見えた。
「ユウキさん、お疲れさま。戻ってきてくれて良かった。」
短いながらも、その一言には真心が感じられた。久しぶりに彼女の声を聞いたことで、胸の奥が少し温かくなる。
「俺がいない間、大丈夫だった?」
軽く尋ねると、タカコは小さく頷いた。
「少しバタバタしたけど、みんなで乗り切ったわ。」
その言葉に安堵すると同時に、彼女が少し疲れているようにも見えて気になった。
ギルドハウスを見渡すと、普段の賑やかな雰囲気とは違い、どこか張り詰めた空気が漂っている。中央ではリオが話しており、メンバーたちがその周囲を囲んでいた。
「これもギルド全体のためよ。効率的に進めるには、私が一括管理したほうがいいの。」
リオの声は柔らかいけれど、どこか押しつけがましさを感じさせる。彼女の提案に対し、周囲のメンバーたちの表情には戸惑いや不満が浮かんでいた。
「リオ、それはちょっと違うんじゃない?」
カナが口を開いた。彼女の声にはいつもの明るさが少し欠けている。
「みんなで協力してるからギルドがうまく回ってるんだよ。独り占めみたいに見えるのは、やっぱりまずいと思うな。」
その場に重い沈黙が落ちた。リオは戸惑ったように視線を泳がせたが、すぐに微笑みを浮かべた。
「独り占めなんて、そんなつもりはないわ。ただ、無駄をなくすために提案してるだけ。」
メンバーたちは納得しきれない様子で、小さな不満の声が漏れ始める。その時、タカコがゆっくりと前に進んだ。その動きだけで、ギルド全体の空気が一変した。
「リオ、効率を考えるのはいいことだよ。でも、みんなの意見を取り入れないと、それはただの独断にしか見えない。」
タカコの声は冷静で穏やかだった。その一言にリオは一瞬息を飲み、小さく頷いた。
「例えば、倉庫管理をリオが中心になって進めるのは賛成。でも、資源を動かす時や新しいルールを決める時は、事前にみんなに共有する仕組みを作るべきだと思う。共有ボードを使えば、全員が状況を把握できるし、無駄な混乱も防げるはず。これなら安心して進められると思います。」
その提案にリオは少し考え込み、やがて静かに頷いた。
「分かったわ。その方法なら、みんなも納得してくれるわね。」
緊張していた空気が和らぎ、メンバーたちも安心したように元の作業に戻り始めた。タカコの具体的な提案が、ギルドの不安を解消し、活気を取り戻すきっかけとなったのだ。
けれど、私の胸には引っかかるものがあった。タカコが議論を締めくくった時の言葉が耳に残っている。
「これなら安心して進められると思います。」
――どこかで聞いたことがある。
その瞬間、頭の中に現実世界の光景がよみがえった。あの日、会議室でタカヤが同じ言葉を言ったのだ。「これなら安心して進められると思います」と。
――偶然?でも、仕草も、言葉遣いも……。
胸のざわつきがさらに大きくなる。目の前のタカコの背中に視線を向けたが、彼女は一度もこちらを振り返らなかった。その様子に、言葉にならない寂しさを覚えた。
「タカコさん……。」
心の中で彼女の名前を呼びながら、どうすればいいのか分からないまま、その背中を静かに見送った。
「ユウキ、どうしたの?なんか悩んでる顔してるよ。」
カナが軽い調子で声をかけてくる。彼女の明るさが少しだけ私の肩の力を抜いてくれた。
「カナ、ちょっといいかな?」
そう切り出すと、彼女は驚いたように目を丸くした。
「どうしたの?珍しいじゃん。」
私は少し躊躇いながらも、思い切って話し始めた。
「今日は、タカコさんが俺に距離を置いてるように感じるんだ。何か気に障ることでもしたのかな。」
カナは私をじっと見つめたあと、くすっと笑った。
「ユウキ、それ本気で言ってる?」
「え?」
彼女は呆れたようにため息をつくと、いたずらっぽい笑顔を浮かべた。
「タカコさん、あんたのことが大好きなんだよ。でも、どう思われてるか分からないから、悩んでるんじゃない?」
その言葉に、胸が大きく跳ねた。
「タカコさんが……俺を?」
「そうだよ。あんたが気づいてないだけ。タカコさん、ユウキにだけ特別な目してるよ。」
その言葉が胸の中で広がる。「もしタカコさんがタカヤさんだったら……?」その可能性を考えるたびに、胸がざわつくと同時に温かくなる。
「次回、彼女とちゃんと話してみよう。」
心の中でそう決め、私は静かにギルドハウスを見回した。タカコと向き合うべき時が来たのだと感じながら、ログアウトの準備を始めた。
ログアウトパート
ヘッドセットを外すと、部屋の静寂が全身に押し寄せてきた。ギルドハウスの温かい空気やカナの明るい声が、まるで幻のように遠ざかっていく。現実の冷たさが肌に触れるたび、私は自分が戻ってきたことを実感する。
椅子にもたれかかり、深く息を吐いた。目を閉じても、頭の中ではカナの言葉が反響し続けている。
「タカコさん、あんたのことが好きなんだよ。」
胸の奥がふわりと温かくなる。その一方で、その温かさを否定するかのように、不安が波のように押し寄せてくる。
(でも、私は女だし……。)
その事実を、何度も自分に言い聞かせる。そうすれば、この感情を抑えられる気がした。でも、胸の中でざわめく思いは消えない。カナの言葉が真実だとすれば、私はタカコにどう応えればいいのだろう。
机に置いたヘッドセットに視線を向ける。そこには、私をもう一つの世界へ繋げてくれる扉がある。でも、今その扉を開く勇気は持てなかった。
ふと、頭に浮かぶのはタカヤの姿だった。
現実で出会った、控えめで真面目な彼。資料を手渡すときの丁寧な仕草や、不具合の原因を説明する落ち着いた声。それはどこか頼りなげなのに、温かさを感じさせるものだった。
(タカヤさん……。)
彼のことを考えると、胸の奥がじんわりと温かくなる。それは自然な感情で、嘘ではない。彼のことをもっと知りたい、一緒にいたい。そう思うのはごく普通のことだった。
でも――。
(タカヤさんがタカコさんだったら……。)
その可能性が、私の中で確信に近づきつつあった。言葉遣い、仕草、そして今日、タカコが口にした「これなら安心して進められると思います」というフレーズ。それらが一致する偶然を、もはや妄想だと片付けられなかった。
(もし本当にそうなら……。)
頭の中で彼と彼女の姿が交錯する。タカヤの控えめな笑顔、タカコの冷静で頼れる言葉。どちらも私にとって大切な存在だ。そして、その二人が同一人物だとしたら――。
「……タカヤさんがタカコさんだったらいいのにな。」
不意に漏れたその言葉に、私は自分で驚き、口元を手で覆った。けれど、それが心からの願いだということに気づいてしまう。
(タカコさんも、タカヤさんも、どちらも私にとって特別な人。)
でも、その二人が重なることで、胸の中の感情はさらに複雑になっていく。もしタカコがタカヤだったら、私は――嬉しい。でも、もしそうじゃなかったら……?
「どうして、こんなに迷うんだろう。」
窓の外を見ると、夜の街灯が静かに輝いていた。私は小さく息を吐き、深呼吸をする。冷たい空気が肺に広がり、頭が少しだけ冴える気がした。
(真実を確かめるしかない。)
胸の中に芽生えた迷いと希望。その両方を抱えたまま、私は次回のログインでタカコと向き合うことを決意した。
彼がタカヤであれ、そうでなかれ、私は彼(彼女)と正面から話す必要がある。それが私の心を整理する唯一の方法だ。
「タカコさん……。」
小さく名前を呼びながら、私はヘッドセットをもう一度そっと見つめた。そしてそのまま、明かりを落とした部屋の中で、静かに瞼を閉じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます