第7話 死者と誓いの杯

 江若雪は、穀物店を商う資産家のひとり娘。彼女の祖父は根っからの本の虫で、写本を生業にしていた杜天佑の父の得意客だった。幼い杜天佑は父の使い走りで、よく江の屋敷に出入りしていた。その縁で、彼は歳のちかい江若雪と知りあったのだ。

 生まれつき体が弱い江若雪は、屋敷のなかで本ばかり読んでいる娘だった。そのため、友人と呼べる人間は少なかった。ただ、読書による学識ゆえだろう。彼女は、だれにでも公平で思いやりのある女性だった。両親を亡くした杜天佑にも江家の書庫を解放してくれ、彼が以前と同様に読み書きの勉強をできるよう計らってくれた。彼女が男であるならきっと、人々は彼女こそ君子だと誉めそやしたにちがいない。

 そんな江若雪だったが、結婚話が舞いこむ数日前、もともとの体の弱さが原因で、ついに命を落としてしまったのだった。


「亡くなった日の夜だそうです。江家の当主夫妻の夢に、小雪が現れたのは」


 義父と義母、それぞれの夢に現れた江若雪は、しきりに杜天佑を江家に迎えたいと訴えたのだそうだ。この訴えを聞き、彼女の両親は考えた。

 杜天佑は親のない貧しい青年ではあるが、なかなかの美男子だ。内気な娘は彼に淡い恋心をよせていたにちがいない。愛しい人と結ばれぬまま終わった人生を、愛娘は嘆いているのだろう、と。

 こうして、ひとり娘を不憫に思った江若雪の両親は、杜天佑に養子とは名ばかりの『幽霊の花婿』になるよう頼んだのだった。


『婿となり、斎日には娘の供養のために紙銭を燃やしてほしい。願いを叶えてくれるなら、望むままの結納金を支払おう』


 恩人である温子平の借金を返済するため、そして幼なじみを供養するため。杜天佑は『幽霊の花婿』になると承諾したのだった。


「娘を結婚させてやりたいが、世間体も気になったようです。江家の当主夫妻は、わたしを養子として迎えましたが、わたしの姓はそのままでした。ときどき舞いこむ写本で日銭を稼ぐしかない半端者のわたしに、破迷司の職を斡旋し、体面を保てるよう計らってもくれたのです。そうして、人目を忍んで簡素な結婚式を挙げた直後でした」


 よどみなく語りながら、杜天佑は背後の江若雪に目をむけた。


 お気に入りだった萌黄色の着物を身にまとい、江若雪は静かに立っている。食が細く、屋敷に閉じこもってばかりだったから、ほっそりとして色白の美人。杜天佑が見ていると気づかないのか、彼女の視線ははるか遠方を見つめたままだ。二人の視線は、まじわらない。

 しかも、じっくりと目を凝らしてみると、その体は半透明──どう見ても、生きている人間の姿ではなかった。


「簡単でも婚姻の儀式だ。彼女と浅からぬ縁ができたから、姿が見えはじめたのだろう」


 雷嵐が当然のごとく言う。

 遠くを見つめる江若雪に視線をむけたまま、杜天佑は「おそらく」と相づちを打った。うなずきながら、彼は結婚式の夜の出来事を思い返した。


 赤い結婚装束をまとい、夫婦の寝室に入った杜天佑は、縁を結ぶための酒をひとりで飲んだ。そして、食卓の上に置かれた江若雪の位牌に、さっと酒をふりかけた。その瞬間、亡くなったはずの彼女が目の前に姿を現したのだ。


「それにしても、どうしてそんな表情をする?」


 雷嵐の声が耳にとどき、物思いにふけっていた杜天佑は現実にひきもどされた。質問の意図がわからず、「え?」と疑問の声をあげる。

 雷嵐はつづけた。


「困っているのとも、悲しんでいるのとも違う表情だ。幽霊を恐れて腕輪を身につけたのだと思っていたが、そうではないのだな?」


 ――悲しくないわけではない。もちろん、彼女を怖いとも思わない。ただ……


 江若雪への思いを語る言葉が、杜天佑には見つからなかった。しかたなく、彼は「これは……」と腕輪に視線をむけて話しはじめる。


「最近、疲れやすいのです。それなのに、不注意にも掲げ持って眺めていたら、立ち眩みを起こしてしまい、その拍子に腕にはまってしまったのですよ。あれ以来、いろいろ試してみましたが、はずせません。そういう意味では、この腕輪にも困っています」


 うなずきで応じた雷嵐は「身近にいるだけで、幽霊は生きた人間の生気をうばう。疲れやすいのは、そのせいかもしれないな」と、また見解を口にした。


 ――新しい仕事に就いたばかりだから、気疲れしているのだと思っていた。


 多少驚いた杜天佑だったが、彼は腕輪の由来の話を優先した。


 両親が亡くなる数日前。杜天佑は、家宝の腕輪を父から託された。

 受け取る際、不思議な力を秘めた腕輪なのだと父は教えてくれた。苦境に陥ったときに身につければ、困難を乗り越える力を手にできるとの伝承があるらしい。大切な家宝であるため、代々の家長でこの腕輪をはめた者はいないとも聞いた。

 父が弱々しい声で『よほど困らないかぎり、身につけてはいけないよ』と言ったのを、杜天佑は今でも鮮明に覚えている。


「まさか、不注意で身につけただけとは!」


 驚きを通り越し、あきれたとでも言いたいのだろう。疲れた声をあげると、雷嵐は天を仰いだ。ただ、すぐに気を取り直したらしい。彼は「しかし、このまま幽霊を近づけていれば、いずれ疲れでは済まなくなる」とぼやき、杜天佑に忠告する。


「今の彼女には、おまえを少し疲れやすくする程度の影響力しかない。それでも、放っておけば、害のない幽霊もいずれ悪霊化する。悪霊化すれば、疲れるどころか、命を落としかねない」


 そこで言葉をきった雷嵐は、胸に手を当てて「だが幸い」と言い、話を再開した。

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