第20話 みかがみの女
「あったかいもの飲むと、心が落ち着きますよ」
とん、と芽依の前に紅茶のカップが置かれた。
芽依が臆病者と罵った相手、新司が笑顔で世話を焼いてくれて、芽依はきまりが悪そうにしている。
巧貢は芽依から少し離れて夜景を見ていた。視点の合わない都会の光をぼんやりと見下ろす。
いったん拠点のペントハウススイートに戻っても、心はむしろ沈むばかりだ。
「タクミさんもどうぞ」
「ありがとうございます」
巧貢はカップを受け取った。適温で、香りのいい紅茶。備え付けのものも質がいいのだろうが、きっと新司の淹れ方が上手いのだろう。
味は深みがあって、胃をほどよく温めてくれた。
「それで、芽依ちゃん。車内では聞きづらかったから、今確認するよ。
君は家出をしてきて、自宅に帰ったら殺されるの?」
芽依はこくんと頷いた。
テレビ局前で震えあがってからというもの、芽依の口数は減った。
「みかがみを勝手に持ち出したから、かな。
返すことはできる? 命のほうが大切でしょ。
お家騒動に他人が口を挟むのはなんだけど。継承権も放棄できたなら、芽依ちゃんにとって一番いいんじゃないかな」
芽依の能力は、実際にこの目で見た。綺人を捜索するのにこれ以上ない力だ。
とはいえ、味方につけるには不安定。さらに命を狙われている存在を連れ歩く余裕はない。
綺人が無事に戻ったなら相談もできるけれど。
……。
いつのまに、こんなに綺人に頼っていたのだろう。彼に鼻で笑われそうだ。
「神器のことを、三鷹周明殿から聞いてはいないのですか?」
「全然。三鷹さん自身、神器についてはわからないと言っていたよ。
ともに戦った人が、いまわの際に託したから、何も聞けなかったんだって」
「そうだったのですか。私は、勝手な思い込みを……」
芽依は、埋もれて溺れかけたソファに浅く座りながら、子どものように足をぶらぶらさせた。
何を話していいか迷った挙句、芽依はひとつずつ答えることにしたらしい。
「みかがみを返すことも、継承権の放棄もできません。
神器は、私の眼です。この瞳が、真実を見抜く神器“みかがみ”。
私が死ぬか、処女性を失うかすれば神器は消失します」
「えっ。
芽依ちゃん自身が神器ってこと!?」
芽依はこくんと頷いた。
巧貢も綺人も、体に神器を埋め込まれた。しかしそれらは明確な形を持っている。
芽依は、芽依そのものが神器だという。
芽依は静かに語った。
みかがみを造った一族「かがみね」の女は、女であるゆえに、暴力で神器を奪われることを恐れた。
神器をヒトに宿らせることで、みかがみを持つ女は意志ある神器となった。
男がその力を奪おうにも、女が死ねば消えてしまう。どこか遠く、いつ生まれるかわからない血族に継承される。
男がみかがみの女を力づくで陵辱し、我が子に神器を移そうとしても、処女性が消えた時点で神器も消える。
暴力に屈せず、自害や結婚によって女が自ら力を放棄できるように練られた術は、現代まで連々と息づき、三種の中でただひとつ現代に残った。
「私は叔父、父の弟に凌辱されそうになりました。
手あたり次第ものを投げて、ふりきって、儀式用の巫女服のまま、逃げて、……逃げ切れたのは奇跡でした。
次は、きっと、ころされる……」
再び震え始めた芽依にブランケットをかけ、新司は、そっと芽依の手を握った。
新司が優しく微笑む。ここは安全だと、態度で、表情で。
巧貢は芽依にまだ情はない。しかし新司は、どうやら『守ってあげたい子』認定してしまったようだ。
わんこが捨てにゃんこを拾わないでよ。巧貢は内心肩をすくめた。
「加賀峰家は形骸化したのです。今や、信者から金を搾り取る宗教団体にすぎません。
まともではないのです。なにもかも!
いつか逃げようと思ってはおりました。
着の身着のまま、金子もなく逃げることになろうとは、私も思ってはおらず……」
常識という一枚板で覆われた現代で、芽依の力がいくら強かろうと、後ろ盾なくては信じてもらえない。
年齢より幼く感じる精神は、偏った環境で育った故だろう。
彼女は、まず三鷹を頼ろうとしたが結界に阻まれた。だから三鷹の弟子(本当は弟子というほど伝授されていないらしいが)である綺人を探し、力を貸す代わりに保護してもらおうと思ったらしい。
偶然にも、その行為が綺人の行方を突き止めた。その奇跡には感謝したい。
もう夜が更けていた。
続きは明日にしようと、新司が消灯する。
芽依は夢を見ていた。
加賀峰家を飛び出してすぐの自分が、とぼとぼと歩いている。
行くあてもなく逃げて。怯え震えて最初の夜が明けた。
空腹と喉の乾きがつらくなった頃、芽依は人ならざる影を視た。
あれを祓えば、礼金が手に入る。今までがそうだったから。
父が請け負って自分にやらせた仕事は、一回で数千、数億の金が舞い込んだ。
自分ひとりでも、数万円くらい支払ってくれるのでは?
「もし、貴方様。
貴方様、お待ちください。
お命が危のうございます。その体、鬼になろうとしております。
私がお助けいたします。だから、」
ぐううう。
声をかけている最中にお腹が鳴った。
芽依の声かけには無反応だった女性が、お腹の音には振り向いてくれた。
「あら、どこの宗教勧誘かと思ったら。
ねえ巫女さん。お腹すいてるの?」
芽依は顔を真っ赤にしながら、それでも頷いた。
背をかがめ、芽依に目線を合わして話す女性は、かわいらしくも美人でもある、綺麗な人だった。
「よくわからない変なこと言わないで、最初からそう言いなさいよ。
うちにおいで。すぐそこなの」
この人は、仕事であればただ祓って、会話もしない憑物人(つきものびと)だ。
でも、おなかがすいて。おなかがすいて。彼女の手を取った。
笑顔で手を差し伸べてくれた人が、芸能人だなんて知らなかった。
高城世麗奈なんて名前、聞いたこともなかった。
「ね、巫女さん。
あなたが、本当に私の中のもの、見えているのなら……」
それはとても小さな声で、語りかけているのに独り言。
そこまでは芽依にも聞こえた。その先は音になっていなかった。
訓練を受けていた芽依は、唇を読んで、その先を理解した。
『 わたしを ころして 』
ちゃんと理解できたのに。
その時は、空腹でそれどころではなかった。
「ごめんね! オムライスにするつもりだったの!
これじゃケチャップチャーハンだわ……ひっどい出来」
世麗奈が申し訳なさそうに出してくれたお皿には、……茶色の混ぜご飯?
行儀よくスプーンですくって口に運ぶ。はじめて食べる味だった。あったかくて、甘くて、美味しかった。
「あらあら、泣いちゃった。
そんなに美味しくなかった? 一応味見したのよ?
残してもいいからね」
「ちがい、ます。
おいしい、おいしいのです。
とても、やさしいお味です」
「ほんと!?
次はちゃんとした料理を作るから! 期待、……しないで? あははっ」
この人は、どうしてこんなにやさしいのだろう。
鬼が感染して、この人は何日経っている?
もう喉元まで侵食されている。そろそろ精神が壊れていく頃だ。
平然と笑う姿こそ、高城世麗奈の演技力だったと、芽依は最後まで気づけなかった。
病の進行を食い止めようと、彼女が眠っている間に、何度も祓いを試みた。
効果はほとんどなかった。
なぜ、なぜ? どうしてうまくいかないのですか?
芽依の眼は正しく真実を視据えていた。それを、芽依が頑なに否定しただけで。
高城世麗奈は、出会った頃から手遅れだった。
たとえ人間の心が残っていようとも、感染が八割を超えれば戻れない。
九割を食われた彼女の未来は、鬼か、死か。ふたつにひとつ。
いいえ、私はできるはず。せれなさんを救えるはず。
だってこの人は、こんなに心がきれいで、優しくて、私を助けてくれた人なんです。
助けられないはずはないんです。
せれなさん、待って、逃げないで。
助けます、私、あなたを助けます。
待って、待って。いかないで、逝かないで。
鬼になっても、私なら、私ならきっとあなたを!
どん。
自らトラックに飛び出していった彼女。
私は無力だった。
中途半端に施した術は、最期の最期まで、彼女の心を人間に保っていた。
せめて、
くるわせてあげれば、よかった。
あるいは、
望み通り殺してあげればよかった。
みかがみの力は、女の眼。
刃のごとき鋭さも、弾丸のごとき速さもない。
守りと清め、真実を見抜くだけしか……。
「ん……」
目が覚めたら、芽依はソファにいた。あのまま横になって眠ってしまったらしい。
不思議なあたたかさがあって、そちらに寄ったら、おもちだった。
もとい、新司だった。
ふわふわおもちみたいに見える、正体不明の無垢な怪異。
ソファから落ちないように、新司は芽依を抱き寄せて眠っていた。
「……」
わからない。
何を信じていいか、何に従ったらいいか、わからない。
この眼はすべてを見通すはずなのに。大事なことはなにひとつ視えやしない。
「起きた?」
芽依に声をかけたのは巧貢だった。新司はよだれとともに、まだ夢の中だ。
巧貢はすでに身支度を済ませている。
妙に落ち着き払った青年は、朝日を浴びて凛と立っていた。
「これが最終確認。
芽依ちゃん。君がどんなに強くても、言うことを聞かないなら連れていかない。
君は、本当に綺人さんを助けたいの?
それとも、みかがみの継承者っていうプライドを守りたいだけなの?」
巧貢の言葉は鋭く芽依に刺さった。
反論の仕様もなかった。
自分は強い。自分はみかがみの化身。だから役に立つ。
その自信はどこからきていたのだろう。
現に自分は、せれなさんを目の前で失ったのに。
朝日でまばゆい、みつるぎの所有者。
芽依は、巧貢に深々と頭を下げた。
「貴方様に、従います」
「ありがとう。やっと君を信用できそうだ」
朝日よりもまばゆい右手の輝き。芽依には、埋もれた神器は力の塊のように見える。
芽依は、頭の先から足元まで、巧貢をまじまじと見た。
巧貢は少し童顔の青年で。ただそれだけで。
「巧貢様。あなたは何者なのですか」
どうしても聞きたかった問いを、芽依は口にした。
今を逃したら聞けないような気がした。
「僕は、芽依ちゃんにどう見える?」
「人間……です。神器以外は、あなたに特別なものは見えない、なのに。
あなたは、なにか、ちがいます」
「うん、そうだね。僕は」
巧貢はうっすらと微笑んだ。
「どこにでもいる、ただの大学生だよ」
夜も明るく照らされていたテレビ局だったが、朝は朝で明るく騒がしかった。
宙テレビジョンはビル自体が近代芸術のようで、惑星をイメージした作りが夜よりも目をひいた。
陽光がさんさんと照らすアスファルトの一部は、三角コーンで囲まれている。昨日新司が踏み抜いた部分だ。
きらびやかな世界の一角、人間が輝ける場所であるはずの建物が、誰にも気づかれず鬼に侵食されている。
「タクミさん、メイさん、事前の打ち合わせ通りにお願いします。
僕はアヤトさんの炎上の件で、関係者に謝罪回り中。
メイさんはお偉いさんのお孫さんで、どうしても見学したいと仮パスで入っている。実際はスタッフパスですけどね。
タクミさんは新人スタッフです。僕がメイさんの案内がてら、内部を教えている設定です。
誰かに声をかけられたら、挨拶と一礼のみで。あとは僕がフォローします」
「ありがとう、新司さん。
芽衣ちゃん。中に入ったら、綺人さんのいる場所を見つけてくれる?
いろいろひどいことを言ってごめん。僕の言い方、かなりきつかったよね。
文句はあとでちゃんと聞く。今は君の目が頼りなんだ。
綺人さんを助けてほしい」
「はい。私の全てを尽くします」
芽衣は強く頷いた。
巧貢は、キャップを深く被った。
新司は芽依と手を繋ぎ、緊張でこわばる顔で、それでも笑顔を作った。
綺人はまだ生きている、まだ間に合うと信じて。
人間の魔窟であり鬼の巣窟に、三人は足を踏み入れた。
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