第2話 蜘蛛の糸

「……あ、」



 巧貢はすぐに返事できなかった。

 見も知らぬ人に、いきなり思考を見抜かれたようなことを言われて。

 血の気が引いていくのが自分でわかる。心臓が気持ち悪く跳ねる。


 

「僕、……失礼します!」



 巧貢はその場から逃げた。

 サングラスの男からも、山本の死からも、想像の中の恐怖からも逃げた。

 受け止められない。受け止めきれない。



 こんなの、現実じゃありえない。

 祠みたいな変な岩を壊したからって、人が死ぬなんてありえないんだ!



 まっすぐに自宅、狭苦しいワンルームマンションに飛び込む。巧貢はスーツを脱ぎもせず、ベッドで毛布にくるまった。

 たまに山本が泊まりに来て、朝までゲームしたのを思い出す。

 あんなに仲が良くて、楽しくて、そういう時間はこれからも続くと思っていた。

 山本はもういない。今頃灰になっている。もう二度と遊びに来ない。



「あんなの壊したからって……、それだけで、そんなわけ、」


 

 どんなに理不尽で、非科学的で、ありえないことだったとしても。

 祠が壊れた。そして山本は死んだ。

 次は自分の番だ。

 誰も信じない。助けてくれない。



「……さっきの、ひと」



 やっと頭が冷静になった。

 サングラスの男性。ちゃんと見る余裕はなかったけれど、彼は確かに巧貢に尋ねた。

『ヤバいものに接触しなかったか』と。

 話したら理解してくれる? あれが原因なのか、どうすればいいのか教えてくれる?



 理解してくれるかもしれない、助けてくれるかもしれない人から逃げてしまった。

 すれ違っただけの人だ。きっと二度と会えない。馬鹿すぎて泣けてきた。



「たす、けて」



 今更な言葉が唇から漏れて、巧貢は鼻水をすすった。

 ふと、自分のお尻のあたり、後ろポケットに違和感を感じた。

 かたい何かがある。手をやると、名刺が入っていた。



「名刺? ……介音、綺人!!」


 

 介音綺人(かいねあやと)。俳優でシンガソングライターでマルチタレント。

 ほとんどテレビを見ない巧貢でも、名前と顔くらい知っている。

 芸能人の名刺は想像よりシンプルだった。バストアップ画像と名前、事務所、事務所の住所と連絡先が記された白い名刺。

 なんで後ろポケットなんかに。



『最近、ヤバいものに接触しなかったか?』



 頑張って鮮明に思考をたぐる。巧貢を見下ろす長身に大きめのサングラス。顔は分からない。

 でも、あの輪郭となんとなくの髪型は、写真によく似ていた。



「本人が、僕に名刺を?」



 あの人はとっさに名刺を、逃げる巧貢のポケットに滑り込ませた……ちょっと手品じみているけれど、理屈は通る。

 まるで、『気が変わったら連絡して来いよ』と言われたような気がした。

 地獄に一本の蜘蛛の糸が垂れたら、誰だって掴むだろう。



「もしもし、あの、さっき道ですれ違った……」



『はい、いつもお世話になっております。サンエムプロダクション、望月と申します。

 どういったご用件でしょうか』


 

 巧貢は反射的に電話を切った。

 マネージャーみたいな人に繋がった。

 当たり前だ。芸能人が個人の番号を名刺に乗せるわけがない。芸能事務所の番号だったんだ。

 芸能事務所にいたずら電話してしまった!!

 ごめんなさい!!



 もう一度電話する勇気はなかった。

 食事もせず、着替えもせず、巧貢は丸まったまま精神疲労で浅く眠った。

 まどろみが明晰夢を呼び寄せる。

 これは夢だとわかる世界で、巧貢は佇んでいた。



 真っ暗な空。夜だろうか。

 どこまでも広いところは、上も下も真っ暗だ。



 ずしん。

 足元が揺れた。

 ずしん、ずしん、ずしん。

 巨大なものが動いて、そのたびに地面が振動する。

 とても大きななにか。高さは電信柱くらい。トラックくらい横幅があって、がっしりしていて。

 墨のように真っ黒で、表面はてらてらしていた。

 人間に似た手足があった。ごつごつの体から生えた手足、ファンタジーの巨人のようだった。

 巨人は立ち止まり、ゆっくりと巧貢のほうを見た。



 夢だから悲鳴が出なかったのか。恐すぎたのか。

 巨躯の化け物の頭部はサイだった。動物園にいる、あのサイ。

 たるんだ皴のある表皮、大きな鼻、皮に埋もれるように小さな目。

 なんの感情もないサイの頭がこちらを見ている。

 鼻の上にある一本角は体躯同様に黒く、鉱石のように艶があった。



『 ぶおおおぉん 』



 化け物が鳴いた。

 腹に響く低い声だった。

 無感情だった獣の貌が、うっすらと意味を宿す。

 嗤った。

 巧貢を見て。巧貢を認識して、嗤った。



 ずしんずしんずしんずしん



 巨躯からは想像がつかない速さで地面が揺れる。歩いているのに速い。一歩が大きいのか。

 化け物は巧貢の前でぴたりと止まり、片腕を振り上げた。

 腕はごわごわと形を変えて、ヘラのような、ハンマーのような形になった。

 化け物が嗤う。振りかぶる。空気抵抗の嫌な音がする。逃げられな、



 能天気な着信音で、巧貢は飛び起きた。



 全身からぼたぼたと冷汗がしたたり落ちた。

 巧貢は相手が誰かも見ずに、スマホを掴んで電話に出た。

 誰かと話したかった。

 あれは、きっと、あれが、山本を殺したモノだ。



「もしもし!」



 叫ぶように、スマホの向こうへ縋り付く。

 聞こえた声は、知らないけれど知っている声だった。



『まだ生きてるか?

 ちゃんと電話できて、偉い偉い。

 俺の話、聞けそ?』



 低めでやわらかで澄んだ声。芸能人の声ってこんななのかな。

 巧貢は「はい」と頷いて、今度こそ彼に助けを求めた。



「介音綺人さん、たすけて、ください。

 僕、化け物に殺される。

 友人は死にました。次は僕の番で、きっと、

 山の中で、僕たちは祠みたいなもの、壊して、

 きっとそれで友人も、僕も、もうだめなんです」


『あー、わかったわかった。

 明日迎えに行ってやるから。

 今夜はもうソレ来ねえよ。お前以外にターゲットが移った。

 だから飯食って風呂入って寝てくんね?

 明日、へばる暇ないくらい連れまわすぞ。

 じゃあな』



 そんなことを言われたって、食欲はちっともわかなかったし、もう一度寝るのも恐ろしかったし、バスルームがものすごく怖かった。



 へばる暇ないくらい連れまわす……か。



 なにもしないで震えているのは簡単だ。それでは山本に顔向けできない。



 巧貢はお湯を沸かして、カップラーメンを胃に流し込んだ。

 目をつぶってシャワーを浴び、最低限体を洗ってすぐ飛び出した。

 スウェットに着替え、スマホで明るい音楽を流しっぱなしにして、無理やり横になった。



 今、巧貢ができることは、体力を回復すること。

 明日会う人が何をするかわからないけれど、なるたけ足手まといにはならないように。



 ……死にたくない。



 生まれて初めての切実な感情とともに、巧貢は、気を失うように寝入ってしまった。



介音 綺人 ヴィジュアルイメージ

https://kakuyomu.jp/users/yurayurahituji/news/16818093089543805931

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