8. 市職員ベッカ・ナ・フリガン

 

・ ・ ・ ・ ・



 夕刻。


 くたくたになった体をぷよぷよと弾ませ、ベッカは市庁舎を出る。



「お疲れさまでーす!」



 言いながら、同僚が追い越していった。


 自分より一つ年下のその文官は、市庁門のすぐそばにたたずんでいた女性に向けて手を振り、やがて一緒に歩いて消える。界隈で働いている奥さんと待ち合わせて、帰ったらしい。



 ふはー、とベッカは嘆息を吐く。


 午後はいつも通り市職員の仕事、書類をまとめて小会議に出て、それからお呼びがかかって相談役になった。


 匿名でと頼まれて、板仕切りを隔てて聞く、若い女の苦悩。たぶん貴族だ。


 子どもの発達を夫と姑が疑っている、自分は家庭教師が厳しすぎるせいと思っているが主張を聞いてもらえず、子は萎縮がひどくてこのままでは本当に病気になってしまう。市外の実家に逃げ込みたいがこの場合、子さらいになってしまうのだろうか、云々――。



 要約すればそういう話だったが、女は嗚咽をまじえながら独り言のようにぼそぼそ語るものだから、時間ばかりが食われた。子も危ういが、母親のほうが迫って・・・いる、とベッカは判断した。



「……大切なお子さんの成長が普通でないと、旦那様とお義母様に言われて、どうにも心苦しいのですね」


「は……」



 語尾を押しつぶしたような、暗い声がこたえる。



「お母さんが子ども連れで実家へ休養にゆくのは、ごくありふれたことですから、お姑さんたちも反対する理由なんてありません。お友達やご近所さんなど、できれば他の人にさりげなく同席してもらった場で言えばいいですよ。そうしていったん間を置いてから、何とか別の教師に替える作戦をねりましょう……」



 板仕切りのむこう、母親はどう思っただろう。


 むしろ姿が見えなくて良かったのかもしれない。助言を提案しているのが、こんなに若くて見るからに子育て経験のないぽっちゃり男と知ったら、そもそも打ち明け話をしようと思うだろうか。



「お子さまはおいくつでしたか、……六つ? それじゃあ、夏の間まるまる母方実家休暇、としたって何も変じゃないですね。ご両親は? お元気なのですか、ならば日中お祖父さまお祖母さまに預けて、奥様だけガーティンローに戻れますね。その際に上階の教育課が、ご相談にのります。登録教師陣の中から、相性の良さそうな先生を探していきましょう」


「……できるのかしら、わたしに……」



 声は、あからさまに怯えひるんでいる。



「大丈夫、できますよ。たった一人でこちらへ相談に来ることのできた奥様には、もうご勇気があるんです。それに、ここから先かならず他のものがお手伝いします。お母さまが独りにならないことが、一番大事なんです」



 小さな沈黙があって、……女ははなをすすった。


 かさこそ、手巾を取り出している気配。



「確かに、単純なことではありませんよね。だからお子さまと一緒に、お母さまもしっかり休養をとることが不可欠です。少々強行でも、やはりご実家へ行かれるべきでしょう……。ああ、この場合は親御さまの体調不良、というのが一番手っ取り早い方便かもしれませんね」


「……父も母も、ぴんぴんしておりますのに?」



 ふふ、と少しだけ笑みが声ににじんだ。ようしッ。



「ええ、そうです。ほんとの所はただの≪孫に会いたい病≫ですけど、病名まできっちり聞きただすようなぶしつけは、さすがに旦那様もなさらないでしょう」


「ありがとうございます、侯」



 声は低く落ち着いて、言った。



「その手で、いってみますわ。……本当にありがとう、わたしの話を聞いてくだすって」



 この女性は行動を起こすだろうか。


 今すぐにはおこさなくても、独りっきり子を抱えて闇の中にいるような哀しい錯覚からは、逃れられたかもしれない。それで少しは元気になれるはずなのだ。


 そうして力を取り戻してから、自分なりのやり方で問題に立ち向かってゆけばいい、ベッカはそう思う。


 いちばん伝えたかったこと、彼女に必要な言葉は、伝わったのではないか……。それでもあえて、彼は繰り返す。大切なことだから、かさねて言う。



「奥様は、ひとりじゃありませんよ。僕らとガーティンロー市が、あなたのうしろについています」



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