第14話

日暮れが近づいている。

僕らは春が来るのを待って、あの街を後にした。一冬を過ごした街だった。名残惜しくないと言えば嘘になるけれど、でも、様々な影響を考えると、あの街に留まるのは限界だったのではないかと思う。

僕のせいで。



さわさわと、春としては冷たい冬の気配を孕んだ風が僕らの側を通り過ぎていく。街と街とを結ぶ街道沿い。川が流れていて、野宿をするのに丁度良さそうだった。水は旅人の命綱だから、水のある位置を把握して旅をすることはとても大切なのだという。

旅慣れた人たちは、井戸・湧水・湖沼・川の位置をしっかりと把握している。それらの位置を記したお手製の地図を持って旅をするのだという。スタンに教えてもらった。

「スタン」

「はい」

「今日はここらで野宿をしたいと思うんだけど、どうかな?」

「良いと思います。時間も丁度いい頃合いです。これ以上は進めないだろうと、私も考えていました」

「良かった」

「適当な場所に荷物を置いたら周囲の様子を見てきます。夜の準備をお願いしてもよいでしょうか?」

「もちろん。気を付けて。君が居なくなってしまうと、僕は路頭に迷ってしまうから」

僕の言葉を聞いてスタンが苦笑している。先日の僕の失態を思い出したらしい。恥ずかしい。

「ええ。不用意に水辺を歩き回らないでください。川に落ちてもすぐには助けに向かうことはできませんので」

スタンが苦笑を引っ込めて真剣な顔をする。

「うん。大丈夫。言われたことは守るから」

「よろしくお願いします」

そう言って、スタンが林の中に入っていく。魔物がいないかの確認のためだ。僕は戦えないから。

一番危険な役目をお願いするのは申し訳ないけれど、スタンは文句も言わずにやってくれる。ありがたい。

僕はまず川べりの草原に使づいて、ガマの穂や薄の穂など、火口に使えそうなものを探す。同時に、よく乾燥した草の葉や細い枝を集めて一か所に積んでおく。

その後川の水を言われた手順で集め、簡単にろ過してから鍋に貯めていく。井戸水より格段に質は落ちるけれど文句も言っていられない。

それから、なんとか天幕を張って簡易の寝床の準備をしていると、スタンが戻ってきた。その手には薪として使えそうな木切れ棒切れが一抱えもある。さすが仕事が早い。僕の仕事が遅いというべきか……。

彼の持ってきた木材を利用して火を熾して、お湯を沸かす。

ここまで終わらせてやっと人心地がつける。野宿は大変だ。

簡単な食事を終わらせて、僕らは向かい合わせに火にあたる。まだまだ寒い。

「さて」

僕が会話の口を切る。

「今この時この場所でなら、話をするのに比較的良いかもしれない。曇り空で星もない。まだ虫たちは眠りから目覚めたばかり。木々もこの時間はまどろんでいる。今この場で話されることは誰の記憶にも残らないだろう。まるで、内緒の話をするのにもってこいの、秘密の小部屋のような場所じゃない?」

「どういうことですか?」

「見立てだよ」

「見立て、ですか?」

「スタンも、そう思って。今僕がいったことを信じて。想像して。ここは人気もない遠い遠い場所。どこからも孤立して、誰もその存在を知らず、時の流れからも外れたどこか。近くかもしれないし遠くかもしれない。この世にあるかもしれないし、ないかもしれない。動物植物どころか虫さえもいない場所だと。星の光も届かず、黄金の輝きも色褪せる。そういう場所だと強く信じて。信じれば、本当になる」

「わかりませんが、わかりました。そう考えることが必要なのですね?私に上手くできるかわかりませんが、そのような場所に私たちはいるのだと、想像すればよいのですね」

「スタンならできるよ」

「はい」

「細い道を進む。どこに繋がっているのかわからない。周りは暗く闇に覆われ、足元さえもおぼつかない。君は何も持っていない。ただ、その身一つで進んでいく。時はその歩みを止め、僕らだけが、世界の果てにたどり着く」

風もない静かな夜。何もかもが眠りについているような。

「全てを話すことはできないんだ。何が良くて何がダメなのか、実は僕にもわからないから、できる限り当たり障りのないことだけを話そう。これから話すのは御伽噺だよ。口を挟んではいけない。質問してはいけない。これから話すことは、人に話してはいけない。知っているそぶりを見せてはいけない。世界が……運命が……君を、見つけてしまうかもしれないから」

「そんな壮大な話なのですか?」

「馬鹿馬鹿しい話だと、思うかい?」

「いえ、その、すみません」

「いや、気にしていないよ。それでいいんだ。馬鹿馬鹿しい話だと思いながら聞いて欲しい。あぁ、うん。素晴らしい。君は本当にすごい」

「それは褒めているのですか?」

「もちろん。君はきっと勘が良いんだ。身を守る術を、最初から知っているんだ。なかなかできることではない。これまで君が僕の身の上について、質問しなかったのも、きっと同じ。君は、知るべきではないと、知っていたんだ……」

母さん……。

「これから話すのは、一人の女性の話だ。壮大な嘘をつき通した、きっと世界にも類を見ない、ただびとの物語だよ」

不安が押し寄せる。さざ波のように静かに足元を濡らしていく。

「昔々あるところに、一人の女性が居ました。彼女は心根が実に清く優しく、ほとんど嘘を言ったことのないような正直な女性でした。彼女は貧しくて、幼い頃から奉公へ出ていました。何年も働いた後、子供を身ごもりました。生まれたのは男の子でした。相手は奉公先の若旦那。その妻は烈火のごとく怒り、彼女に子供を殺すよう迫りました。その家に男児はまだいなかったから。彼女は必死に抵抗しました。逃げようとして、けれど、できませんでした。恐慌状態に陥った彼女は、思わず、とっさに口から出まかせを言いました。この家に災いが降りかかると。果たして、翌日ことは起きました。庭の木に落雷があり、そこから生じた火が母屋に燃え移って、その家の主だった者たちが火にまかれて死んでしまいました。彼女は恐れ、実家へと逃げ帰りました。その時から、運命は回り始めた」

母から聞いた話だ。詳しいことは教えてもらえなかった。

「彼女は僻地の村へ帰り、男の子を育てました。そうして一年二年と過ごしたとき、ふらりと彼女の元を人が訪ねてくるようになった。一人、また一人と、彼女のもとに人が来た。それは、住み込みで暮らしていた町の人たちだった。道を示して欲しいと……。大きな予言をなしたあなたなら、自分たちのちっぽけな人生も見通せるはずだと。その女性は拒絶したが、相手はあきらめなかったそうだ。さらに悪いことに、一番最初に来た人が、彼女が大変お世話になった女性だったという。彼女は断りきれず、相談という体で話を聞いた。そして、助言をした……。奇しくも彼女の助言は功を奏した。魔法のように劇的に。一人目がうまくいけば、次の人がくる。あとかあとからやってくる。彼女は困った。自分には未来を見通す力などこれっぽっちもないと知っていたから。けれど、相談にくる人は後を絶たない。みなが彼女に報酬を支払う。女性の家族らは、金になるからどんどんやれと言った」

僕にその時やってきた人たちの記憶はない。小さかったから。ただ、家の中がばたばたしていたことと、母があまり笑わなかったことはなんとなく覚えている。

「彼女の名は広く知れ渡り、時の権力者に見つかってしまった。彼女は妄言を振りまき、世を乱したとして連れていかれた。子供とともに。子供は六歳になっていた。彼女を処刑するというのは見せかけだった。彼女はこっそりと王宮深くに囚われた。予言を成さしめるために。彼女の息子は人質だった。予言を無理やり引き出すための。女は息子の無事と引き換えに、承諾した。けれど、その約束は一部果たされなかった。男の子は奴隷の身分に落とされ、城で働かされたと言う。そうして七年の時が過ぎた。彼女のすごいところは、その精神力だった。どんな逆境にも耐えた。未来を見通す力がなくとも、賢く立ち回り、彼女は助言を授けた。彼女が頑張れば頑張るほどに、彼女は逃れられなくなっていった」

僕は母のことを誰よりも尊敬している。世界で一番に。たった一人で、自分と自分の子供のために、孤立無援の中を戦い抜いたのだ。その知恵と勇気だけを頼りに。

「強い彼女は、人であるがゆえにしかし疲弊していった。心が摩耗していった。終わりのない日々の中で。そんな時。彼女と彼女の息子を助けてくれる人が現れた。逃がしてくれると言った。教会の人だった。城で匿われ密かに働かされている彼女を憐れみ、城からの出奔を手伝った。無事に逃げ出した二人は、その後も、教会の助けを借りて、町や村を転々としながら、移動し、ついに安住の地へと逃げ延びた。一年近くが経っていた。二人は小さな田舎の町で幸せに過ごした。そのはずだった。けれど、二年しか、幸せは続かなかった」

終わりは突然やってくる。いつだって。

「彼女はある日、どうやってか、世界の破滅を知った。彼女はただびとだったから、その運命を覆すなどとうていできようはずもなかった。けれど、それでも彼女はなんとかして自分の息子だけでも助けたいと願った。生まれてからずっと心休まるときの無かった息子に、幸せを経験させたいと願った。彼女は息子を連れて氷室へと走った。この辺りで一番厳重な場所だと彼女は考えたから。そして、僕を氷室の中に押し込むと言った」


――遊びをしましょう。簡単な遊びよ。あなたが友達とよくやるおまじないのような。これはおまじないの一つ。見立てと言うの。


「彼女は息子に教えた。見立てという遊びを。氷室は彼らの家だと、隅々まで想像するように言った。家具や匂いや小さな汚れまでも。彼は怖いと言った。氷室の中が暗くて怖いと。それは、自分だけが助かることを恐れた彼の言い訳だった。一緒に母にも隠れて欲しいと願ったから。そんな気持ちを知ってかしらずか、彼女は言う。あなたならできると。この暗闇は夜なのよ。想像して。子供の頃一緒に眠った小さな部屋を。夜、ランプの火を落として、二人で一緒に眠った夜を」


――眠ったらあっという間に朝が来る。ね?怖くない。眠っている間は、怖いことなど一つも起こらない。全てが眠りにつくから。人も動物も魔物も、神さえも……。


「男の子は、母親に質問した。母はどうするつもりなのかと。彼女は答えた。あなたが眠りにつくまで、怖いものがやってこないように見ていてあげるのだと。だから、おやすみなさい。良い夢を。明日、新しい生活が始まるから、と」

声が震える。止められない。

「男の子は眠りについた。長い長い眠りに」

僕はスタンを見る。

「三百年前のことだよ」

スタンが呆けた顔を見せた。にわかには信じられる話ではないから。

「僕は大災害と君らが呼ぶときよりも前に生まれた。ごめん。僕は君に二十三歳だとあの時言ったけど、あれは嘘なんだ。本当は十七だった」

僕はスタンをの顔色をうかがう。怒っていないだろうか。僕は意図して話題を逸らす。

「申し訳ないと思っているんだ。あのとき、君のことを思うと、本当のことは言いだし難かったんだ。だって、年下が自分の主だなんてあまり気持ちの良い物ではなかったはずだから」

スタンは穏やかな顔で言う。

「そんな気を回す必要などなかったのに。私は本当のことを言われたとしても、気にはしなかったでしょう。それに、年齢の件はなんとなく察しておりました」

「そうなの!」

「ええ、まぁ……」

スタンが思わずという風に笑って、けれどすぐに元の硬い表情に戻る。

「あなたは見立てとおっしゃいました。それは結界のようなものなのでしょうか?」

スタンは僕に問う。意図して、話の大筋からそれた些細なことを。僕が質問してはいけないと言ったから。ありがたい。僕はその好意に甘える。

「いいや。なんでもいいんだ。例えば、そう。ここにある木の枝。これが魔法の剣であると強く強く信じ込むことができるのなら、魔法の剣となるんだ。もちろん、それだけでは成功しないけどね。時や条件や儀式や呪文や決まった手順や星の巡りや生贄や、そういった装置が本来は必要だ。簡単なものは、なくても成功するけれど」

「もしかして、昨日の野営地にも?」

「さすがだね。そう。僕は見立てを施した。何物も近づかないようにと」

「道理で魔物の気配のみならず、野生動物の気配もなかったのですね」

「効果はごく弱いものだよ。気休めさ」

沈黙が落ちる。僕にはもう話せることはない。けれど、スタンがこの話ですべてに納得できるはずもないことはわかっている。

「あなた自身のお話しがほとんど語れなかったのは、語ることができないからと考えてよろしいのですか?」

「そうだよ。語ってはいけない。君は知ってはいけない。君が誰かに語らなくとも、君がそれを知っていると悟られるだけで、何が起きるかわからないから」

「誰にですか?」

「誰かに、だよ」

「私にはわかりません」

「それでいいんだよ。僕にもわからないんだから。もしかしたら、神さえも知りえない、何者からも忘れ去られたような場所があれば……」

そんな場所でなら、話をすることもできるだろうが、そんな場所はありはしないだろう。

「さぁ、今日はもう寝よう。疲れちゃった」

「はい」

「お休み。良い夢を。僕と一緒にきてくれてありがとう」

「……はい」



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