第13話
「治った!治りましたよ!」
早朝、隣のベッドからスタンの歓喜の叫びが響いてきた。
そう、と僕は呟いて布団を引き上げる。かなり早い時間だ。
昨日の夜の段階で、かなり右手の調子が戻ってきていたから、想像の範囲内だ。今日明日には、と思われた。
昨夜のスタンは子供のように目をキラキラさせていて、なかなか寝付けない風だった。その興奮冷めやらず、早起きまでしてしまったのだろう。もしかしたら一晩中寝ない可能性もあったから、寝ないとよくならないよと脅して、眠りの魔法を掛けた。
僕の魔法は弱いから事前に外を適当に走って来てもらって、気休め程度に効きやすいだろう状態になってもらうことさえした。
実際どういうタイミングでおまじないが彼の怪我に作用してそれが治るのか、全く僕は知らないのだけれど。
彼の顔を見ればわかる。ずっとずっと右手が自由に動くようになることを夢見ていたはずだ。僕に逢うまで。
でも眠いから。僕は昨日のマッサージで疲れてるから。
むにゃむにゃ、僕はおめでとうと言いながら夢の扉を再び叩く。
きちんとした言葉はちゃんと目覚めてから。
そう思って、体を丸めると、毛布が剥がされる。ひんやりなんてものじゃない。冷たい朝の空気が、首や足や顔や剥き出しの部分に触れるのみならず、薄いシャツの隙間からも侵入してきて、ぶるりと体が震える。
「ちょ、スタン。寒いから」
僕の抗議の声が聞こえたのか聞こえていないのか、スタンが僕を引き起こす。力が籠められるようになった右手で。
「ありがとうございます!」
そういって力いっぱい抱きしめられる。
それはもう万力で僕を締め上げるがごとくに。
「僕の力じゃないよ」
「それでもです!本当に!本当に!嬉しすぎて頭がどうにかなってしまいそうです。この感謝の気持ちをあなたに完全に伝えることができたなら!」
「十分伝わっているよ」
「いえ!そんなものじゃないです!見くびらないでください!あぁ、本当に嬉しい」
そういってぎゅうぎゅうしめつける。見くびるとは?そうは言うけれど、スタンが先ほどから僕の顔を見ないのは恥ずかしいからだろう。僕の胸元が少し濡れている気がする。
僕はそんなことに気付かないふりをする。
「本当に戻ったみたいだね、腕の力が。痛い痛い痛い」
僕の悲鳴を聞いてスタンが笑う。今泣いた烏がもう笑うとはこのことか。
「そうしたら、腕のリハビリも始めないといけないね」
「そうですね!忙しくなります!」
満面の笑顔で語るスタンの顔は、もう以前の彼じゃない。痛々しい傷跡は体中にあるけれど。卑屈な彼はもういないのだ。
このいたずらっ子のような姿が、スタンの本来の姿なのだろう。
「傷も、治るかもしれないよ?」
僕がそう言うと、スタンがはっとしたように僕を見る。
「どうする?試してみる?」
「いえ、この傷は私自身への戒めのためにそのままにします。それにこれ以上を望むのは身に余る願いです」
「そう」
「それに私はこの傷が嫌いではないんです」
「そうなの?」
「なんか、格好いいじゃないですか」
「えぇ……」
こちらをみてにやりと笑っているので、本気なのか冗談なのかわからない。
「私の顔の良さは、この程度の傷では損なわれません。むしろ色気が添えられたと言っても過言ではないのです」
そう言って、意気揚々と普段よりもずっと早い時間からリハビリへと出かけていった。最近は、散歩ではなく走り込みをしているらしい。
彼は日に日に身体機能を回復していく。日に日に生き生きとしていく。日に日に過去の影響が薄れていく。けれど、その身が完全には戻らない。男の尊厳は失われたままだ。
表面上は全く気にしていない風だけれど、その顔の裏でどう感じているかまでは僕にはわからない。ここから先は本人次第だ。失われたものは戻らない。僕にしてあげられることはもうない。
そこまで考えてはっと気づく。そうだ。
眠気はどこかへ行ってしまった。朝の太陽がすっかり顔を出している。人々が活動を開始する。
春はもうすぐだ。
一か月たった。
スタンはもう普通の人と遜色ないくらいに体が出来上がりつつある。やせ細っていた手足の、あばらの浮いていた体の面影はもうない。
その日、運動から戻ったスタンに僕は声を掛ける。
「一緒に出掛けよう。行きたい場所があるんだ」
「占いは今日はお休みですか?」
「たぶんね。用事次第かな」
「かしこまりました。どちらへ?」
「内緒」
「……わかりました。いつでも出かけられるようにしておきます。あなたの準備が済みましたらお声がけください」
「うん」
それから朝食を食べて、細々としたことを片付けてから揃って宿を後にする。
「ここですか?」
いつもの教会へついた。
「そ。中へ入ろう。話は通してあるんだ」
僕たちは聖堂へ足を踏み入れる。巨大だ。
手近のブラザーに声を掛けて、エマニエル司祭に面会したい旨を伝える。約束があることも。
すぐに僕らは奥へ通された。
小さな小部屋だ。装飾はやはり美しかった。よく掃除が行き届いている。
「どうぞおかけください」
「ありがとうございます」
そう言って僕らは二人隣り合って腰かける。
「奴隷契約の解除ということでお間違いないですか?」
「はい」
スタンが隣で驚きの声を上げる。
「聞いていません」
「黙っていて」
「ですが」
「スタン、司祭様の御前です。失礼ですよ」
「……はい」
「良いのですよ。あなたがユージン。お隣コンスタントですね」
「はい。彼は縁あって僕の奴隷となりましたが、そろそろ解放しても良いと思いました。彼に、市民としての権利の回復をお願いしたく思います。彼は十分に働き、神もきっと彼の徳を高く評価してくれるものと期待しております。どうか、エマニエル司祭様。彼に新しい旅立ちの祝福をお与えください」
「承りました。寄付はお済ですか?」
「はい。先週問い合わせさせていただきました折に」
「なるほど。よろしいでしょう」
「お待ちください」
スタンが口を挟む。
「私は望んでおりません!」
「スタン」
「いえ、引き下がりません。これは私たちの問題です。何故私に一言相談くださらなかったのですか?」
「必要ないからだよ」
「そんな」
「よく考えて。奴隷契約を解除することに、どんなデメリットがあるの?奴隷契約を解除しないことにどんなメリットが?今まで僕が君との契約を解除しなかったのは、君を守るためだ。君一人では生きて行けない。あの時の君を解放したらどうなっていた?でも、奴隷であれば話が違う。奴隷契約があれば君は僕の所有物となる。所有物であるなら、僕は君を守ることができる。誰も他者の持ち物に暴力を振るうことは許されていないから。君が一人この街に放り出されていたらどうなっていた?生きて行けなかった。だから、今まで僕らの関係は維持された。でも、もう君は以前の君ではない。体の機能のほとんどは回復し、もう一人で生きていける。誰にも傷つけられない。君は強いから。なら、これからはきちんと人間として人生を歩まなければ。奪われた時間を取り戻すことはできないけれど、新しい時間を生きて行くことはできる。そうでしょう?」
「まだ恩を返し切っていません」
「それは奴隷じゃなくてもできるでしょう。違いますか?」
「はい。ですが!」
スタンが言葉を探す。彼は賢いから、自分の主張に何の筋も通っていないことに気付いているはずだ。彼を縛り付けているのは、僕への恩と、感傷だろうか?そうであったら嬉しい。僕らのこのいびつな関係が少しでも特別なものだと思ってくれるのなら。
「私に相談してほしかった……」
「それに奴隷契約が解除されても、僕らは友達だ」
「これからもっともっとお役に立つはずだった……」
「スタン」
「はい」
「ね。よく考えて。君は自由になれるんだ」
「そして、私をおいていくのですか?これから恩を返すことはいつでもできるとおっしゃるけれど、それをする機会を私に与えないままどこかへ行ってしまうつもりですか?」
「そんなことは……」
図星だった。
これ以上彼と強く近く関係が結ばれるのは、良くないとずっと考えていた。
「誰かと深い縁を結ぶのをあなたは避けていた。違いますか?なら、あなたは私との縁も切ろうとするはずです」
「……君はもう好きに生きられるでしょう。自分の未来を自分で選び取って、その足で歩きたい道を行き、欲しいものをその手に掴むことができる」
スタンは何も言わなかった。
「司祭様。お願いいたします。彼に、新しい道をお示しください」
「わかりました。引き受けましょう」
「ありがとうございます」
「……ありがとうございます」
スタンが小さい声で答えた。
すぐにブラザーが呼ばれ、契約解除の魔術の準備がなされる。
「手順は簡単です。私の右手をユージン、私の左手をコンスタントが握ってください。私が神に祈りを捧げた後、契約の解除を宣言します。それに、はいと答えてください。あなた方の体から、契約魔術の媒体が光となって抜け出ていくのが見えるはずです。それで、契約は解除されます」
「わかりました。とても簡単なのですね」
「ええ。では、始めましょう」
そう言って司祭が両手を前に突き出したので、言われた通り、僕が右手、スタンが左手を握った。
ドキドキする。
司祭が素晴らしい低音で歌うように祝詞を詠みあげる。謳いあげると言ってもよい。
明り取りの窓から、陽光がさんさんと降り注いでいる。荘厳な雰囲気だと感じた。
しばらくのち、司祭が声を高く言う。
「契約の終わりの時はきた。神は汝らに新しい道をお示しになる。ユージン、あなたは恐れず前へ進むことを誓いますか」
「はい、誓います」
「コンスタント、あなたは振り返らずに前へ進むことを誓いますか」
「……はい、誓います」
その瞬間、僕らの体から契約魔術の残滓が、光となって出てくる、はずだった。
一分。二分。
あれ。
司祭様もおつきのブラザーもうろたえだす。
おかしい。何か異常が起きているらしい。
スタンが怪訝な顔付きで司祭を見て、それから僕の方を見てにやりと笑った。
おもしろくなってきたぞ、とその表情は言っていた。
「も、もう一度最初からやってみましょう」
司祭様が取り繕うように言う。
僕にはどうしようもないので、はいと頷くしかなかった。
結局二度目の儀式もなぜかうまくいかなかった。
僕らの奴隷契約自体がうまくなされていないのではと聞いてみたが、契約魔術の存在の気配はあるのだと司祭様は言った。
ただ、なにか原因不明の理由により、解除されないのだと言う。
司祭様はじめブラザーシスターたちが恐縮して頭をさげる。
もっと大きな街のもっと格が上の司祭様に頼むよう言われてしまった。
そんなことがあるのかと聞いてみたが、司祭様自身初めてのことだと言う。
わからん。
そんなわけで僕らは宿への道を歩く。
「残念でしたね!」
うきうきな様子を隠そうともせずスタンが言う。僕の顔をちらちら見ながら。その視線は、あなたの企みは潰えましたねと言っている。
「神は言っているのですよ。まだ離れるべきではないと」
「そうかなぁ?」
「そうですよ」
スタンが僕の前に回り込む。
そして、膝を折って僕を見上げる。
その目は真剣だった。
そして、手を差し伸べながら深く頭を垂れる。
「どうか」
厳かな声だった。
「どうか、今しばらく私をお側においてください」
「君は自由になれるはずだったのに」
「ちっぽけな身ではありますが、どうか機会をお与えください。あなたの支えとなります。お願いします
」
「けど」
「今一度、ここに宣言するとともに誓います」
鼓動が早くなる。
「この命をあなたに捧げます。一度失われた命です。無為に消えていくはずの命でした。あなたが救い上げてくださった。どうか、私に使命をお与えください。あなたの孤独な道行きを照らす光となることを誓います。あなたの前に立ちふさがる困難を打ち払う剣となることを誓います。あなたに降りかかる災厄からあなたを守る盾となることを誓います。どうかこの命をあなたに捧げさせてください」
何も言えない。
「許すと」
「でも……」
「許すと。どうか」
「僕は、そんな……」
「この手を取ってください。お願いします」
鼓動が早鐘のように打つ。うるさい。
逡巡。
一人。
運命。
母さん……。
僕の腕が勝手にスタンのほうへ伸びる。
これは僕の意思なのか?
指が震える。
ダメだ。
ダメだ。
ダメだ。
「どうか」
スタンが震える声で言う。
あの時と同じだ。
最後の審判を待つ小羊が震えてその言葉を待つように。
僕の指が、スタンの指先に触れた。
その瞬間、力強く手を握られた。
スタンの大きな手が僕の手を握り込む。
放さないというように。
離れないというように。
それから、スタンが顔を上げる。
僕の顔を見る。
彼が嬉しそうに破顔した。
※将来的に生えてきます
※自分でもなぜ去勢させられた設定にしてしまったのか、それが分からない
※キリの良いところまで書き上げられました。仕事が忙しく、この先が書けるかは不明です。
長い眠りの後で たろう @under_sorrow
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